今回は、長野県諏訪郡富士見町でみつけた巨石と興味深い遺跡の紹介です。
【小六石】
場所は、JR中央本線信濃境駅より県道17号(茅野北杜韮崎線)を北へ。中央自動車道を過ぎ1キロメートル程行った左手にあります。
県道側より
背面より
由緒:昔 武田の家臣に「岡田小六」なる者あり 天文・弘治(四七〇年程前)の甲越戦争の頃 この地に小屋を構えて住居し 農耕のかたわら 諏訪側の状勢を偵察してこの黒い石を目標に やって来る武田軍の使者に情報を伝える使命を帯びていた(この道が中の棒道で 天文二十一年(一五五二)頃に作られたものです)
ほどなく 弟の岡田左近にこの地名を継がせたが 信玄亡き後(天正元年)は 甲斐の国 上野村に移り住み この地で亡くなった
小六の村名は この岡田小六の名からとったものであると伝えられる この由緒ある石であるため 古来より「小六石」と称し 高島藩主の御巡見毎にその由緒を申し上げ 保存して今日に至る(現地案内板より)
ほどなく 弟の岡田左近にこの地名を継がせたが 信玄亡き後(天正元年)は 甲斐の国 上野村に移り住み この地で亡くなった
小六の村名は この岡田小六の名からとったものであると伝えられる この由緒ある石であるため 古来より「小六石」と称し 高島藩主の御巡見毎にその由緒を申し上げ 保存して今日に至る(現地案内板より)
最寄りの駅名にもあるように、この地区は甲州と信濃の国境の要所でこの巨石を通じて密書のやり取りをしていたと伝えています。
背面には、大きな亀裂があります。きっとこの何処かに密書を隠していたのでしょう。
【史跡ドルメン類似遺跡(坪平遺跡)】
続いて、更に県道17号を北上し富士見町立本郷小学校の手前を左に折れ坂を下った先に「ドルメン類似遺跡」と、言う興味深い名称の史跡があります。
由緒:ここ坪平遺跡は、大正の末年、郡史編纂調査の一環として民族・考古学者の鳥居龍蔵博士らによって発掘され、「ドルメン類似遺跡」と称せられた。
発掘されたのは石で覆われた墓と目される遺構で、四メートル近い間隔で二基ならんで発見された。片方は偶然、地主の植松夏平氏によって掘り起こされた。南北五.七メートル、東西四.五メートルばかりの長方形に積石がなされ、その北端に長さ十五センチ弱の人形をした石製品(立沢区所蔵)があったという。
もう一方もやはり南北五メートル、東西三.六メートルほどの長方形に積石がみられた。掘り起こして見ると六十センチほどの深さに積まれており、中央やや北に寄ったところには直径一メートル余の大きな蓋石がいくつかの支石の上に被せられていた。支石で囲まれた不規則な室は長さ九十センチ、幅三十センチほどであるが、そこに遺物は見当たらず、蓋石の北側から石器や土器片が発見されたという。
このような支石と蓋石のあり方はヨーロッパ考古学で「ドルメン」と称する支石墓(しせきぼ)に似ており、これらは石器時代の墳墓である。そして、日本にも巨石文化の小規模なものが存在したと、鳥居龍蔵は考えた(『諏訪史』第一巻)。
こんにち、坪平遺跡は縄文時代後期(およそ三八〇〇年前)の遺跡として認識されている。いっぽう、一九八〇年来、八ヶ岳南麓の北巨摩郡下では墓や墓域に大量の石を用いた同時代の遺跡がいくつか発掘されてきた。それらに照らしてみると、坪平の遺構を支石墓と断定することには疑問もあるが、諏訪における考古学史上記念すべき遺跡であることに変わりはない。その時の発見箇所一〇〇平方メートルほどが、区有地として保護されている。
なお平成十年、この東に隣接する土地五〇〇平方メートル余りを発掘調査した。しかし、墓跡と思しき穴三基を検出したにとどまり、同類の遺構は見当たらなかった。(以上は、現地案内板より)
(現地案内板:サムネイルをクリックして拡大)
発掘されたのは石で覆われた墓と目される遺構で、四メートル近い間隔で二基ならんで発見された。片方は偶然、地主の植松夏平氏によって掘り起こされた。南北五.七メートル、東西四.五メートルばかりの長方形に積石がなされ、その北端に長さ十五センチ弱の人形をした石製品(立沢区所蔵)があったという。
もう一方もやはり南北五メートル、東西三.六メートルほどの長方形に積石がみられた。掘り起こして見ると六十センチほどの深さに積まれており、中央やや北に寄ったところには直径一メートル余の大きな蓋石がいくつかの支石の上に被せられていた。支石で囲まれた不規則な室は長さ九十センチ、幅三十センチほどであるが、そこに遺物は見当たらず、蓋石の北側から石器や土器片が発見されたという。
このような支石と蓋石のあり方はヨーロッパ考古学で「ドルメン」と称する支石墓(しせきぼ)に似ており、これらは石器時代の墳墓である。そして、日本にも巨石文化の小規模なものが存在したと、鳥居龍蔵は考えた(『諏訪史』第一巻)。
こんにち、坪平遺跡は縄文時代後期(およそ三八〇〇年前)の遺跡として認識されている。いっぽう、一九八〇年来、八ヶ岳南麓の北巨摩郡下では墓や墓域に大量の石を用いた同時代の遺跡がいくつか発掘されてきた。それらに照らしてみると、坪平の遺構を支石墓と断定することには疑問もあるが、諏訪における考古学史上記念すべき遺跡であることに変わりはない。その時の発見箇所一〇〇平方メートルほどが、区有地として保護されている。
なお平成十年、この東に隣接する土地五〇〇平方メートル余りを発掘調査した。しかし、墓跡と思しき穴三基を検出したにとどまり、同類の遺構は見当たらなかった。(以上は、現地案内板より)
(現地案内板:サムネイルをクリックして拡大)
この何処かに、遺構があるものと思われるのですが草が生い茂っていてみつけることはかなわず後日解説文にあった「諏訪史1巻」を確認したところ以下のような図面をみつけました。
諏訪史1巻 本郷村立澤ドルメン類似遺跡(P33~44)より
興味深いのは、その北端に埋まっていたという長さ十五センチ弱の人形型の石製品がみつかったこと。
どのようなものか調べてみたら以下のような写真がヒットしました。
転載:広報ふじみ(2015.5)(PDF)より
やはり形状からして土偶の類でしょうか?併せて遺構の写真も掲載されていて「ドルメン類似遺跡」と、わざわざ名称を付けたのもわかる気がします。
「ドルメン」と言うと、左右の支柱が天蓋を支えているイメージがありますがローテーブル状のドルメンは、九州地方各地でけっこう見つかっています。
参考リンク: 九州の遺跡探訪
「ドルメン類似遺跡」は、規模こそ小さいとはいえ同様な遺構は、九州地方の一部でしか見る事が出来ずかつての縄文文化が栄えたこの地に存在していた事実は、非常に貴重な史跡といえます。
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