2日目からの続きです。
● 小原庄助ごっこ
3日目の朝も早めに起床。
外は青空、いい天気です。旅に出てからずっと天気が悪かったので、それだけで幸せ。
布団の中でちょっとゴロゴロしてから、起きがけの朝風呂に入りにいきました。
寝ぼけ眼でしたが、温泉に浸かったとたんにシャッキリ目が覚めました。
湯豆腐朝食。
山の中の食事は、温かみがあります。
冷やし甘酒もいただきました。
これで、
小原庄助さん なんで身上つぶした
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで
それで身上つぶした -「会津磐梯山」
の「朝寝・朝酒・朝湯」をすべてやったことになります。
庄助・コンプリート!
つぶす身上はないから、問題なーし!
● ならぬことはならぬもの
会津の塗り物が飾られていました。
見るからにつやつやしており、触らなくてもすべすべなのがわかります。
会津の藩校として有名な日新館。
そこの「童子訓」が塗り物で描かれていました。
その中に「戸外で女の人と言葉を交わしてはなりませぬ」
という一文があり、最後に
「ならぬことはならぬものです」と書かれていました。
(ダメ押しされて、厳しい~!)と思いましたが、「ダメなものはダメ!」という強い禁止ではなく「ここで決められた事は守りなさい」というようなニュアンスだそうです。
この「ならぬことはならぬもの」は、大河ドラマ『八重の桜』にも登場したそう。
上杉鷹山の「為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」に似ているようで、似てなかった…。
● 鶴、黒川、会津若松
朝湯、朝餉をサクサクすませて、8時半頃に宿を出発。
これも、鶴ヶ城が開く時間を待ってのことです。
車から見上げる天気はすこぶる快晴。
これまでの2日間が嘘のように、晴れ上がっています。
お城にやってきました。駐車場はお堀を渡った石垣の中にあるようです。
「車に乗ったまま、お城に入っちゃっていいのかな?」とためらいながらも、看板に従って敷地内に入ります。
敷地はずいぶん広く、どんどん中へと誘導されていきます。
後で知ったのですが、お堀の中は今は鶴ヶ城公園になっているそう。
お城の敷地内ではなく、公園と考えれば、緊張もせずにすみました。
● 白亜の城
車から降りると、きれいなお城がそびえたっていました。
数年前に塗り直されて、陽の光を受けて輝くような白さが際だっています。
「白亜の城」というと、ヨーロッパのキャッスルを連想しますが、日本のお城に使ってもいいですよね。
鶴ヶ城は建てられてから600年ほどたっていますが、今年は会津戦争から150年目だと、のぼりを見て知ります。
会津地方は、幕末の切ない歴史を持っています。
ここのお城の呼び名はいろいろあります。
地元では鶴ヶ城、よその人は会津若松城と呼び、旧名の黒川城と呼ぶ人もいるのだそう。
統一しないとややこしいわ~。
ちなみにここの住所は「会津若松市追手町1−1」。今でも町の中心なんですね。
● 編み笠かぶったお狐さん
敷地内の稲荷神社に参拝しました。
編み笠とほっかむりをしている姿のお狐さんを見るのは、初めて。
参道階段の両脇にある3対のお狐さん全てが、同じ格好をしています。
足元に子供がいる狐もおり、まるで狛犬のよう。
子狐にも、ちゃんと手拭いが巻かれています。
お狐さん一匹一匹に菅笠をかぶせている、優しさ。
人々にとても大切にされていると伝わってきます。
● ガイドのおじさん
参拝を終えて鳥居を出ると、知らぬ間に背後に忍び寄っていた謎のおじさんが、おもむろにお城について語り出しました。
近くに見える大きな四角い井戸を指さし、「以前は敷地内に井戸が28個あったが、今では11個になった」と教えてくれます。
