世界大戦の主原因は石油 米国市場に侵入する石油業界のナポレオン、そして日本https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/43f77fe5447587a3dcb8e93115b8c3db
からの続き
メキシコの赤い犬
1870年代、南部太平洋鉄道がニューメキシコやアリゾナ州の砂漠地帯を横断して鉄のネットワークを敷いていた時、馬や騾馬(らば)は灼熱のために次から次へと斃(たお)れてまいました。 そこで、シリアから駱駝(らくだ)を輸入して馬に代わらせることとなりましたが、これらラクダ隊と共に、鼻下に髭をはやした皮膚の黒いシリア人の一帯が馭者(ぎょしゃ:馬を扱う者)として米国に渡ってきました。
このシリア人の中の一人は鉄道工事が一段落すると、ラクダを捨ててメキシコに行きました。 彼は土地の夫人を娶(めと)って土着し、大勢の子供が出来ました。 そのなかにプルタルコという名の子供がいました。 プルタコは成長すると、愛国心に燃えるメキシコ人となり、その名も母方の姓をついで、プルタコ・エリアス・カイエスと名乗りました。
カイエスは急進思想を持ち、学校の先生になったり、読書三昧にふけっている間に、トーマス・ペインやカール・マルクスの学説に傾倒し、遂には労働運動のリーダーとなった彼は、米国国境に近いソノラの瘦せ地に住んでいました。 この地方は石油産地でないので、彼もなんら石油に興味も惹かれなかったし、デターディングやロックフェラーやドーニーの手もここまでは伸びてきていませんでした。
しかし、このソニノラの山岳地帯には、銀や銅などの鉱物資源が豊富に埋蔵されていて、外国資本の侵入につれ、幾多の闘争や非惨事が繰り返されていました。 カイエスは若くしてストライキの扇動者となり、メキシコ人労働者の父として活躍し、遂にはグリーン・カネア会社からは仇敵として睨まれるようになりました。
マデロがディアス政権打倒の烽火(のろし)を挙げた時、カイエスは革命軍に投じました。 彼はマデロの背後に、英・米のオイルマンの魔手がのびていたことは知らず、自ら陣頭に立って革命軍の指揮に当たりました。
日本で、中国の魔手が伸びている、安倍・高市を、愛国保守と信じ、人の噂に流され、自分の頭で考えれない阿呆達と同じです。
安倍晋三(元首相)暗殺の真相
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武将としてのカイエスの才能は認められ、その官位は驚くべき速さで昇進しました。 そして彼の司令官はその部下の将官が倒れた時、この労働運動出身であるカイエスを将官に任命したのであります。
彼の才能を認めて破格の抜擢を行ったのは、北部メキシコの将軍アルヴァロ・オブれゴン将軍で、以来カイエスはその同志として行動を共にしました。
1920年、カイエスとオブレゴンは、カランザ大統領に対しての反旗を翻しました。 カランザは、米国の後援によってメキシコを支配するようになったのですが、彼は決して英・米いずれの味方でもありませんでした。 彼は土地法を改正して、地下資源の国有化を主張したり、土地没収法を制定したり、重税を課したりして、英・米の区別なく、その石油利権に圧迫を加えました。 その点では国家的な革命家ということが出来ましたが、その内政ぶりは暴君的で、農民に対する圧迫は目に余るものがありました。
ここに、北部メキシコを地盤として勢力を張っていたオブレゴン、カイエスの両将軍およびアドルフォ・デ・ラ・ウェルタ(暴君ウェルタとは無関係)という弁護士、この三人はマデロ元大統領の革命的理念を擁護し、土地に対する農民の権利を確認し、メキシコ人のためのメキシコを建設し、労働者を擁護しようとの理念に燃えて、「再擁護革命」の火の手をあげたのです。多くの武将たちはこの計画を熱心に支持しました。
タンピコのデリック(クレーンの一種)から湧き出る石油のおかげで、いつもポケットに札束をうならしている外来人を知っている者も革命に投じてきました。 革命本部では熱心に作戦がめぐらされました。間もなくカランザは亡くなりました。 彼の部下の一人が、不意をついて背後からピストルの弾丸を叩き込んだのです。 かくて三人の革命男は堂々とメキシコ政庁にのりこんでいきました。
