先週末サクラさんの母方の実家に不幸があって、急遽茨城県は坂東市(旧岩井市)まで行くこととなった。
サクラさんの母方の兄弟の不幸だったので、サクラさん一人だけでの弔問でも良かったのであるが、実は以前から実家の近くには、将門関連の史跡がある事を知らされていて、彼女からいろいろ話を聞いているうちに興味が湧いていた。
いずれ機会があれば。と思っていたのだが、ひょんな事から夫婦で弔問がてら史跡巡りをしようと言う話になった。
本家での納棺が午後3時頃からだったので、次男一家を巻き込み車を出してもらって一路坂東市へ向かう。
将門の終焉の地と伝わる坂東市(旧岩井市)
まず初めに、平将門を祀る国王神社へ出向く。
なかなか趣のある木製の両部鳥居 だいぶ朽ちてはいたが…。
国王神社@岩井951 祭祀:平将門 平将門を祭祀とする神社は、神田明神、築土神社が有名だが、此処坂東市では、中央権力に屈しなかったため英雄視されており社名の“国王”もその所以のようだ。
立派な茅葺き造りの本殿 なかなか趣きのあるお社
拝殿内部
由緒を伝える案内板
ご神体でもある“将門坐像”
次に将門の守護本尊「薬師如来」を祀る延命寺へ
延命寺@岩井1111 山門 当時を忍ばせる唯一の山門
延命寺薬師堂
延命寺本堂
由緒を語る案内板
続いて、すぐ近くの石井の井戸、島広山へ
石井の井戸@岩井1627 実際には、井戸らしき物はない。周辺は、田畑が広がりここが水豊かな地である事が想像できる。
島広山・石井営所跡@岩井1603 かつて名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点だった場所 中央の巨石は”筑波石”
巨石部のアップ 石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれている。
由緒 写真をクリックして拡大
続いて、一言神社へ
質素なお社だが気持ちいのいい場所に建つ
一言神社@岩井1584 将門の守護神で、水を司る一言主を祀る。となり町の常総市には一言主神社が鎮座する。
市内メインストリートに戻り、食事を摂ってから菅生沼近くの延命院へ
延命院@神田山715 現在の本堂 昭和39年不審火で消失
九曜紋 ここは、将門の菩提寺でもある。
毘沙門堂
観音堂
この地は、神田山(かだやま)と言うのだが、(胴)”からだ(体)”が転じて「かだやま」だと伝わるが…。
将門山古墳 この一角は、かつて円墳だったそうだ。
境内に並ぶ地蔵たち
将門胴塚 右側の「南無阿弥陀仏の碑」は、昭和50年に大手町の首塚に置いてあったものをここへ移設したそうだ。
最後は、知る人ぞ知る将門の終焉地と伝わる「北山稲荷大明神」へ
実は、ここからサクラさんの母方の実家までは歩いて10分位の場所だった。
場所は、最近オープンしたヤマダ電機坂東岩井店の近く。岩井第二小交差点からすぐ
ファミマの裏手から参道が続く。中央の森のある所が北山稲荷(辺田1402-1あたり)
境内へ至る参道は荒れ放題
灯籠も無残に転倒していた。かつて建っている写真があるので、3-11の際にでも崩れたのかもしれない。
藪をかき分けお社へ
平将門 終焉の地碑 この周辺は、北山古戦場跡と言い将門が戦死した地と伝わるが史実には無い 坂東市のホームページにもこの史跡のことには、何も触れられていない。
社の裏手から発見された板碑のレプリカ
ここで、昭和50年に一枚の板碑が発見された事からこの地が将門の終焉地ではないか。と、言う根拠の一つとなった。
この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)源頼信であることが記されていたのである。
平将門は祟り神として取り上げられ負のイメージがどうしても付きまとうのだが、少なくともここ坂東市での将門のイメージは、昔からこの地に住む人達に取って、子供の時代から語られた英雄であって崇敬も熱くここでは、おどろしさは微塵も感じる事は無かった。
将門史跡めぐり ウオーキングマップ(PDF)