それでも十分多いように思えますが。
お城は7年前にリニューアルを行って、城瓦の色が黒から建築当初の赤色に変わったそう。
言われて改めて眺めてみると、確かにえんじ色をしています。
赤い瓦のお城って、あるんですねー。初めて見ました。
冬の深い雪と凍結対策のために、強度の強い赤瓦が使われたものの、以前はなぜか黒瓦で再建されたそうです。
● お城ボくん
ゆるキャラも紹介してもらいました。
「これ、お城ボくん」。
腕があり、下にタイヤがついていて、動き回るそう。
トランスフォーマーっぽさがありますが、変身はしません。
「ヤッターマンの作者がこれを作ったんだよ」とおじさん。
会津出身のタツノコプロ、笹川ひろし氏の考案だそうです。
「へ~」と眺めているところに、3人の青年がやってきて「これなんだ?」とワイワイ言い始めました。
すると、おじさんは今度はスーッとそちらに近寄って、同じ説明を始めました。
観光客にガイドをする地元の人かしら。
● いざ入城
私たちはそのまま、お城の中に入りました。
外はすごく暑いのに、ひんやりしています。1Fは塩蔵だったそうです。
お城の中は資料館になっています。
このお城と150年前の1868年8月に起こった戊辰戦争は切り離せません。
白虎隊の悲劇しか知りませんでしたが、そのほかの全体的な時代の流れがつかめました。
それにしても心をとらえる、白虎隊の切なさよ。
白虎隊の隊員たちは16、7歳の少年たちで、15歳では入れず、年を多く偽って入った人もいるそうです。
集団自決の際に、一人だけ命を吹き返した少年がいたんですね。
自分だけ助かったことで、やるせない気持ちを抱えたと思いますが、彼のおかげで白虎隊の最期が広く知られることとなりました。
● 天守閣からの景色
白虎隊の少年たち一人一人のことを知れば知るほど、涙が止まらなくなります。
うるうるしながら、天守閣の一番上まで上がりました。
涙でぼやけていた視界が、爽やかな風を受けて、次第にクリアになっていきました。
四方を見下ろします。
私たちが滞在した東山温泉も、すぐ近くに見えます。
とてもいい眺望です。
● 磐梯山より飯盛山
これまで、会津といったら磐梯山しか思い浮かびませんでしたが、資料館を見た後は、もう飯盛山のことしか頭にありません。
小原庄助さんより、やっぱり白虎隊の少年たちです。
近くの学芸員さんに訪ねて、どこにあるのかを教えてもらいました。
「山が連なっているところの手前に、白いポールが見えますね。そこの山です」
一番手前の山ですね。
あの山から、この天守閣が燃えているのを見て、少年たちは負けたと思ったんですね。
お城の上から辺りを眺めて、150年前の動乱の歴史に思いを馳せました。
真下に見える敷地内を眺めます。不思議な両階段は武者走り。
右側には、お参りしたばかりの稲荷神社です。
パネルの説明を見て、直江兼続の屋敷跡があるとわかり、再び学芸員さんに質問しました。
ここが上杉の敷地だった時に、彼は3年間滞在したそうです。
その後、関ヶ原の戦いに敗れた上杉は、会津から米沢に移封となり、兼続も去っていきました。
会津が上杉のものっだった時があったとは。
以前、宮城の白石城を訪れた時、戊辰戦争で薩長軍に対抗した奥州列藩同盟のことを知りました。
会津は加盟していませんでしたが、結果的に東北勢は負けてしまいました。
勝てば官軍、負ければ賊軍。負けた側の歴史は、どれも切ないものばかりです。
天守閣から降りる時に、校外学習で訪れた小学生たちとすれ違いました。
現代の白虎隊たち?
16歳以上の高校生年代なので、この子たちよりは大きかったのですが。
お城を出て、少し離れたところから全貌を眺めます。
晴れ渡った青空に、赤い瓦がよく映えています。
● ありがとう無し?
敷地内の茶室を見学しました。
入り口の「雨の中ありがとなし」の文字を見て(ありがとう、じゃない?)と、足が停まりました。
きっとこちらの言葉でのお礼を言っているのでしょう。
ふなっしーが語尾に「なし」をつけて話すように。(彼は千葉ですが)
「うまいがらし」「飲んでがんしょ」
会津出身の友人もいますが、地元ではこういう言葉を話しているんでしょうね。
● 千利休の子の茶室
茶室内を散策。ここは千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室です。
千利休が秀吉に死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放されると、会津城主の蒲生氏郷は、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子少庵を会津にかくまいました。
麟閣は、その時に氏郷のために造った茶室だと伝えられています。
その後、氏郷は徳川家康と一緒に千家の復興を秀吉に働きかけ、その甲斐あって、少庵は京都に帰ることを許され、千家を再興したそうです。
つまり、今の世に茶道が残っているのは、蒲生さんのおかげというわけですね!
● お茶を一服
茶室を巡った後に、実際に冷やし抹茶をいただきました。
氷の入ったお抹茶も乙ですね~。
その名も鶴が城という名前のお茶に、薯蕷(じょうよ)饅頭。
ひとときの涼を味わいました。
どの角度から見ても絵になる、赤い屋根。
お城を出ると、さっきのおじさんはまだガイド中でした。
● 武者走り
天守閣の上から見た、武者走りのそばまで行ってみました。
下から見上げると結構急な石段。
これを駆け上がるのだから、大変。鍛えていないと落ちてしまいそう。
ちなみに熊本城の石垣のものすごいカーブを「武者返し」と言います。
走ったり返ったり、お侍さんはお忙し!
城壁内の駐車場を出て、現在の人々が暮らす街に戻りました。
お濠越しにお城を臨みます。
名前の通り、鶴のようにきれいなお城でした。
● 会津のマンホール
会津若松市のマンホール。
鶴ヶ城公園内で、カラーの蓋を見つけました。
磐梯山と市の木、アカマツが描かれています。
アースカラーな色合いがいいですね。
その2に続きます。
● 小原庄助ごっこ
3日目の朝も早めに起床。
外は青空、いい天気です。旅に出てからずっと天気が悪かったので、それだけで幸せ。
布団の中でちょっとゴロゴロしてから、起きがけの朝風呂に入りにいきました。
寝ぼけ眼でしたが、温泉に浸かったとたんにシャッキリ目が覚めました。
湯豆腐朝食。
山の中の食事は、温かみがあります。
冷やし甘酒もいただきました。
これで、
小原庄助さん なんで身上つぶした
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで
それで身上つぶした -「会津磐梯山」
の「朝寝・朝酒・朝湯」をすべてやったことになります。
庄助・コンプリート!
つぶす身上はないから、問題なーし!
● ならぬことはならぬもの
会津の塗り物が飾られていました。
見るからにつやつやしており、触らなくてもすべすべなのがわかります。
会津の藩校として有名な日新館。
そこの「童子訓」が塗り物で描かれていました。
その中に「戸外で女の人と言葉を交わしてはなりませぬ」
という一文があり、最後に
「ならぬことはならぬものです」と書かれていました。
(ダメ押しされて、厳しい~!)と思いましたが、「ダメなものはダメ!」という強い禁止ではなく「ここで決められた事は守りなさい」というようなニュアンスだそうです。
この「ならぬことはならぬもの」は、大河ドラマ『八重の桜』にも登場したそう。
上杉鷹山の「為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」に似ているようで、似てなかった…。
● 鶴、黒川、会津若松
朝湯、朝餉をサクサクすませて、8時半頃に宿を出発。
これも、鶴ヶ城が開く時間を待ってのことです。
車から見上げる天気はすこぶる快晴。
これまでの2日間が嘘のように、晴れ上がっています。
お城にやってきました。駐車場はお堀を渡った石垣の中にあるようです。
「車に乗ったまま、お城に入っちゃっていいのかな?」とためらいながらも、看板に従って敷地内に入ります。
敷地はずいぶん広く、どんどん中へと誘導されていきます。
後で知ったのですが、お堀の中は今は鶴ヶ城公園になっているそう。
お城の敷地内ではなく、公園と考えれば、緊張もせずにすみました。
● 白亜の城
車から降りると、きれいなお城がそびえたっていました。
数年前に塗り直されて、陽の光を受けて輝くような白さが際だっています。
「白亜の城」というと、ヨーロッパのキャッスルを連想しますが、日本のお城に使ってもいいですよね。
鶴ヶ城は建てられてから600年ほどたっていますが、今年は会津戦争から150年目だと、のぼりを見て知ります。
会津地方は、幕末の切ない歴史を持っています。
ここのお城の呼び名はいろいろあります。
地元では鶴ヶ城、よその人は会津若松城と呼び、旧名の黒川城と呼ぶ人もいるのだそう。
統一しないとややこしいわ~。
ちなみにここの住所は「会津若松市追手町1−1」。今でも町の中心なんですね。
● 編み笠かぶったお狐さん
敷地内の稲荷神社に参拝しました。
編み笠とほっかむりをしている姿のお狐さんを見るのは、初めて。
参道階段の両脇にある3対のお狐さん全てが、同じ格好をしています。
足元に子供がいる狐もおり、まるで狛犬のよう。
子狐にも、ちゃんと手拭いが巻かれています。
お狐さん一匹一匹に菅笠をかぶせている、優しさ。
人々にとても大切にされていると伝わってきます。
● ガイドのおじさん
参拝を終えて鳥居を出ると、知らぬ間に背後に忍び寄っていた謎のおじさんが、おもむろにお城について語り出しました。
近くに見える大きな四角い井戸を指さし、「以前は敷地内に井戸が28個あったが、今では11個になった」と教えてくれます。
それでも十分多いように思えますが。
お城は7年前にリニューアルを行って、城瓦の色が黒から建築当初の赤色に変わったそう。
言われて改めて眺めてみると、確かにえんじ色をしています。
赤い瓦のお城って、あるんですねー。初めて見ました。
冬の深い雪と凍結対策のために、強度の強い赤瓦が使われたものの、以前はなぜか黒瓦で再建されたそうです。
● お城ボくん
ゆるキャラも紹介してもらいました。
「これ、お城ボくん」。
腕があり、下にタイヤがついていて、動き回るそう。
トランスフォーマーっぽさがありますが、変身はしません。
「ヤッターマンの作者がこれを作ったんだよ」とおじさん。
会津出身のタツノコプロ、笹川ひろし氏の考案だそうです。
「へ~」と眺めているところに、3人の青年がやってきて「これなんだ?」とワイワイ言い始めました。
すると、おじさんは今度はスーッとそちらに近寄って、同じ説明を始めました。
観光客にガイドをする地元の人かしら。
● いざ入城
私たちはそのまま、お城の中に入りました。
外はすごく暑いのに、ひんやりしています。1Fは塩蔵だったそうです。
お城の中は資料館になっています。
このお城と150年前の1868年8月に起こった戊辰戦争は切り離せません。
白虎隊の悲劇しか知りませんでしたが、そのほかの全体的な時代の流れがつかめました。
それにしても心をとらえる、白虎隊の切なさよ。
白虎隊の隊員たちは16、7歳の少年たちで、15歳では入れず、年を多く偽って入った人もいるそうです。
集団自決の際に、一人だけ命を吹き返した少年がいたんですね。
自分だけ助かったことで、やるせない気持ちを抱えたと思いますが、彼のおかげで白虎隊の最期が広く知られることとなりました。
● 天守閣からの景色
白虎隊の少年たち一人一人のことを知れば知るほど、涙が止まらなくなります。
うるうるしながら、天守閣の一番上まで上がりました。
涙でぼやけていた視界が、爽やかな風を受けて、次第にクリアになっていきました。
四方を見下ろします。
私たちが滞在した東山温泉も、すぐ近くに見えます。
とてもいい眺望です。
● 磐梯山より飯盛山
これまで、会津といったら磐梯山しか思い浮かびませんでしたが、資料館を見た後は、もう飯盛山のことしか頭にありません。
小原庄助さんより、やっぱり白虎隊の少年たちです。
近くの学芸員さんに訪ねて、どこにあるのかを教えてもらいました。
「山が連なっているところの手前に、白いポールが見えますね。そこの山です」
一番手前の山ですね。
あの山から、この天守閣が燃えているのを見て、少年たちは負けたと思ったんですね。
お城の上から辺りを眺めて、150年前の動乱の歴史に思いを馳せました。
真下に見える敷地内を眺めます。不思議な両階段は武者走り。
右側には、お参りしたばかりの稲荷神社です。
パネルの説明を見て、直江兼続の屋敷跡があるとわかり、再び学芸員さんに質問しました。
ここが上杉の敷地だった時に、彼は3年間滞在したそうです。
その後、関ヶ原の戦いに敗れた上杉は、会津から米沢に移封となり、兼続も去っていきました。
会津が上杉のものっだった時があったとは。
以前、宮城の白石城を訪れた時、戊辰戦争で薩長軍に対抗した奥州列藩同盟のことを知りました。
会津は加盟していませんでしたが、結果的に東北勢は負けてしまいました。
勝てば官軍、負ければ賊軍。負けた側の歴史は、どれも切ないものばかりです。
天守閣から降りる時に、校外学習で訪れた小学生たちとすれ違いました。
現代の白虎隊たち?
16歳以上の高校生年代なので、この子たちよりは大きかったのですが。
お城を出て、少し離れたところから全貌を眺めます。
晴れ渡った青空に、赤い瓦がよく映えています。
● ありがとう無し?
敷地内の茶室を見学しました。
入り口の「雨の中ありがとなし」の文字を見て(ありがとう、じゃない?)と、足が停まりました。
きっとこちらの言葉でのお礼を言っているのでしょう。
ふなっしーが語尾に「なし」をつけて話すように。(彼は千葉ですが)
「うまいがらし」「飲んでがんしょ」
会津出身の友人もいますが、地元ではこういう言葉を話しているんでしょうね。
● 千利休の子の茶室
茶室内を散策。ここは千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室です。
千利休が秀吉に死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放されると、会津城主の蒲生氏郷は、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子少庵を会津にかくまいました。
麟閣は、その時に氏郷のために造った茶室だと伝えられています。
その後、氏郷は徳川家康と一緒に千家の復興を秀吉に働きかけ、その甲斐あって、少庵は京都に帰ることを許され、千家を再興したそうです。
つまり、今の世に茶道が残っているのは、蒲生さんのおかげというわけですね!
● お茶を一服
茶室を巡った後に、実際に冷やし抹茶をいただきました。
氷の入ったお抹茶も乙ですね~。
その名も鶴が城という名前のお茶に、薯蕷(じょうよ)饅頭。
ひとときの涼を味わいました。
どの角度から見ても絵になる、赤い屋根。
お城を出ると、さっきのおじさんはまだガイド中でした。
● 武者走り
天守閣の上から見た、武者走りのそばまで行ってみました。
下から見上げると結構急な石段。
これを駆け上がるのだから、大変。鍛えていないと落ちてしまいそう。
ちなみに熊本城の石垣のものすごいカーブを「武者返し」と言います。
走ったり返ったり、お侍さんはお忙し!
城壁内の駐車場を出て、現在の人々が暮らす街に戻りました。
お濠越しにお城を臨みます。
名前の通り、鶴のようにきれいなお城でした。
● 会津のマンホール
会津若松市のマンホール。
鶴ヶ城公園内で、カラーの蓋を見つけました。
磐梯山と市の木、アカマツが描かれています。
アースカラーな色合いがいいですね。
その2に続きます。
大河ドラマ『八重の桜』でのセリフ
よく覚えています。
「為せば成るなさねばならぬ何事も、ナセルはアラブの大統領」小さいころ流行った言葉です。何十年前だろう!?
懐かしい~
「ナセルはアラブの大統領」って、聞いたことがありますが、実際アラブのどこの国の大統領なのかわかっていませんでした。
調べてみたら、エジプトのようですね!
「ナセルはエジプト大統領」でもよさそうですが、そうしないところが粋だったのかも!?