理想主義者で音楽と美術の愛好家である、眼鏡をかけた小柄な弁護士が新政府の臨時大統領となりました。メキシコ憲法の選挙規定によって、このデ・ラ・ウェルタを臨時大統領に就任させる件はについては、米国の老獪を得ました。 当時、共和党政権を樹立した米国政府は、カランザ前大統領の反対者であれば、石油利権問題も公平に取り扱われるだろうと考えていました。 従って、デ・ラ・ウェルタが退陣して、オブレゴン将軍が大統領になった時も、石油戦線は平和と繁栄に恵まれるものと予想していたのです。
しかし、世界大戦の勃発によって、一時中止した世界石油戦は、大戦の終息とともに再び火の手をあげて燃え始めました。英国とフランスの間には、サン・レモ協定によって近東における油田の分割を行いました。デターディングは宿敵米国に対して、生産、市場、保存の三方面にわたる攻撃を開始しました。彼の前には、既にドイツもなければカランザもありません。 当時、米国を除いて、世界最大の石油生産量を示しつつメキシコがある限り、デターディングは、メキシコの石油を遠慮なく汲み取り、近東地方の石油は将来のために保存してくことができます。 英国政府はこの方針を支持するし、オブレゴンも積極的には反対しませんでした。
オブレゴンは彼の片腕のカイエスの急進的で反資本主義的思想を支持すると同時に、石油によって歳入の増加を図ろうとしました。最初の理念はどこにいったのでしょうか? オブレゴンは前大統領カランザの法令を復活し、英・米両国を張り合わせて漁夫の利をしめようとの政策を取り始めました。
その頃、メキシカン・イーグル石油会社の事件を握るカウドレイ卿は、業界から隠退しようとして、その株を売ろうとしました。それより10年前の1911年、スタンダード石油はメキシカン・イーグルの買収を企図してカウドレイ卿の拒絶にあったことがあります。1913年にはデターディングも買収を計画して、やはり同じ運命に陥ったことがあります。
カウドレイ卿が一株につき、3ポンド要求したのに対し、スタンダード石油もロイヤル・ダッチ石油も2ポンド15シリングまでしか出そうとしなかったのです。 メキシカン・イーグルの株は、額面メキシコ金で10ドル、即ち英貨で1ポンド足らずでしたが、数年の間に驚くべき率で値段が上がっていました。 カウドレイ卿が隠退の意思を表示した時、まず米国の石油会社が飛びついてきました。もし、これが米国の手にわたれば英国石油の一大驚異です。当然の結果として、英国政府の手が伸のてきて、っデターディングが乗り出してきました。
デターディングは、一株6ポンドで買うことを申し出て、ここに1919年6月、両者の間に契約が成立しました。 その結果、デターディングのロイヤル・ダッチ石油が150万株、サミュエルのシェル輸送会社が100万株を買うことになり、メキシカン・イーグルは英国(ロスチャイルド財閥)の世界最大トラストである、ロイヤル・ダッチ・シェルの支配下に置かれることとなりました。 米国のメキシコ石油独占の夢は,むなしく挫(くじ)かれてしましました。
ロックフェラー率いるスタンダード石油は、今まで紹介してきたように、何度もロスチャイルドに煮え湯を飲まされているのです。
石油に屈伏
オブレゴン大統領の政策は、カランザほどに強硬ではありませんでしたが、依然として1917年の憲法によって、メキシコの存立を毒する外国の干渉から永久に解き放たれることでした。 そして、その政策の第一着手として、石油の輸入関税を60%に釣り上げた時、リオ・グランデの北にある米国には、喧々諤々(けんけんがくがく)の非難の叫びがあがりました。 しかし、英国の立場は有利でした。
カウドレイ卿は予(かね)てからメキシコ系の会社と協力吸うことにより、メキシコ人の間に人気があがりましたが、米国人はこれらメキシコ系会社を頭から馬鹿ににしていました。 こうした有利な外交的利益を利用して、英国は密に大統領と関係をつけ、採掘権の範囲を拡大しようとしました。
しかし、オブレゴン卿も相当な曲者(くせもの)でした。 彼はこれら英国側の密使の口上に身も傾け、好餌をもって外交辞令を用いましたが、彼は最も有利な取引をしようと計算していました。 彼は何よりもお金を必要としていました。さらにウォール街はメキシコの排米政策をけん制するために、数代にわたる前政府の古い借用書を持ち出して清算方法を要求していました。
矢のような催促にたまりかねて、1923年にウォレン・ペイン協定が成立し、ウォール街の要求に対処すべく委員会が設置されることになりました。 こうして、メキシコ大統領にとって最も重要なことですが、オブレゴン将軍はメキシコ大統領として、ワシントンの承認を得ることとなったのです。
その代償として、オブレゴンは従来の革命的理念を投げ出したのです。 もちろん、その戦友だったカイエスの意見も抹殺し、外国石油権益を危機に陥れた、没収(憲法第27条)の強化実行を行わないことも約束させられました。 200条にのぼるメキシコ憲法は、外国の略奪と貪欲からメキシコを守る精神からでたものであり、このためにこそ、内乱が起こり、無用のお金お浪費したにかかわらずです。
これら条款の中には俗語と化したものがありました。 日本でいえば憲法九条のようなものです。
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日本の阿呆たちが岸信介を愛国保守としていますが、同じA級戦犯だった満州国の盟友・東条英機が絞首刑になるのを横目に、命が惜しくなったのか、鬼畜米英と戦争を煽った岸信介は、GHQに尻尾を振り、巣鴨刑務所から釈放され、日本の首相にまでならせてもらいました。
そして岸信介政権で日本の軍隊をすべて解体し日本はアメリカの意図通り安全保障をアメリカに依存するようなったのです。 これが、岸政権で締結された日米安全保守条約であります。
日本の首都である東京周辺には米軍基地がありますが、GHQの日プロパガンダ機関である日本のメディア(TV・CMなど)を牛耳る電通は日本を守ってくれているとプロパガンダし岸さん安倍さんありがとうと信者の阿呆共が言いますが、これは日本が少しでもアメリカに逆らったら、その瞬間に米軍基地から戦闘機がとんできて、また東京を焼け野原にできるということです。
ちなみに、日本では共和党、およびそのバックロックフェラーが愛国保守で、日本をも守ってくれているとメディア(電通・TV・CM・新聞・雑誌)は宣伝しますが、東京大空襲行ったB-29戦闘機は、ロックフェラー財閥(共和党のバック)の兵器会社・ボーイングでしょうが。 原爆を落としてくれたエノラゲイももボーイングB-29の機名です。ちなみにB-29のBはボーインング。
岸・安倍が憲法改正?、お前が言うなということです。 もt論私は、憲法改正は絶対必要という意見です。 なんで自国の軍隊を解体せねばならんのだ、アホか?
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話を、メキシコの石油に戻します。 メキシコ憲法第33条は不逞外国人の追放処分を規定していしたが、これは一度発動したことがあり、ニューヨーク・タイムズの特派員が追放処分になったことがあります。 そしてタイムズ紙上(NYTimes、Timesどちらもユダヤ系メディア)では、「追放された」という代わりに「第33条された」という表現を用いて有名になりました。
豹変したオレゴン大統領の政策に対して、米国政府は進んで援助していましたが、メキシコ国内には危険な敵手が風雲を望んで機を窺っていました。革命三人男の一人であるデ・ラ・ウェルタは自ら大統領候補候補者を以って任命していました。ウォレン・ペイン協定を締結したも彼ですし、ウォール街の人気も悪くないはずですから、オブレゴン大統領の後を継ぐ者は自分であると信じていました。ことに彼は石油に関しては頑固な排他的考えはもっていませんでした。お金儲けできますから、理念などドk吹く風です。
これに対し、カイエスの思想は違っていました。 彼の思想は急進的で、革命のプログラムを環椎することでした。彼にとってはウォール街の後援もオイルマンの援助もンなんの価値もありませんでした。 彼の背後には自らtr塩にかけた労働団体があり、オブレゴン一派は農民の間に味方を持っていました。
