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【神社・仏閣・古墳】 若宮・愛宕神社~日野宮神社~東光寺薬師堂~神明社~七ツ塚古墳(日野市)3/14追記

2015-02-22 | 神社・仏閣
日野市の市名のルーツでもある「日野宮神社」 その祖霊が奉られている「日奉氏」とは?

 我が多摩市のお隣にある「日野市」
その市名の起源は、諸説あるようですが有力視されているものに
武蔵七党のうち西党の祖日奉宗頼が、遠祖天御中主神を勧請して、日野宮権現を祀ったという伝説に基づくという説(『新編武蔵風土記稿』より)
が、あるそうです。
 ここで、登場する日奉氏と言えば、太陽祭祀を司った日奉部(日神祭祀にかかわる部民)に起源を持つ氏族で、
「太陽の光のもっとも弱った冬至などの冬の季節に日炊の行事を行って、火の力で太陽の力を復活させようとした。」
が、彼らの主な任務だったようです。

「日本書紀」の敏達天皇の六年(577)の春二月に「詔して日祀部・私部(ひのまつりべ きさいちべ)を置く」との記述があります。これが、太陽祭祀を行っていた彼らのルーツとされています。
彼らは、下上総、武蔵、上野、飛驒、越前、大和、土佐、筑紫、肥後、豊前など各地に派遣され天照大御神をルーツとする天皇の権威を宣揚する職掌を与えられた在庁官人だった様です。

 府中に国衙が築かれ、ここを拠点として勢力を伸ばしていた日奉氏を祀る神社が今の日野市栄町に鎮座する日野宮神社なんだそうです。
そんな彼らの拠点だった場所にある足跡を訪ねて、2月ももう終わりの風のない穏やかな週末に、サクラさんとチャリでブラっと出かけて見る事にしました。

 まず初めに向かったのは、高幡不動ゆかりの「若宮・愛宕神社」です。

若宮・愛宕神社 祭祀:誉田別尊・迦具土命
「旅の僧侶が、金剛寺(高幡不動)の不動明王の脇士を彫刻し終え労をねぎらう宴の後、別れ際に忽然と消えていなくなった」事から神仏の化身に違いないと別旅明神を建立したのが始まりと伝えています。
朱色の社殿が鮮やかです。どうやら最近塗り替えられた様です。

境内には、意味ありげな霊石が奉られていました。

 続いて、浅川を渡り川崎街道を北へ 甲州街道沿いにあった日野宿交流館に立ち寄りトイレ休憩。
ここで、情報収集。この辺りには、ちょっとした散策路が設けてあって、有名なお地蔵様があると言うので、立ち寄って見る事にしました。
日野宿本陣を左に見て、日野図書館脇の路地に入ります。

健康長寿地蔵尊(けんころ地蔵尊)普門寺の山門脇に鎮座しています。「健康に生きコロっと逝く」とかけ平成23年盛大に開眼式が執り行われたそうです。


続いてこちらは、とんがらし地蔵尊(別名「ヤンメ(病み目)地蔵」)目を患っている人がとんがらしを備えるとご利益があると伝えられています。
新選組の沖田総司も姉とともに手を合わせていたとの伝えがあるそうです。

興味深かったのは、両脇に穴が空いた石が多数奉られていました。詳細は不明だそうですが「(目を患っていた人の目が開く(メアキ)」と勝手に解釈したりしています。

 住宅街を抜け、中央線のガードを眼下にすぎれば、日野市栄町です。都営日野栄町団地の中を行けば、日野宮神社に到着です。

日野宮神社 参道

日野宮神社 祭祀:天御中主尊・高魂尊・日奉宗頼・日奉宗忠
創立年代はよく判っていません。武蔵七党の中の西党の祖日奉宗頼が武蔵国の国司となり、その孫西内大夫宗忠が西党の始祖となって、その子孫が祖神を祀って日野官権現と称したといわれています。日野市観光協会HPより)