サクラさんの母方の兄弟の不幸だったので、サクラさん一人だけでの弔問でも良かったのであるが、実は以前から実家の近くには、将門関連の史跡がある事を知らされていて、彼女からいろいろ話を聞いているうちに興味が湧いていた。
いずれ機会があれば。と思っていたのだが、ひょんな事から夫婦で弔問がてら史跡巡りをしようと言う話になった。
本家での納棺が午後3時頃からだったので、次男一家を巻き込み車を出してもらって一路坂東市へ向かう。
将門の終焉の地と伝わる坂東市(旧岩井市)
まず初めに、平将門を祀る国王神社へ出向く。
なかなか趣のある木製の両部鳥居 だいぶ朽ちてはいたが…。
国王神社@岩井951 祭祀:平将門 平将門を祭祀とする神社は、神田明神、築土神社が有名だが、此処坂東市では、中央権力に屈しなかったため英雄視されており社名の“国王”もその所以のようだ。
立派な茅葺き造りの本殿 なかなか趣きのあるお社
拝殿内部
由緒を伝える案内板
ご神体でもある“将門坐像”
次に将門の守護本尊「薬師如来」を祀る延命寺へ
延命寺@岩井1111 山門 当時を忍ばせる唯一の山門
延命寺薬師堂
延命寺本堂
由緒を語る案内板
続いて、すぐ近くの石井の井戸、島広山へ
石井の井戸@岩井1627 実際には、井戸らしき物はない。周辺は、田畑が広がりここが水豊かな地である事が想像できる。
島広山・石井営所跡@岩井1603 かつて名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点だった場所 中央の巨石は”筑波石”
巨石部のアップ 石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれている。
由緒 写真をクリックして拡大
続いて、一言神社へ
質素なお社だが気持ちいのいい場所に建つ
一言神社@岩井1584 将門の守護神で、水を司る一言主を祀る。となり町の常総市には一言主神社が鎮座する。
市内メインストリートに戻り、食事を摂ってから菅生沼近くの延命院へ
延命院@神田山715 現在の本堂 昭和39年不審火で消失
九曜紋 ここは、将門の菩提寺でもある。
毘沙門堂
観音堂
この地は、神田山(かだやま)と言うのだが、(胴)”からだ(体)”が転じて「かだやま」だと伝わるが…。
将門山古墳 この一角は、かつて円墳だったそうだ。
境内に並ぶ地蔵たち
将門胴塚 右側の「南無阿弥陀仏の碑」は、昭和50年に大手町の首塚に置いてあったものをここへ移設したそうだ。
最後は、知る人ぞ知る将門の終焉地と伝わる「北山稲荷大明神」へ
実は、ここからサクラさんの母方の実家までは歩いて10分位の場所だった。
場所は、最近オープンしたヤマダ電機坂東岩井店の近く。岩井第二小交差点からすぐ
ファミマの裏手から参道が続く。中央の森のある所が北山稲荷(辺田1402-1あたり)
境内へ至る参道は荒れ放題
灯籠も無残に転倒していた。かつて建っている写真があるので、3-11の際にでも崩れたのかもしれない。
藪をかき分けお社へ
平将門 終焉の地碑 この周辺は、北山古戦場跡と言い将門が戦死した地と伝わるが史実には無い 坂東市のホームページにもこの史跡のことには、何も触れられていない。
社の裏手から発見された板碑のレプリカ
ここで、昭和50年に一枚の板碑が発見された事からこの地が将門の終焉地ではないか。と、言う根拠の一つとなった。
この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)源頼信であることが記されていたのである。
平将門は祟り神として取り上げられ負のイメージがどうしても付きまとうのだが、少なくともここ坂東市での将門のイメージは、昔からこの地に住む人達に取って、子供の時代から語られた英雄であって崇敬も熱くここでは、おどろしさは微塵も感じる事は無かった。
将門史跡めぐり ウオーキングマップ(PDF)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます