酒とサッカーと・・・

旨い酒とサッカーがあれば人生の大半は・・・

W杯の思い出:ほんとの奇跡

2014年05月30日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:プラチナの続き <目次


 あの日、会社のテレビで知ったチケット騒動からこの瞬間までの4日間。試合開始直前に入手できた私たちと、多くの不幸なサポーターたちとの差はなんであったのだろうか。
 ジョホールバルの勝利が選手たちにとっての奇跡であったなら、この4日間に渡る私たちの苦労はやはり奇跡に裏打ちされていたというしかない。

 ピレネーの山中で、先にキレた兄が、もし、振り向いて「ねぇ皆さんそうでしょう」とひとこと付け加えていたとすれば、その後の私たちはツアーの中の代表者のようになり、そろって全員が時間切れを迎えていたことだろう。見知らぬツアー客同士が共同戦線をはって連帯感を強め、代理店と交渉し、試合開始直前になって数枚のチケットを渡されたとき、誰もが抽選で選ぶことができずに泣く泣く全員でチケットを燃やしたという話もある。

 あのフランス人母娘やミスタースポックたちが親切にしてくれていなければ、ツールーズでチケット相場を知ることなく当日わずか1000フランを持ったままダフ屋と交渉していたかもしれない。
 また考えてみれば添乗員Mはただ会社からの指示を伝えるだけで、すべての客から憎まれ心身をすり減らし、その添乗員人生の辛さをかみ締めていただけかもしれない。
 そのMを最後の最後になって「この二人だけはなんとか手配せねばならない」と追い込んだ交渉も重要だったが、彼が私たちに本部の電話番号を教えなければチケットは手に入らなかった。彼のかくれたファインプレーと今でも思っている。

 スタジアムへ向かう多くのツアー客たちが、最後の最後になって「裏切られた」「なんで1枚もないのか」と添乗員を小突き回す姿をほんとうに見た。女性添乗員がツアー客に「どんくさいヤツ」と罵られて泣いていた。しかし、その姿を見て私たちは「おまえは自分で何か努力したのか」と逆にツアー客を不快に思った。
 ほんとうに手に入れようと思うなら自分たちで動くべきで、それにいつ気付いたのかが、今回の運命の分かれ目だった。

 初戦アルゼンチン戦の結果は1:0の敗戦であった。だがここではいかに日本代表が戦ったのかを伝えたかったのでは無く、本当に個人的なW杯への思い入れとあのチケット騒動の一面を知ってほしかっただけである。
 そして懲りずにシドニー五輪へサッカー観戦に出ようと思う。今日6月3日に組み合わせが発表された。のん気なもんでチケットは組み合わせ発表のはるか以前の2月に売り切れているという。さぁどうやって手に入れようか。


 選手入場。アルゼンチン人は「たかが初戦になぜ盛り上がっているのか?」と不思議そうだった。


 チケットを持った幸せな人々がゲートをくぐる。
「ドラえもん」は当時監督の岡田さんが「のび太」に似ているため、用意されたキャラクターだった。
 


(左)スタンドにて。
この時気づいた。今日は何も食ってなかった。
(右)チケット入手の報告を、日本の母へ国際電話する兄。

※試合が終わったあと、いったんバスまで戻ったものの、そのままホテルへと帰る気がせず兄と二人ツアーを離れ夜の街に出てみた。
 トゥールーズの、石畳が連なる路地裏を歩いていると、同じスタジアムで数日後に戦う南アフリカやデンマークのサポーター達が国旗を打ち振り気勢を上げていた。
 現地の人やアルゼンチーナが、私達を日本人と見ると「ナカータ、ナカータ」と声を掛けてくる。0:1で破れたものの強豪アルゼンチンを相手に気迫を見せた中田英寿選手は、サッカーにうるさい連中をも魅了したのだろう。
 1軒のバーで、頼んだ黒ビールが長々と注がれていくのを見ているのが最後で、そこからどうやってホテルに、そして空港へ、日本へと戻ったのか全くといっていいほど記憶がない。長かったようなそれでいて一瞬だったかのようにも思える数日間だった。

 私達は、あれから2年後シドニー五輪を観たのち、2002日韓大会、兄と母はドイツ大会、そしていまブラジルへとワールドカップへの旅はまだ終わらない。

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W杯の思い出:プラチナ

2014年05月29日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:現地対策本部の続き
  <目次


 びびって立ちすくんでいてもどうにもならない。でも現金を見せただけで瞬間的に奪われることもありうるだけに、進退窮まった私たちは電話をかけることにした。

 これもほんの偶然だろうか、私たちは日本で借りてきた国際携帯電話を持っており、しかもMから別れ際に「もしもの時に」と渡された紙片にかかれていた現地対策本部の番号も判っている。
 ここへとぼけて電話し「チケットが届いていないか?」と聞くことにしたのだ。

 数コールの後に男性が出た。
 「ここに電話かければチケットがあるとMさんから聞いたのですが...」
 「Mですか?Mは居ません。 あっ今もどってきましたMが」と言う。電話口に出たMはすごい勢いで「あっあっ よく連絡してくれました。チケットが手に入ったんですよ!」 Mはついにやったのだ!

 別れてから手配しつづけた2枚がやっと届いたのだという。だけどこちらに連絡のつけようが無かったところへ偶然私たちがとぼけて電話してきたのだった。

 しばらくの後、現れたMから2枚のチケットが入った封筒を受取り、隠すように2万フランを渡す。このシーンだけ見るとダフ屋から我が金で買い取ったように見えるが、そもそも近ツリの金を返しただけだ。
 のちに渡された封筒の裏をみると鉛筆で「2 20000」と走り書きされていた。
 やはり1枚1万フラン(約27万円)するプラチナチケットだった。


このチケットの為に、どれだけ苦労したことか...
ちなみに定価は350フラン(約9千5百円)
だ!

※国際携帯電話、恐らくセルラーフォンだったと思います。特に理由があって借りたものではありませんでしたが、「空港で借りられるぞ」と兄のアイデアで借りておいたものです。しかし、これまで一回も発着信していませんでした。

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W杯の思い出:現地対策本部

2014年05月28日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:タイムリミットの続き <目次


 ここまでMは確かによく動いてくれたと思う。前夜の詰問から今日の今まで「別枠」のために努力してくれたことは間違いないだろう。でも入手できなかった。
 しかし私たちがこの間際でも諦めないことでMは逆上してとんでもない行動に出たのだ。

 別に刃物で切りかかってきたわけでも、突如河に飛び込んだわけでもない。その場で時間待ちをしていた別ツアーのフランス人運転手に金を握らせツールーズ市内の現地本部へ私たちを連れて行ったのである。
 混雑する市内を私たち3人を乗せた大型バスがノロノロと進む。運転手は振り返りながら乗客が残した手荷物を私たちが盗むのではないかと声を荒げる。

 そのうち市内のとあるホテルへ到着し、我々はローマ建築風のロビーへと入っていった。そこにはニコリともしないスーツ姿の日本人たちがいて、小声で話しあったり忙しいそうに歩き回っている。ここが近ツリの現地対策本部だろうか。

※そのホテルのロビーには、全てを諦めたかのようにテーブルに顔を突っ伏した日本人サポがソファに沈んでいた。彼らに「最後の配分」が届いたのかは分からないが、ここまで到達していた日本人は十数人程度だったと思われる。

 奥に引っ込んだMが持ってでてきたのはチケットではなくなんと現金の束であった。2万フラン(約54万円)の札束を兄に渡しながら「あとは自力で頑張ってください。一応このお金はお貸しします」と言った。
 もう後には引けぬ。借りたかもらったか、返せるかどうかの問題ではない。ようはあと3時間のうちにこの現金がチケットに代わるかどうかだ。
 もう時間が無い。現金を1万フランづつ別のポケットにねじ込んでスタジアムへ向かった私たちを、また新たな困難が待ち受けていた。スタジアムに近づけないのだ。

※前日、トゥールーズ市内でのダフ屋相場は1枚3000フラン(当時のレートで約81,000円)だったものが急騰していたようだ。
通常、ダフ屋価格も試合開始直前になると下落傾向になるのだが、この時点で近ツリ現地対策本部が1万フランを相場とみていたことからもチケットは高騰を続けていたようだ。その後の報道によると1枚36万円という話もあるが、ダフ屋も弾が豊富でない上、いざ試合が始まってしまうと「紙くず」に化けてしまうリスクがあるのでギリギリの状態で駆け引きしていたことは間違いないでしょう。

封鎖線の手前。
このあたりは暴動寸前状態なんで隠し撮りになった。


 先日訪れた際にはスタジアムゲートまで行けたのだが、なんと2Kmも手前の中州にかかる橋を軍隊と警察犬が封鎖していて、チケットを持たないものはそこから先へ進めないのだ。
 橋の前には日本人やフランス人アルゼンチン人ごったの人種がうごめいており、橋に近づくと警官隊に押し返されている。どれがダフ屋かチケットを持っているヤツかなんて判らないし、そもそもそんな騒擾状態で多額の現金を持ち歩いていることすら危険な雰囲気であった。

 この頃ダフ屋からチケットを買っても、ゲートで通過できることを確認してから現金を渡せといううわさが流れていた。偽造チケットをつかまされない為だ。
 しかし、ゲートははるか2Km先でいまや手にできたとしてもそのチケットが本物かどうかは誰もわからない。ここまで現物を見たことが無いのである。 はっきり言ってびびった。

※イメージでは、阪神甲子園球場の高校野球のように「兄ちゃん切符あるでぇ」とダフ屋がうろうろしてるだろうと思っていただけに、正直、めっちゃびびりました。
橋の上にはフル装備の警官隊(軍隊?)が睨みをきかせていて、チケットを持っている人はそれを高くかざしてヒラヒラ見せながら近寄らないと、わんわんわんわんわん!と警察犬をけしかけられます。



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W杯の思い出:タイムリミット

2014年05月27日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:ダイヤルMを回せの続き <目次


 明けて6月14日、ツールーズへ向けてチケットを持たぬままツアーバスは出発した。車中、やつれた顔の添乗員Mは最後までチケット入手に努めます、しかし「最悪」の場合は大型スクリーンでの観戦になりますと同じ発表を繰り返した。

臨時バスターミナル。
ほとんどが日本人サポーターだった。


 やがてバスはスタジアムから1時間ほど離れた駐車場へ止まりそのまましばらく待機することになった。
 駐車場に集まった大型バスから人々が吐き出され、様々なツアーが円陣を組みそれぞれが代理店から状況説明を受けたり抽選会のようなことが行われている。ほとんどが日本からのツアーで対戦国のアルゼンチンはあまり姿を見せていない。それぞれ別のツアー同士でチケットの事が話題に上りうわさと憶測が飛び交った。当然、チケットを持っている人々はこの話題に参加するはずも無く、いまだ手配のついていない者同士だけがぼそぼそと話しを続けた。

 やがて添乗員Mが私たちのツアーにこう告げた。「試合開始前はスクリーンも大変混雑しますので、これから先に移動して待機します」
 ここまで引っ張られてなぜこのツアーの人たちは文句ひとつ言わないのだろうか?確かにウルトラスニッポンのように過激な応援団では無いが、それぞれが多額の費用と労力を費やし26時間もかけた強行軍でこの地までやってきて、試合開始前まで一枚のチケットも配分されず、なぜ羊のように従うだけなのだろうか?
 私たちはここでも別行動を取ることにした。駐車場に残り添乗員Mが最後まで手配してくれているだろう「別枠」の2枚に期待をこめた。
 1時間ほどするとスクリーン前に羊たちを送り込んだMが戻ってきた。いま現在も現地本部が動いているので待機して欲しいと言う。Mが盛んに現地本部とやらと連絡するも「届くはずのチケットがまだ届いていない」と繰り返すばかりである。時間は刻々と過ぎていく。

 しばらく姿を見せていなかったMが走って戻ってきた。期待が高まる。別枠が届いたのだろうか?
 しかしMは「一生懸命やりました。これだけは信じてください」とお詫びの言葉を持って帰ってきただけだった。
 駄目だった。チケットはやはり手に入らなかったのだ。駐車場に残る人もだんだんと減ってきていてチケットあるものは既にスタジアムへ、無きものはスクリーン前へと移動しているのだ。

 決断の時だった。本当にMはよくやってくれた。
 ところが私の口をついて出た言葉は「まだ時間あるやん」だった。

※後日、兄に聞いたところによると、「さすがに、もう無理か・・・」と思った瞬間、隣で私が「まだ時間あるやん」と言ったので(コイツ気が狂ったか)と思ったらしいです。もちろん気が狂ったわけではなく、私は根っからの楽天主義なのです。

※野外スクリーンは、日本人を気の毒に思ったトゥールーズ市が無償で準備したもの。wikiによるとスクリーン観戦席は8,000人分が準備されたようです。
ということは、収容人数35,000人のスタジアムで、仮に日本側に半数程度を配分していたのであれば、キャパの1.5倍から2倍のチケットを二重売りしていた計算になる。
空売りをしたとされるFIFA公式代理店ISLワールド社とその子会社ISLフランスにまつわる「闇の噂」は結局全容解明には至っていません。
経緯は、一連の報道をまとめた信濃毎日新聞のサイトが詳しい。さらにその後の審判については10年を経てもまだ解明されていないようだ。

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W杯の思い出:ダイヤルMを回せ

2014年05月26日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:モンタバンの母娘の続き <目次


 部屋に戻った私たちは、近くのスーパーで購入したパンやチーズで夕食をとりながら今後の対策を話し合った。今後といっても今日一日ツールーズでチケット交渉をしただけで、もう明日の午後には試合が始まってしまうのだ。

 そしてわかった事は、自力でダフ屋から購入するには言葉はもちろん予算が圧倒的に足りないという事実だ。やはり近ツリの手配に賭けなくてはならないのだろうか。しかし、近ツリはチケット入手に関して途中経過を報告するようにはなっていたが、依然、具体的な枚数やら配分状況を知らせるまでには至っていない。
 そして私たちが考えたことは、近ツリのM添乗員を脅しても解決にはならないということと、彼らの力を使ってなんとかチケット入手するという点である。しかし、このまま近ツリが試合直前に「5枚チケットがあります。抽選になります」とやられてしまえば、まさかツアー客の前で彼を殴り倒して2枚奪取する訳にもいかず、その時点で抽選にはずれれば、もう試合開始まで時間がなく結局みることができない可能性が高い。
 リスクは冒せない、しかし近ツリの手配は信用できないし自力入手も困難だ。この行き詰まり状況を真剣に分析し、ついに私たちはある作戦にでた。

 息を整え慎重にダイヤルを回した。添乗員Mの部屋番号だ。あくまでも冷静にそして丁寧にこう伝えた。 「すいません。すこし相談に乗って頂きたい事があるのですが。本来なら私たちがそちらに出向くのが筋ですが、他の方の誤解を招いてもなんですから、できればこちらの部屋まで来て頂けませんでしょうか?」
 「はい、すぐに伺います」ピレネーの車中で兄がキレてからひたすらツアーと別行動し、何かと怒りを持った目でつっかかりそうな2人が丁寧に電話を入れてきたのだから、添乗員Mは息をのんだことだろう。

 部屋へやってきた添乗員に椅子をすすめ取り囲むように私たちも座った。(事前にどこへ座るかシュミレーションまでやっていた)
 そして静かに口を開いた。
 「どうでしょうか....チケットの入手状況は」
 「はい、頑張ってますがまだ手に入りません」
 「Mさん。現実的に明日までにツアー客30人分のチケットが入手できる可能性は無いでしょう? 良くて数枚ですよね。そうしたらどうなりますか?」
 「...ええ。おっしゃるとおりです。数枚は公平に抽選することになります」
 「公平?! 抽選?! 1月に全額支払った俺たちと昨日今日支払った人たちを一緒に抽選するのが公平なのか!」兄が立ち上がらんばかりに声を荒げた。

 もう打合せすることもなく兄弟は「脅し役」と「なだめ役」を自動的に演じていた。しどろもどろになる添乗員Mに追撃を加える兄を見ながらタイミングを計った。
 「ね、Mさん。なにもそのチケットを私たちに優先的に配分しろと言ってるのじゃないんですよ。皆さんが全員で見れたらいいですよね。私たちもそれを望みます。近ツリさんも今がんばってチケット入手して下さってるんでしょ」
 「だけどね、抽選というリスクは私たちは冒せないんですよ」

 少し場がおさまった
 私たちの主旨はこうだ。近ツリが手配しているだろうチケットは全員に渡る可能性が低く、手に入ってもせいぜい数枚なので、これはこれで引き続き全力で入手にあたって欲しい。しかしそれとは別で必ず2枚のチケットを入手するよう近ツリの資金力と交渉術を提供して協力して欲しい。
 「実はね、今日ツールーズの街で"チケット下さい"のボード持って交渉したんですよ。でもね、なんと1枚3000フラン以上するし手持ちの金は無いし個人ではもうどうにもならないんですよ」
 「...判りました。引き続き努力して報告します」

 添乗員Mは具体的ではないがなにやら絶対逃げられない契約を取り交わしてしまったかのように若干うなだれて部屋を後にした。

明日の決戦を前に私たちも浅い眠りについた。

※試合前日の夜になってもまだ1枚もチケットが配分されないということは、このツアーには最初から「枠」があてがわれなかったのだろうか。初戦でいうと少なくとも2000人以上が近ツリのツアーで渡仏しているはずだが、55枚のチケは均等に配分されずお得意様に回されたのかもしれない。
「チケットがありません」の記者会見からわずか数日しかなかったこの初戦ツアーは、ダフ屋でかき集める猶予も無かったと思われる。
何も情報が渡されないまま「添乗員ともども、まるごと見捨てられていた」可能性が高い。


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W杯の思い出:モンタバンの母娘

2014年05月25日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:近ツリのねらいの続き <目次


 ディナーも拒否、翌日のボルドーツアーも無視。我々には時間が無いのだ。のんびりとボルドーへ向かう日帰りツアーを横目に、自力でチケット入手を目指した私たちはツールーズへ向かった。ホテルを出て道のりも判らずとぼとぼと歩き始めたもののモンタバンの駅がどこにあるかも判らない私たちは通りがかりのフランス人母娘に手振り身振りで駅への道を尋ねた。


 フランス人は英語が喋れない。(知っていても喋らない人が多い)こちらもフランス語どころか英語もおぼつかない。
 ここで役に立ったのが当時勤めていたゼロックスが開発していた翻訳機「シノニー ユーロ8カ国版」だった。勤務先から無理言って借り出したこの翻訳機に日本語で検索し仏語を表示させて母娘に見せた。音声でも表現できるこの機械は、質問そのものより「日本のテクノロジー」として、その後も現地の人たちとのコミュニケーションに大変役立った。

※翻訳機「シノニー」で検索しても見当たらず、正式には「ゼロックス流暢(りゅうちょう)」という製品だったようです。もしかしたらシノニーは開発コードだったのかもしれません。英語版が発売されのちにウージョンやニーハオ、そしてユーロ8カ国版がリリースされたと記憶しています。

 母娘は何も言わず身振りで「ついておいで」と先に立って歩きだした。前を仏人母娘、後ろを怪しげな日本人2人が連れ立って歩く姿は田舎町モンタバンでは大変目についたようで道行く人たちが面白そうに振り返る。10分歩き20分がたち、途中雨宿りも含めて30分も歩いただろうか、道中、母娘と会話することもなく変な行進が続き我々はふいにバスターミナルへ出た。

言葉が通じないので黙って歩くしかない。


 ツールーズに行くには鉄道の駅へ行きたいのだがどうやらバス停へ連れてこられたようだ。とまどう私たちをそのままに、娘が止まっているバスの運転手になにやら話しをしている。
 そして娘がそのままバス待合所へ私たちを連れて行き、このカードを買うように窓口へ誘導する。言われるままカードを購入し、お互いおぼつかない英語で会話を続けているとどうやら駅までは歩いて行けないからバスへ乗れと言っているらしい。しかも買ったカードは1日券で帰りもこのままバスへ乗れるという。
 やがてバスが出発する時間となった。

 乗車口の前に立っていた娘に、慌ててポケットからコインを取り出し差し出すと笑いながら首をふり受け取らない。私は「ジャポンコイン」と言ってもう一度握り締めた50円玉を見せると今度はおかしそうに受取った。その後ろで母親が笑っていた。

※お礼は受け取らない、でも穴があいたコインはフランスでは珍しいという「マメ知識」から50円玉を渡しました(笑)今から思えば折鶴とか扇子など日本風のお土産を持っていけば良かったですね。

 ツールーズの駅へ到着し市内をあらためて見回すと、広場を中心にカフェが建ち並びいかにもフランスという雰囲気に包まれた。

中央広場。この周りはオープンカフェ。


 しかしチケット入手という目的に立ち返ると、素人2人がこのうごめく人波から売ってもいいという人を見つけ出し、しかも2枚で1000フラン(約2万7千円)という手持ち資金で購入できる可能性はほとんどない。それでもフランス語で「チケット譲って2枚」と書いたボードを足元に置き道行く人々へアピールを開始した。

 こんな方法で売ってくれるのか?はたまたTVや新聞で見た姿を、今、自分でやっているのかと思うと気も沈み勝ちだが、これはこれで反応があって結構面白い。いかにも怪しげなアラブ系フランス人は明らかにダフ屋で、こちらの予算を聞くとあからさまに嫌な顔をして離れてゆく。隣のカフェにはどこか旅行社のエージェントだろうか、スーツを着込んだ日本人とフランス人の組み合わせで先ほどのダフ屋と熱心に交渉している。

 しばらくするとフランス人アベックが近寄ってきて1000フランと聞くと売りそうな雰囲気になった。「ドゥ(2枚で1000フラン)」と言うと傍らの彼女が「もうやめとき」という感じで立ち去った。もっとあからさまに、売る気も無いのにからかいに来るグループや、哀れみの目で見る人たちが流れた。

 結局、数時間これをやってわかったことは、チケットはこの時点で1枚3000フラン以上で取引されていて個人が購入することと、日本の旅行会社は値段が高騰するからと嫌がっているという点だ。
 旅行会社は全員のチケットは無理にしても多くのチケットを入手してツアーなのかお得意様なのか手配する必要があるのだろう。あまり高額な取引で値段があがり全体の相場に影響するのを嫌がって、個人が高額で購入するのを快く思っていないようだ。
 もちろん我がツアーの添乗員Mはここへチケット入手へ現れるはずもなく今ごろボルドー無料ツアーのご機嫌を取っているのだろう。

 チケット相場は判ったものの、手持ちのフランも少なくまた一万円札では取引できないという現実だけが残った。試合開始までもう20時間を切った。
(この時、ツールーズの銀行では日本人が大量にフランを引き出したために一人あたり2000フランという制限を行ったそうだ。私たちがツールーズに着いた土曜・日曜日は銀行も閉まっていたため、その2000フランを引き出す手段も無かった)

※当時はインターネットも普及しておらずFacebookもTwitterもなし。情報といえばローカルニュースの映像しかありませんでした。言葉は分からないが「チケット騒動」について話題になっていたことは確かでした。

 結局、チケットを入手することができないままツールーズの駅からモンタバンへ戻った。夜の7時頃だったと思う。
 モンタバンの改札を出て駅前のターミナルに立つと、止まっていたバスの中から運転手がこちらを見て手招きしている。往きに乗ったバスの運転手では無いがなにやらミスタースポックみたいな人がひらひらと手を振って乗れと促している。

「ミスタースポック」の後ろ姿


 おずおずと差し出した「一日券カード」をろくに見ないままバスは発車し、朝、出発したバスターミナルに戻った。そしてミスタースポックは別のバスを指差し、なぜかそのバスの運転手も手招きしている。乗り換えたバスの運転手もカードを見ないまま発車させ、バス停の無いホテルアビス前に停車した。
 なんとフランス人母娘から引き継がれた運転手は、この怪しげな日本人が戻ってくることを仲間に連絡していて、しかも宿泊先がホテルアビスであることも調べ上げて待っていたのである。
おそるべし田舎町モンタバン。


お世話になったフランス人母娘。
しかし、ん十年後に右のスタイルが左のスタイルに変わるのだろうか?

 




















※モンタバンの人たちはほんとに親切でした。現地の人がどういうリレーをしてくれたのかは分かりませんが、駅やバスターミナルにいつ戻ってくるのか、果たして今日中に戻ってくるのかさえ分からない私達を、一分の隙もなく待っていてくれたということは、かなりの広範囲で指名手配されていたと推測されます。ありがたいことです。

ちなみに、イビスホテルからモントーバンの駅まで徒歩1時間くらいの距離でした。
モントーバンからトゥールーズまで50km、切符の買い方や時刻表どころかどっち方面に乗っていいかも分からないままよく行ったものです。




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W杯の思い出:近ツリのねらい

2014年05月24日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:26時間の続き <目次



 ホテルへ着いたその日、添乗員Mが試合会場となるツールーズスタジアムまでバスで行くと案内した。
 あさっての午後には日本代表VSアルゼンチン代表が戦うサッカーフリークにとっては記念となる会場へ近づき、チケットは持っていないものの気分は高まる。道中、添乗員Mは「チケット入手は厳しい状況です」とか「最悪でも大型スクリーン観戦が可能です」と逃げを打ちはじめている。

 スタジアムに到着すると綺麗に整備された公園風の中州に古いが存在感のある外壁が見えた。周辺には日本人サポータが集まりいやでも決戦ムードが高まる。しかしわがツアーの面々は大人しいのかのん気なのか、スタジアムを背景に記念撮影をしている。

ツールーズのスタジアム。これは試合前日の風景


 兄と私はいざとなればどのフェンスを乗り越えれば突入できるか偵察に忙しく、ほのぼのと記念撮影などしている暇はない。もうこの頃には私たち兄弟には絶対とも言える信念が芽生えており、それは「何があっても観戦する」という単純であり困難な決意であった。

 ツアー一行は再びバスに乗り込みホテルへと戻った。南フランスの片田舎モンタバンにあるアビスホテルは小さいながらも清潔な部屋を用意してくれる落ち着いた感じの宿であった。
 その夜の食事は予定では自前であったが添乗員から「お好きなものを注文ください。ツアーで用意させて頂きます」と案内された。しかも翌日の自由行動は「ボルドーへバスを出しますので無料で日帰りツアーをお楽しみください」と至れり尽せりのサービスを発表している。

ホテルアイビス
とても静かで、庭にはウサギがいた。



 どうも怪しい。どう考えても30人からのこのツアー全員へチケットが行き渡る手配がされているとは思えない。ただ怒りを静める為だけにディナーが用意されオプションツアーが無料になり、ただただ時間が過ぎていくだけのように思える。
 この時確信したのだ。近ツリは時間切れを狙っている。自然死を待っているのだ。








※「アイビスホテル」は、正しくはイビスホテルのようです。ついでに「ツールーズ」はトゥルーズ、「モンタバン」はモントーバンと表記されています、googleでは。
それにしてもわずか十数年でストリートビューを通し現地の様子が見られるようになるなんて隔世の感ですね。


戻る 続く

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W杯の思い出:26時間

2014年05月23日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:チケットが無い?の続き  <目次


 飛んだANAは1階席満員すし詰め状態で、しかも観戦チケットを持たない人々が何か集団で葬式にでも出向くかのように沈黙して座っている姿には、さすが旅なれたスチュワーデスですら声をかけづらい雰囲気であった。
 そもそもエールフランスのバカどもがW杯を人質にとり開幕寸前までストライキをやらかしたために各旅行社が直行便をぎりぎりまで手配できていなかったので、楽しい楽しい「旅行日程表」が出発3日前まで送られてこなかった。もっともチケットも手配できてなかったので日程表も送りようが無かっただろうが。

※このような大きなイベントに合わせてストライキをやるのが外国。日本では考えられないことですが条件闘争としては最高のタイミングなんでしょうね。2014年ブラジルでは警察官がストやってるし。

 この満員状態で精神状態不安定な数百人もが16時間も閉じ込められてたら、突如飛び降りるヤツが出て来るんではないだろうかと思ってこちらが飛び降りたくなったとき、兄が何かパーサーに話しをつけている。どうやら2階ビジネスクラスへアップグレード(席の交換)を要求しているようだ。手招きされて2階アッパーデッキへ上がるとなんとガラ空き。ただしビジネスクラスではなく同じエコノミー席が、余裕を持って配置されていて数人が座っているだけだ。
 話をよく聞けば、兄は出張で溜め込んだANAマイレージでビジネスクラスへの席替えを要求したら、この便にはビジネスクラスは無いが2階のエコノミーで良ければ移ってもよいとの事だった。一人で「食事用3席」「ビデオ鑑賞用3席」「仮眠用3席」を確保でき楽しくはないものの階下のドレイ船状態を考えると信じられないほど快適な空の旅へ変わった。

※もちろん今ならキャビンアテンダントとお呼びするところです。当時はスチュワーデスでした。また機内には1階後方に喫煙席がありました。

 十数時間ののち着陸したのはパリでも無くマルセイユでも無く、まだイタリアのミラノ空港だった。ここで1時間のトランジットが3時間になり、またイタリアの国内路線で移動して中々フランスが近づいて来ない。チケットさえ持っていれば苦にもならない旅ではあるが、さすがに疲労とストレスが溜まりつつある。

イタリア「ミラノ」空港
ここで3時間のトランジット。
スリが多いのでベンチで寝ていられない。












 イタリアからスペインのビルバオへ飛びそこからバスに乗り換えた。なんとスペインからピレネー山脈越えで8時間かけて陸路フランスへ向かうルートだという。もう既に日本から20時間近く経過して疲れきっている上にバスの硬い椅子席でこれから8時間走るという拷問を強いる「観光ツアー」があるだろうか?

 この間一度もチケット入手に関する情報は説明されていない。出発前に支店長が言っていた「入手に全社が全力をあげて取り組みます」という話は、その後どのように展開しているのだろうか。

※バスは、FCバルセロナが乗ってくるようなヤツではなく、ほんと市バスのローカル路線を走っているような直角椅子のものでした。しかもルール厳守で2時間経つと必ずそこでバスを止め運転手が休憩するのです。休憩はいいんですが、あと数百mも走ればそこにドライブインが見えているのに2時間ぴったりで路肩でも停車します。

 バスに乗って初めて判ったのだが当日関空出発のこのツアーの面々は30名弱だろうか。数人のグループや親子連れ、新婚旅行を兼ねたのだろうアベックもいる。今まで他社ツアーも含めて大量に同乗していたのだがこのピレネー越えのバスに乗車したのが同じツアーのメンバーなのだろう。このとき常識的に考えて状況は極めて悪いと知った。
 全国で55枚しか確保できていない近ツリのチケットが、2枚このツアーに配分されて、兄と私が確保できる確率は0に等しいと。

wikiによると、結局、近畿日本ツーリストでは5,583人に対し384枚を確保、配分率は6%ということでした。出発時に聞いた「2700枚中55枚」というのは、恐らく第一戦のアルゼンチン戦の手配率だと思われます。

 最初にキレたのは兄だった。当初の日程ならばパリ直行便でこの日は「なんとかホテル」でディナー付きとなっていた日程がいまだ深夜のピレネー越えの途中。しかもディナーの代わりに「大阪支店長が用意して下さった」おかきが添乗員から配られた時だった。
 突如立ち上がった兄が「おかきなんか要らない。もう20時間以上もたつのにチケットの情報が無いのはどういうことだ!」と声をあげた。バス中が静まり返った。兄はわたしと比べて5割ほど切れるのが早いたちだが、目配せも無く突然切れたところを見ると、マジで切れたのだろう。

※支店長が用意するのはチケットであって「おかき」じゃねーだろう!ぶちって感じでした。

 間抜け面の添乗員Mは、「全力を尽くしてます」「現地対策本部が頑張ってます」と泣きそうな声で説明するが、この時まで一言も説明しなかったという点からしても何も情報を持っていないのは明らかであった。 
 ようやく空が明るくなり始めた頃、バスは試合会場となるツールーズの隣町モンタバンのホテル前へ滑り込んだ。


戻る  続く

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W杯の思い出:チケットが無い?

2014年05月22日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:そんな時代
の続き  <目次


 年が明けて1998年1月。一部の旅行社では早くもW杯観戦ツアーが売り出された。早々と近畿日本ツーリストに即日全額を振り込んだ。
 あとは6月開幕まで会社の仕事をいかにうまくスケジュールするかだ。
 でもまさか1月の雪降る寒い夜に上司を飲みに誘い日本酒を差し向けながら「えーっと6月に有休下さい」なんて相談が本気と取られるはずも無く、「わはは」の笑い声とともに「ほんと行くの?へぇー好きだねぇ」と90%ほど変人扱いモードで笑い飛ばされるだけだった。
 毎日毎週仕事しつつも、飲み会など機会をみては「フランス行ってくるわ」とジャブを出し、有休を無駄に消化せず病気もせず目立たず役立たずひたすら日々が流れ5月連休明けとなった。

 1998年は会社の収支決算が12月に変わった最初の年であり、その半期を締めくくる上期決算日は6月である。その上期決算に土日と有休で10日間も休むとなれば、いくらその話が毎回毎回飲み会の席上で語られていたとしても有形無形のプレッシャーがかかるようになってきた。
 しかし既に「1月にツアー代全額払っているのだ」という素晴らしい既成事実があるおかげで、それをキャンセルしてまで働けという話にならなかった。

 誰もがそうであるように旅のほとんどの楽しみは出発する前に集約されていて、あれだこれだと準備することが忙しくも楽しく、これから旅がはじまるのだという高揚感が日常の生活を楽しくする。それが待ち望んだW杯しかも日本代表VSアルゼンチンの初戦観戦となれば、出発直前まで続く仕事もなんのその。今ならなんでも言うこと聞いちゃう状態であった。

 そんな中、関空出発の2日前である6月10日午後6時過ぎ、もうタイムカードを押しちゃえばあとは完全ワールドカップ観戦モードになる寸前であった。当時の会社の休憩室で上司ともどもタバコをくゆらせていると、突然私の携帯電話が鳴った。

 携帯は母が家から連絡してきたものだった。
「あんたテレビ見た?チケットが無くってツアーが中止されるって言ってる」
「???」
 なんのことか理解できぬまま休憩室にあったテレビをつけると旅行会社の共同記者会見を放送している。チケットが無い?旅行は中止?我々も困惑している?...地方の弱小会社が発表しているのではない。日本旅行業協会の共同発表で、JTBから近ツリまでずらりと大手が並んでいる。理解できないまでも何かとてつもない事が起きたと感じた。
 上司の「ツアーが中止なら仕事できるね」という冗談ともとれない言葉を聞き流しつつ、急ぎ兄へ連絡を取り情報収集に努め湧き上がる怒りとぶつけ様の無い苛立ちを居酒屋のビールで流し込み、対策を考えるというよりは確実な話が出るまでグラスを重ね続けた。

※ワールドカップという大イベントで日本は丸ごと騙されたんですから、「こりゃ仕方ない、さすが世界的な詐欺はスケールが違うなぁ」などとは全く思いませんでした。それより、なぜ2日前までツアー客に一本の電話もせずいきなり「記者会見」で事実を知らせるのか、まったくの不意打ちでした。

 結局、この時点でツアーを申し込んだ近畿日本ツーリストは「全国で2700枚のうち55枚」しかチケットを確保できず、事実上ツアーの中止を発表した。他社も同様の状態で唯一JTBだけは「ツアー続行、ただし観戦できなければ代金全額返金」と発表し他社を後々の営業面でリードする対応を見せた。
 兄と相談しつつ色々な情報から私たちはツアー代金返してもらっても仕方ない、行っても観戦できないかもしれんが行かなきゃ絶対に観戦はできない!と判断して12日出発日に関空へ向かった。

6月12日 関空国際線待合室


 当日、関空では近ツリ大阪支店長をはじめ背広組が手に「承諾書」を持って待っていた。承諾書には「観戦ツアーは中止を了解し、手配旅行による観光ツアーで出発します」と記載されている。しかも口頭で「ツアーで行って試合を見れなければチケット代3万円を返金します」と言うではないか。35万円のツアーでフランスの田舎まで観光に行き、しかも観戦できなければ3万返して終わりにするっていう話にぶち切れ寸前ではあったがサインせねば出発させないと二者択一を迫られ、どうせそんなもの何の意味も無いわ!と無理に納得しサインした。
 なぜこんなことになったのか呆然としつつも、これからの旅はどうなるのか不安を抱えたまま飛行機は関空を飛び立ったのであった。


※近畿日本ツーリストが企画したW杯観戦ツアー。企画旅行で試合が観られないとなると旅行そのものが成立しなかったと成りかねないので、のちの訴訟まで考えた結果、「個人手配旅行」に切り替える承諾を取ったと思われる。当時の私達はその後の補償や法律的に云々というより、行かなければ絶対に観られないという一点にこだわった。

戻る 続く

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W杯の思い出:そんな時代

2014年05月21日 | サッカー

この記事は2000年に書いた、「極めて個人的な思い入れによる1998年フランスワールドカップ観戦記」をブログに転載したものです。
2014年ブラジルワールドカップを控え、もう一度思い出として、またプロバイダー変更など環境の変化で原稿を失わないようこちらに転載しています。
加えて、時代もだいぶ変ったので当時の背景を赤文字で追記しています。なお、本文は触っていません、執筆当時のままを残していますので誤字脱字、表現内容ともに不愉快な点がありましたらお許し下さい。




目次

(1)  W杯の思い出:そんな時代
(2)  W杯の思い出:チケットが無い?
(3)  W杯の思い出:26時間
(4)  W杯の思い出:近ツリのねらい
(5)  W杯の思い出:モンタバンの母娘
(6)  W杯の思い出:ダイヤルMを回せ
(7)  W杯の思い出:タイムリミット
(8)  W杯の思い出:現地対策本部
(9)  W杯の思い出:プラチナ
(10) W杯の思い出:ほんとの奇跡


 そもそもサッカーは「新聞片手にチャーハンを食べながらTV観戦する」には向いてない。あまり得点が入らない。ずーっと場面がつながっていて、どれがチャンスなのか、いったいピンチなのかピンとこない。時々、主審が笛を吹いて場面が止まるがどちらの反則か判らない。中盤から「もっと思いっきり蹴れ!」と思ってもチョコチョコと動いてストレスが溜まる。見てて判らないしめったにTV放送も無いし、世のお父さん連中は阪神か巨人だし、サッカーがこの日本で注目を浴びるなんて予想もできなかった。そんな時代であった。

※親戚一族を含め、誰もサッカーファンなんて居ない環境で、突如、兄と私が食い入るように深夜放送を観はじめたので両親はびっくりしたことでしょう。

当時、W杯深夜放送のTV画面を、写真に撮っていた。(これは74年西ドイツ大会か?)