デ・ラ・ウェルタはこうした情勢からみて、オブレゴン将軍下には多数の兵士があり、カイエスの傍らには労働者が控えている限り、大統領の御鉢(おはち)が回って子なる希望のないことを悟り、不満を抱いている大勢の将軍を味方に惹きつけました。米国人のオイルマンの中には強硬ではありませんが、依然として石油保護法の番人であるオブレゴンを倒して、デ・ラ・ウェルタを大統領に擁立すれば、オイルマンにとって不利な法律を廃止するだろうと思っている者がいました。 これらの野心家の後援を得て、デ・ラ・ウェルタは遂に革命の火の手を上げました。
これは、カイエスにとって絶好の機会でした。 彼を支援する労働者たちは、手に銃をとり、革命軍めがけて進軍していきました。 ワシントン政府はオブレゴンを援助する態勢に出たので、米国製の武器はカイエスとオブレゴンン軍隊に流れていき、デ・ラ・ウェルタ軍に対する武器禁止を強化しました。 結果は明らかです。
革命軍は敗れ、デ・ラ・ウェルタは命からがらロサンゼルスに逃れ、ハリウッドの俳優の声楽教師という、極めて平和的な職業を選ぶこととなりました。 カイエスは勝ちました。そしてオブレゴンの後を受けてメキシコ大統領に選出されました。彼の出馬に関してはオイルマンの反対がありましたが、彼は別にその報復を行おうとは思っていませんでした。彼は、元々石油について大した興味をもっていませんでした。
しかし、彼の目標はもっと急進的で、農民に土地を与え、教会の勢力を圧迫し、労働階級に力を与え、すべての地下資源はそれが、スタンダード石油の名義であろうと、デターディング利権になっていようが、これを国家の所有とすることにあったのです。
アメリカ vs メキシコ 戦争前夜
カイエスにとっては、メキシコの胎内を蝕む癌は石油ではなく、ソノラ地方の銀であり、ウルアパンの珈琲であり、グアダハラの教会でした。 彼には大掛かりな石油戦についての知識はなかったのです。
その頃、タンピコは混沌(こんとん)たる形相を現していました。 メキシコ湾に臨み、パスコ河を挟んだタンピコには無数の油槽船(タンカー)が入れ替わり立ち替わり出入りして、軍艦・戦車・飛行機・自動車などを動かすための石油を。英国や米国はもちろん世界各地に運んでいました。
赤道下のタンピコ、マラリア菌の媒介者の蚊がうなる沼沢に覆われたタンピコ、そして黄熱病で有名なタンピコ。 ソノタンピコは今や世界の石油業者の戦場と化していました。 そこには娼家、賭博場、酒場が軒を連ねスタンダード石油やメキシカン・イーグル、ドーニー、シェルなどの諸石油会社から支払われる金で繁盛していました。
そしてまた、そこには血と金と女を求める地方軍閥の隊長たちもいました。彼らはもちろん。軍人というよりはギャングと負った方がよい存在だったでしょう。 彼らは金になりさえすれば、米国側にも英国側にもつき、敵方のデリック(クレーンの一種)に火をつけることも平気です。
もし、小さな牧場主が土地を売ることを承知しなかったら、石油会社は隊長に金を渡しさえすれば、よかったのです。彼はピストルによてどうにでも片を付けることが出来ました。こうしたギャングの間に、カイエスの使途たる労働運動者が活躍しました。 彼らは石油労働者の団体をつくり、ストライキや工場閉鎖を敢行し、遊撃隊は暗躍します。
そして、要求が受け入れられなければ、パヌコ河を流れる黒い水に火をつけるという最後の切り札で会社を脅します。もし、これに火をつけられたら最後、炎は河一面に広がるばかりでなく、数マイルにわたる両岸の石油タンクに引火してしまいます。
このような状態なので、各石油会社は金の力で私兵を雇わねばなりませんでした。武器の力なくしてはデリック(クレーンの一種)を守ることも、送油管(パイプライン)を敷くことも、製油所やタンクの安全を守ることもできないのです。外部的情勢のために、石油業が常に不安定な状況に置かれると共に、オイルマンは今のうちにできるだけ沢山汲み取れ都の往診でした。
新しい油田を手に入れると共に、昼夜でデリックが建てられ、たちまち石油が噴出し始めます。もし、この事実が敵側ン知られては、デリックに取り囲まれ、地下の石油を奪い取れられてしまうので、工事は秘密のうちに行われ、警備兵に厳重に監視させ、送油管も秘密裡に敷かれることになります。