本殿 鰹木がなぜか一本だけ…!?
日野市を代表とする神社で、貴重な遺構などが出土していたりしている割には、少々残念感が漂うお社です。

古くは、日野宮大権現と呼ばれていました。
また、この地区では、ウナギを忌み嫌う風習があるそうです。(詳細は、案内板参照)


案内板(クリックして拡大)

 続いて、やはり日奉氏ゆかりの薬師堂を訪ねてみました。

東光寺薬師堂  正確には、成就院の境内にあります。東光寺は町名を残すのみで現存していません。

案内板(クリックして拡大)

今でも安産や平癒の祈願に参詣する人が多く訪れているそうです。
成就院の境内に建つ薬師堂は「安産薬師」とも呼ばれています。日奉宗頼の孫の西大夫宗忠がその居城の鬼門よけのために、この薬師堂を建立し、日奉氏没落の後は、荒廃してしまったものを、天正8年(1580)に再建されたと伝えられています。(日野市観光協会HPより


 続いて、ほど近くにある東光寺神明社へ


祭祀:天照大御神 
前述の日奉宗頼の子孫がこの地に住み、伊勢神宮を勧請したと伝えられています。
社殿の向きはほぼ東向きで、ハケの斜面の上に鎮座しています。

 さて、神明社の脇からハケの上に出ます。

この辺りは、とても見晴らしのいい場所になります。日奉祭祀を行うのにも絶好の地であると思われます。

事実 冬至の日の入り方向に富士山がピッタリと乗ります。(黄色のラインが冬至の日の入り方向)

 最後に向かったのが七ツ塚古墳群です。


一号墳と金毘羅宮

案内板(クリクして拡大)

遠景でわかりにくいのですが、ぽっこりした小山がどうやら古墳みたいです。
この周辺には、遺跡が多くあって髷を結った埴輪や武人の埴輪など鳥居龍蔵博士も調査に来た様です。
しかし、なぜか現在それらの遺物は行方知らずらしいです。
この辺りに、日奉氏が 館を構えていたと伝えられていますが定かではないようです。
やがて、その勢力は、中世以降武士団・武蔵七党の西党へとつながっていきます。

 帰路は、日野バイパス角上日野店に寄って、刺し身などを購入し浅川~多摩川経由で帰路に着きました。
往復工程約21キロほどでしたが、チャリであれば、まだまだ体力的にも十分散策可能な事がわかりました。
これは、今回大収穫でした。今後の励みにもなりそうです。
【ルートマップ】
今回は、頑張ってカメラのアイコン(?)をクリクすると写真がポップアップする様にしてみました。
緑ライン(往路) 青ライン(復路)



【追記】3/14

先日訪れたウォーキングの際に、興味深い事実を知りました。


平山季重神社@日野市平山城址公園内
ここは、昔日奉明神社と呼ばれていたそうです。
日奉明神社 村ノ南ノ方ナル山上ニ有。小祠平山武者所季重ガ霊ヲ祀レリト云。近村引田村
ノ日吉社ニ。天正十七年。奉納ノ繪馬アリ。 裏ニ武州多西郡引田村。 當領主日奉之朝臣
平山右衛門大夫也トアリ。是ニヨレバ當村モ昔カノ人領セシ所ニシテ。村名モ平山ヲ唱フレバ。
後世季重ヲバ祀リタルナラン。例祭ハ三月六日ナリ。即チ没セシ日ナリト云。

(新編武蔵風土記/日野編/(106)巻之百六(多磨郡之十八)/小宮領/(04)平山村)より)

現在の平山城址公園駅前にある図書館付近には、武蔵七党の一つ西党一族“日奉氏”の流れをくむ平山氏の居館および居城があったと伝わります。
平山季重は、日奉宗綱の子八郎直季にはじまるとされ、その子孫がこの地に祖霊を祀り今でも季重神社は日奉神社とも呼ばれているそうです。また、今でも多摩地区にその子孫が多く暮らしているそうです。

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