 中学校に入学した私は2年上級に兄が居たこともあり、さしたる興味も無いがサッカー部に入部。素質もなけりゃ名門チームでも無いんだが1年も走り回ればルールと体力くらいは身に着いた。当時、サッカー番組はサンTVというローカル局が週1回「ワールドサッカー」というのを放送していて、解説は今のサッカー協会会長岡野俊一郎。中田英寿や城に名波と今やワールドワイドな日本人が珍しくなくなったが、当時はブンデスリーガー(西ドイツ)に奥寺康彦という選手が唯一活躍していて、出場試合が放送されるとテレビに噛り付いて見ていた。子供ながらに世界を舞台に日本人が活躍していると大和魂がうずいたもんだ。



※サンテレビ:関東地区では「三菱ダイヤモンドサッカー」と呼ばれていた番組を、UHF局の関西ローカルとして購入し放送していたもの。神戸には神戸製鋼という地場産業があり「三菱」という競合企業の冠を付けることができず単に「ワールドサッカー」として放送していたらしいが、その真偽は不明。
 前後半を2週間に分け、さらにCMを抜くと45分のゲームを25分くらいに編集して放送していた。「それでは来週の後半戦をお楽しみに」というフレーズがアタリマエだった時代。


※奥寺康彦(1952年生) 恐らく1FCケルンに在籍していた頃。1977-80所属。日本人初のプロ契約選手。
ヨハンクライフ(1947年生)・岡野俊一郎(1931年生)さんとか、元気にされてるんでしょうか。

クライフ ダイレクトボレーの瞬間。


 そんな1982年、スペインでワールドカップが開催されて、この模様はNHKが深夜早朝にかけて生放送していた。夕方から寝て深夜2時に起きて生放送を見て翌日は再放送で確認するという生活になった。そして4年後のメキシコ開催、さらに4年後の1990イタリア開催と、私にとってのワールドカップは「深夜に生放送を見て翌日は眠たい」(もう社会人だったし)4年に1度のイベントであった。
 出来れば時差の無い国で開催してもらいたいもんだと思ってたくらいだ。もちろん当時はJリーグも無く社会人リーグなんて放送も無いし興味もない。そんな時代を経て、日本代表チームは1994年W杯アメリカ開催に向けて静かに走り出していた。

 1990年代の日本サッカーはJリーグを基盤として順調に強くなっていた(らしい)。が、結局ワールドカップアジア予選では韓国に敗れ出場権を勝ち得た事が無い。昔からヨーロッパを中心とした近代サッカーを(サンテレビで)勉強し、4年ごとにW杯深夜生放送を見つづけてきた私にとって、韓国に必ず負けてアジア代表になれない日本はどちらかと言えば「見たくない」試合であった。
 が、勝ち馬に乗れ!ではないが、1994年アメリカW杯予選はどうやら日本が残りそうだと判ってきた。どうにもこうにも「あのW杯に出場できるのではないかだろうか?」と居ても立ってもいられない。「あのW杯」とは一般に言う「4年に1度のヤツだろ?」という意味だけでない。20年にわたり深夜放送で観戦しつづけたヤツだ。私にとって「あの日本代表がW杯に出られる」ではなく、日本代表が「あのW杯にやってくる」という感覚だ。
 
 この時の結果はご存知であろう。ラモス・ゴン・カズらを擁する日本代表は、最後の最後でドーハの悲劇を迎える。ロスタイムに同点ゴールを許しベンチに下がっていた中山が崩れ落ちるようにうずくまる。
 やはり日本はW杯に出場できなかった。この日、自宅には予選対戦国の縦横組み合わせ表が張ってあり、各チームが最終戦をどう終われば日本が出場権を得るかが塗りつぶしてあった。数十の組み合わせのうち、僅か数マスの、色が塗られてない枠に見事命中してしまった。やはりW杯は深夜放送で見るもので日本が出場するべき大会では無かったのだ。

※「縦横組み合わせ表」は、パソコン通信しかなかった時代に貴重な情報源となっていたniftyのFSoccer(サーカーフォーラム)からテキストベースで頂いた。

 それからの展開は4年を待たない。4年後のW杯開催はフランスに決まっていたが既に予選が始まっていたからだ。
 加茂監督率いる日本代表はアジア一次予選を大差でぶち破り二次予選へ進んでいた。会社員であった私は香港ラウンドまで行く気は無かったが、もう既にこの時には本戦出場が決まればフランスへ飛ぶ!と決めていた。ちまた日本代表が快勝を続けマスコミでも報道される中、会社ではネタを振り「やっぱりフランスへ行くかぁ」と予防線をはりつつ1997年二次予選を見守った。
 当然、楽勝とは思っていなかったがご存知のとおり加茂監督解任やら、国立競技場たまご事件など、W杯出場への道は険しく、こちらも疲労困憊、あきらめたり怒ったり宗教的になったりと意味不明。
 確かに日本代表がフランスへ行って欲しいと言う気持ちではあるが、「次のW杯開催は日韓共催」と決まっているだけに、なんとか自力でフランスへ行って欲しいというほうが強かった。(開催国は無条件出場)
頼む、W杯初出場が自国開催で実現だなんて勘弁してくれ!
 サポーターの祈りが通じたかドーハの悲劇になぞらえて11月16日ジョホールバルの奇跡と呼ばれたイラン戦で、Vゴールが決まり日本代表がついに悲願のW杯出場権を得た。
 この時はまだ、ジョホールバルが「奇跡」であって、その後私に訪れた困難と「奇跡」のストーリーは始まっていなかった。

※「ジョホールバルの奇跡」 野人こと岡野選手が再三のチャンスを外す中、しびれを切らせた中田英寿選手が自らシュートを放ち、キーパーが弾いたこぼれ球をようやく岡野が押し込んだ。当時は延長戦前後半ではなく追加点が決まった時点で「サヨナラ」のVゴール方式だった。 
Vゴールを決めた岡野選手は、「このまま負けたら日本に帰れない」と思っていたらしいが、一躍ヒーローとして帰国、その後2013年12月に引退するまで選手生命を永らえた。 

 続く

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