かつては、作業中に一命を落としても50ドルの慰謝料で片付けられたインディアンでしたが、今や彼らは労働戦線の戦士です。彼らは組合の力によって、強大なし資本力に抗(あらがう)うことができるようになりました。それと同時に彼らの地位も向上して、技術的にも石油の採掘や製油に立派な腕を発揮できるようにもなってきました。
今まで石油に対して興味を持たなかったカイエス大統領も、これを黙視しておくわけにいかなくなりました。 メキシコの地下から湧き出す石油が英・米の資本家を太らせていることを知っては、これをメキシコ国民のために分配することこそ、最善のことでなければなりません。メキシコ人のためのメキシコ、この理想はまず石油によって樹立されなければならないと考えるようになったのです。
彼の傘下の閣僚、ルイス・モロネスは急進的労働運動者でしたが、タンピコの労働組合が石油会社の私兵のために、次第に圧迫されつつある事実を見ては黙してはおれず、例の27条を発動して、メキシコからドーニー、ロックフェラー及びデターディングを追い払うべくカイエスに意見を申し立てることにしました。
カイエスは元々これを考えていたので、1925年初め、事実上の協力没収法ともいうべき第27条の発動を宣言して、石油業者を驚かせたのです。 シェフィールド米国大使は慌ててワシントンに帰り、クーリッジ大統領やケロッグ国務長官と対策を熱心に相談しました。その結果、ほとんど最後の通牒というべき強硬な声明が発せられることになりました。
『今や我が政府の政策は、国内強化および秩序ある立憲的発展のためには、圧迫と援助を用いるものであるが、ここに明らかにしておくべきは、我が政府はメキシコ政府が米国人の生命並みに権利を保護し国際的義務と責任を持っている。我々はこれまで忍耐し続けて来たし、強固な政府を樹立するためには時間のかかることも、もちろん承知してきたのであるが、その義務を遂行せず、かつ米国市民を保護s能わざるに至っては、最早黙視することはできない』
このケロッグ声明は、外交史上最もいばっているような語調を持っている文書として有名です。 この強硬声明の前には英国も手が出せず、静観して米国の出方を注視している外はありませんでした。 モロネス初め過激派の面々は、メキシコの体面を傷つけるものとして憤激し、両国間の関係は緊張してきました。
米国の主戦派新聞は、直ちに国交関係を断絶せよと叫び、キューバに戦雲を巻き起こすに成功したことのあるハースト系新聞は、米国軍隊はリオ・グランデを渡って進撃を開始せよと主張しました。 ケロッグは、カイエスの法令をもって没収措置であると非難すると、カイエスは、メキシコ産の酒類の輸入を禁止する米国の禁酒法こそ没収令と同じであると応酬しました。 おたがい譲らず、メキシコ市とワシントンの間に論議が続けられました。
米国の勝利
その間、メキシコには革命騒ぎが起こりました。カトリック教徒が、寺院の圧迫を目標として制定されたカイエスの寺院報に反対して奮起したのです。 「国王キリスト」と書いた旗の下に、各地にボイコットや一機が勃発しました。 カイエスは米国の感情を刺激するつもりか、ソビエト・ロシアを承認したのです。ボリシェヴィスト(過激派共産主義者)公使はメキシコに乗り込んできて反米宣伝を行います。 彼は米国海兵を相手にまわして戦っているニカラグアの左翼指導者サンディノに武器を送っていました。 米国はこの事実を暴露して反ソ宣伝をぶちまけたのでした。
こうした情勢は、メキシコの革命的将軍を達を刺激し、かつ背後のオイルマンの扇動にのり、遂に革命を計画させるに至ったのです。 その将軍のゴメスとセラノは、1927年反旗革命翻して蜂起しました。 ゴメスはオイルマンの援助を受ける代償として、天下をとった暁には彼らの権利を認め、カイエスの政策を中止することを約束しました。
しかし暴徒の手に資金や武器が入る暇も与えず、カイエスは圧倒的に反乱軍を撃破し、二人の首謀者を処刑しました。 この勝利にもかかわらず、カイエスは今更ながら、石油の威力を痛感せざるを得ませんでした。カトリック革命大勢の人命だけでなく多額の国兵幣を失いました。 治安回復のために必要な金はどこからくるのでしょうか。 従来、メキシコ国軍の財源となっていたもののうち、石油は重大な役割を愛眼ていました。
それが、第27条や労働運動の影響を受けて、石油生産高は激減の一途をたどり、1921年には1億9300万バレルだったものが、1927年には6400万バレルに低下しました。 従って、石油から上がる税金も4200万ドルから1400万ドルに減少していたのです。
石油の生産高が減れば、それだけ国庫の歳入も減ります。 軍隊を養う資金が減少すれば、革命はいよいよ頻発します。こうしたジレンマに陥って、カイエスじゅうらいの急進政策を訂正すべき必要を痛感せざるを得ませんでした。 一方、米国でも融和論が台頭し、 さらにウォール街方面ではメキシコが債務を履行してくれないので、手ひどい影響を被っていたので、何とかしなければならなくなっていました。
経済界の意見に敏感なワシントンは、対メキシコ強硬派の張本人であるシェフィールド駐メキシコ大使を罷免し、後任としてモルガン財団のドワイト・モローを送りました。この人は温和派の外交官で、米国空の英雄リンドバーグ夫人の父に当たる人です。ロンドバーグの政治思想は、この人物の影響を受けていつことは、次の欧州戦争に関する意見によっても明らかです。
モローは、米国人に好かれるタイプの米国人でした。前大使シェフィールドは大使館に構え、政庁に足を運んだこともないという人でしたが、モローは毎日のようにカイエス大統領を訪れて懇談を交わしました。カイエスはこのウォール街の立役者が非常に穏健で物分かりの良い人物である事発見して、好意を抱くようになりました。
モローはメキシコの美術、文学っや考古学に興味を持ち、さらにメキシコの治安に関心を抱いていることもカイエスを惹き付けずにはおきませんでした。
モローの方でも、カイエスが従来いわれているようなマルキシズムを振り回すボリシェヴィスト(過激派共産主義者)ではなく、立派な政治家であることを発見しました。 そして、その頃のカイエスは急進政策の行方について自ら迷い、石油戦を続けていくことが、自分の地位を危うくするものであるとの現実問題に直面していました。
お互いの好意が交流して、カイエスとモローは個人的に結ばれました。それがメ モローのキシコの政治面に影響を与えない筈がありません。 モローが赴任して間もなくソビエト公使館の鎧戸は閉ざされ,公使(大使館のNo.2)はメキシコを去ってしまいました。 メキシコ政府とスタンダード石油会社との間には了解ができ、憲法第27条の発動は事実上停止されました。
モローの努力によって、アメリカとメキシコの関係は再び円滑に行くようになりました。彼はメキシコ圏内の各種博愛事業や公共事業に貢献するところが少なくありませんでした。 親善大使としてリンドバーグ大佐をメキシコ市呼んだのも彼であるし、漫談家ウィル・ロジャ-スを呼んでカイエスを大笑いさせたのも彼でした。モローの温和策が遂にメキシコを屈服させたのです。
デターディングはメキシコ戦線に於いて敗れました。メキシコは最早ドーニーとロックフェラーのために堅固な城砦を築かれてしまいました。 彼は鉄壁のようなメキシコ石油戦線を守る米国を敵に回して、いたずらに闘争する愚はしませんでした。更に新たな油田を求めて、カリブ海を南下していったのです。そして、彼は米国人を驚愕させる勝利を得ることになります。
残された課題
マルキシズムの使徒であったカイエスは、遂に石油の前に方針を曲げなければなりませんでした。 石器問題が彼の急進政策を修正し、停止を余儀なくされました。メキシコにとって、石油は歳入になくてはならない財源です。
彼は石油大使モローの前に屈服し、自ら看板を保守主義に塗り変えざるを得ませんでした。 20年に渡る内乱のために疲弊したメキシコを再建するためには、どうしてもウォール街の機嫌を伺い、貴重な資金を貸してもらわなければなりません。カイエスはこれに成功しました。
それと共に、彼自身も財産を獲得しました。 農場、工場、そして債権が、このラクダ御者の息子の懐をあたためるようになりました。 こうして、功成り、名を遂げ、更に富豪となったカイエスは、その革命的政策を撤回してしまいました。
彼は政治の第一線から退き、大統領の席をカルデナに譲りました。 しかし、事実上メキシコを支配する独裁者でもありました。 大統領もその傘下の閣僚もすべてかれの部下でした。 メキシコには平和な春が訪れました。一時はメキシコの石油をめぐりカリブ海を舞台とする英・米戦争さへ予想されました。
石油問題は巧妙な外交措置によって平定し、メキシコに於ける米国石油資本は圧倒的勝利を得たのです。 しかし、メキシコ憲法は以前として存在しており、その第27条は石油権益を睨みつけており、メキシコ国内の急進派を嘲笑しています。 もし、、メキシコ石油がデターディングにとって重要となれば、またしても血みどろな石油戦を展開する危険性は多分にあります。
カイエスの後を受けたカルデナス大統領は、最初のうちこそカイエスのロボットとして甘んじていました。 しかしカルデナス大統領の強調する庶民階級の地位向上は、必然的に労働争議の風潮をなじませ、ゼネラル・ストライキの危険再燃することになり、財界はもちろん、一般庶民にも怨嗟(恨みを抱くこと)の声が高まってきました。
新大統領もカイエスの若き日と同じく急進派の闘志でした。今は資本家の位置にあるカイエスはカルデナスの政策を危険視するようになっていました。そこで声明書を発して、過激な労働運動指導を非難しました。こうして、両将軍の関係は隔たりが生じましたが、意外にも地方官憲や公私団体は現大統領を支持し、激励の電報は二日間に八千通に達する有様です。
ここにカイエスは、政治に干渉する意図を捨て、余生を安らかに過ごすべく、シナロア州の別荘に引揚げました。カルデナス大統領はカイエスの息のかかった内閣を更迭すべく、メキシコ政治史上未曽有のことではありますが、全閣僚に対して辞表の提出を求めました。 そして、カイエス派を一人残らず追い払った新内閣が成立しました。
カイエスとカルデナスの関係は日に日に悪化し、2936年4月、カルデナス大統領はカイエス将軍および側近5名を捕え、国内情勢その滞在を許さざるものありとの理由で、彼らを飛行機に押し込めて米国国境に追放しました。
カルデナス大統領は遠慮なく自分の政策を実行に移し始めました。彼もまた代々の大統領がそれを望んでいながら遂に成功することが出来なかった憲法第27条の発動を決心しました。そして、1937年3月、この石油法によって英・米・蘭石油財産の没収を宣言しました。
またしてもイギリスーメキシコ間の関係は悪化しました。しかし、自己の勢力圏における国際紛争を望まないアメリカは、幾度か平和裡にこの問題の解決点を見出そうとしました。 カルデナス大統領はメキシコ石油業界から断固として外国資本を追い出し、国民を石油によって潤そうとしたのです。
しかし、同国に最も経済的勢力を持っている米国としては、メキシコ石油から敗退することは、すべての産業界から手を引くことになるので、容易に第27条を承認するわけがありません。 たずらに紛争を重ねつつ、カルデナスの任期は過ぎ、1940年12月、(ちなみに日本軍による真珠湾攻撃は1941年12月8日)、マヌエル・アヴィラ・カマチョ将軍が新たにメキシコ大統領の椅子につきました。 米国からどんな工作があったのかは知りません。
彼はカルデナスと同じ国民革命党に属していますが、右派であることはその就任演説によって窺うことが出来ます。カマチョ大統領は『汎米連帯の政策に伴い、外敵の侵略に対する南北アメリカ大陸の国々との共同防衛に賛成する』とし、カルデナス前大統領の没収法の発動緩和を暗示しています。
世界情勢の緊迫は、メキシコが過去数十年間戦い続けた外国資本、とくに米国資本からの離脱はなくなりました。 しかし、彼らメキシコ人の血には、米国の黄金の鎖から解き離たれたい希望があります。 メキシコ経済が低迷し、中露の甘いささやきがあれば、一時はアメリカの圧迫によって鳴りをしずめても、いつの日か再びメキシコの石油は燃え上がる事でしょう。 日本はどうする。
次の投稿に続く
(参考 本件、今までの投稿)
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石油の発見と利用の人類史
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