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【ウォーキング】鬼子母神~雑司ヶ谷霊園界隈 散策

2013-08-30 | ウォーキング・トレッキング
ようやく暑さも峠を越し、朝夕と時折涼しい風が部屋の中を通り抜ける日もある晩夏
暫くお休みしていたウォーキングを再開すべくサクラさんが選んだルートが雑司が谷界隈の散策でした。
以前サクラさんがこの地を訪れた事があって再訪しようと前から思っていた「清土鬼子母神」があり、せっかくなのでどなたかをお誘いしようと言う話になり超歴の調査でもご一緒させて頂いた事のあるHNさんをお誘いし、当日待ち合わせ場所の池袋東口へ向かいました。

本日の散策ルートは、以下のとおりでした。
池袋東口 ~ 威光稲荷 ~ 蕎麦処和邑での昼食 ~ 鬼子母神堂 ~ 大鳥神社 ~ 雑司が谷霊園 ~ 寛(三角寛旧邸)~  清土鬼子母神 ~ 護国寺 ~ 今宮神社 ~ 江戸川橋

スタート 11:00 池袋駅東口 

威光稲荷 西暦800余年、慈覚大師により堂宇が建立され、威光稲荷大明神を祀ったのが始まりと伝えられます。入口から朱塗りの鳥居が迷路のように続き、不思議な世界に迷い込んだような感覚が味わえます。

珍しい子持ちの狛狐

境内奥にあるご神木 塚のようにも見えます。
実はここは、ただの稲荷ではなく日蓮宗の威光山法明寺に付随する参詣所のひとつなのです。
普通稲荷と言えば、宇迦御魂を祭祀としますがここでは「威光稲荷尊天」をお祀りしています。
ですから、本来ここでは神式の儀礼ではなく仏式の儀礼でお参りする事になります。
しかしながら鳥居が幾重にも立ち並ぶ境内は「稲荷」として参詣に訪れる方が殆どの様です。

11:30 昼食
開始早々で、少々早かったのですが鬼子母神裏参道脇にある「蕎麦処和邑」にて美味しいお蕎麦を堪能し(後日報告させて頂きます。)有名な鬼子母神堂へ
前からここは、知ってはいましたが自分は初訪でした。サクラさんは再訪

鬼子母神堂 ここは法明寺の飛地境内になります。   (天正6年(1578)の創建。清土(文京区目白台 後述)から出土した鬼子母神像を祀るため、里人たちが叢林を拓いて堂を建てたのが始まりと言われています。現在の本殿は寛文4年(1664)に、前田利常の息女で安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿の寄進により建立されたもので、区内最古の建造物です。江戸時代前期より、子授け、子育ての神様として庶民の信仰を集めてきました。本堂および鳥山石燕画「大森彦七図」、二代目鳥居清満画「三人静白拍子図」の絵馬は東京都有形文化財に指定されています。また、日蓮上人を供養する「お会式」は、今も毎年10月16日~18日に行われ、枝垂れ桜を模した万灯が夜の街を練り武く様はとても幻想的です。

ちなみにここの鬼子母神の「鬼」の表記は、鬼の字の上にある点がありません。これは、鬼子母神が釈尊に説教され改心し「角を外した」という理由によるそうです。(WIKIより)

鬼子母神境内の大イチョウは、応永年間に植えられたものと伝えられ、樹齢600年に及ぶ大樹は、子授けイチョウ、子育てイチョウとして親しまれてきました。秋の黄葉時には、あたり一面が黄金色に輝く落葉の絨毯になります。 参道のケヤキ並木は、天正年間に雑司ヶ谷村の住人長島内匠が奉納したものと言われ、樹齢400年を数えます。大イチョウ、ケヤキ並木ともに、東京都の天然記念物に指定されています。往時の参道両側には、茗荷屋、蝶屋、武蔵屋などの料理茶屋が並び、『遊歴雑記』にその繁盛ぶりが記されているほか、歌川広重画「江戸高名会亭尽」など浮世絵にも描かれています。

鬼子母神土産と言えば「すすきミミズク」です。唯一の作り手だった方が高齢で暫く途絶えていたそうですが、地元の有志が集まり復活したそうです。

ここでは、雑司が谷七福天の「大黒様」をお祀りしています。

鬼子母神像 具現化するとこうなるのですね。子供は恐れて近寄らないとか。


本殿の裏手には妙見菩薩をお祀りする妙見堂があります。お寺であるのに鳥居が中央に構える不思議な空間でした。

続いて都電荒川線脇に鎮座する大鳥神社を散策しました。

正徳2年(1712)、出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって高田村下屋敷で療養中、出雲鷺の浦から鷺大明神が飛来して救ったといわれ、以来ここに勧請したのが始まりと伝えられています。 初め社は鬼子母神境内にありましたが、明治初年の神仏分離令により、大鳥神社と改称、ケヤキ並木付近に仮遷座し、その後、現在地を鎮座地として定め、日本武命を祭神として祀っています。 権現造の社殿は 昭和56年に造営されたもの。 毎年11月の酉の市には、商売繁盛を願う人々で賑わいます。



賽銭箱の巾着が何ともユニークです。鬼瓦や燈明などここでは至る所に巾着のモチーフが見られます。

都内で唯一路面を走る「都営荒川線」軌道 その路線殆どは専用軌道で、路面を走る区間は北区の王子駅前と飛鳥山間だけです。

続いて「雑司が谷霊園」内の散策をしました。

夏目漱石 慰霊墓

竹久夢二 慰霊墓

ジョン万次郎 慰霊墓
他にも永井荷風や小泉八雲、泉鏡花などたくさんの著名人がここで眠っています。

霊園をあとにして暫く南下します。
この辺りの「雑司が谷」の名称についての由来には諸説あり、「新編武蔵風土記」では、法明寺、あるいは小日向金剛寺の雑司料(税や物資を納める支配地)だった、宮中で(雑用をつかさどる)雑士だったものが当地に移り住んだ、などの説を紹介、「雑士」「蔵主」「僧司」「曹子」など、さまざまな漢字が当てられていたため、八代将軍吉宗が紛らわしいので「雑司ヶ谷」に統一するよう命じた、と記しています。

廃墟マニアに受けそうな「旧日本女子大」の学生寮(ちょっとオドロしさをコラージュしてみました。)

寛(三角寛旧邸)ここは、サンカ小説家三角寛の旧宅跡で現在は、高級料亭になっています。

さて、本日の目玉「清土鬼子母神」へと移動します。

入口門前に「鬼子母尊神出現所」と刻まれた石標があり、永禄4年(1561)、柳下若狭守の下男山本丹右衛門が、清土の田から鬼子母神像を掘り出したと伝えられています。境内には、池水に星影が不思議な光を宿して尊像の存在を知らせたと言われる星跡の清水(三角井戸)や、「此道に出て涼しさよ松の月」と刻まれた芭蕉の句碑「涼月塚」、「安政の名のみ残りてうつし絵の花に香もなく鳥に音もなし」と詠んだ歌碑があります。

“鬼子母尊神出現所”石標

芭蕉の句碑「涼月塚」

歌碑

雑司が谷七福天「吉祥天」像


星の井 井戸自体の形状が不思議な「三角型」をしています。三角形の形をした井戸は、全国的にも珍しい様です。
“星の井”の由来については全国に諸説ありますが大抵は「星が水面に写り込んだもの」から派生しているようです。
しかしながら、ここの由緒では「池水に星影が不思議な光を宿して」とある事から事実「井戸の中に光り輝くもの」が実際に見えたと推測しています。
昔から仏像などのメッキに大量の水銀を用いていたそうですが、サクラ説によれば残った水銀が固まったものが月明かりなどで光り輝いていたのでは?との事です。

名所図会によれば、境内裏手にかつて小川が流れていた様です。図会上に三角井戸が見えます。
しかしながら、なぜにわざわざこの形状ににしたのでしょうか?疑問が残ります。

さて、雑司が谷とは離れますが本当は最後の立ち寄り場所のはずだった護国寺に向かいます。
護国寺というと…。あの尾崎豊の葬儀が行われた場所で、全国的にも有名な一寺です。

真言宗豊山派  大本山  護国寺 天和元年(1681)五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺である。
如意輪観音を本尊としている。後には将軍家の武運長久を祈る祈願寺となった。
元禄時代の本堂、昭和3年に移築された月光殿は、ともに国の重要文化財に指定されている。その他指定文化財も数多い。
明治期以降徳川家との関係が絶たれ、一般人の墓所を造成した。三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信などが眠る。
説明文はこちらから引用

以前ここへは訪れたことがあったはずですが、記憶に全くありませんでした。


富士塚 山門を抜けると、なんと!こんな場所に富士塚がありました。
もちろん、今は富士登山ブームですから私達も早速5分で、登頂して参りました。浅間神社がちゃんとお祭されていました。

手洗水盤 五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院から寄進されたものです。

多宝塔 低搭ではありますが、なかなか安定していて美しい形です。

護国大仏 阿弥陀如来さまでしょうか? 特に案内書きはありませんでした。

本堂 本堂には自由に登拝することが出来ます。安置されている仏像たちは一見の価値が有ります。

大隈重信 慰霊墓

三条実美 慰霊墓

本来は、ここでゴールするはずだったのですが音羽通りの歩道に今宮神社の幟を発見!
どうやら近々例大祭があるようです。(9月の第1土・日曜日)
今宮神社といえば、あの!伊勢型神明の鳥居がある貴重な一社 これは寄らねば!
ここで暫く休憩を取り 講談社や光文社の社屋を見ながらいざ今宮神社へ


音羽通りの途中にはこんな場所も。 何でもステンドグラスが素晴らしいそうです。 

今宮神社 元禄10年(1697)桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)の発願により、護国寺建立に際して京都紫野の今宮神社から御分霊を勧請したことを創祀とする。桂昌院は紫野の出身で今宮神社への崇敬が篤く、社殿の再興なども行っている。
今宮五社と通称されるが、五社とは天照大神宮・八幡大神・春日大明神・今宮大明神・熊野三所権現である。
明治初めの神仏分離により、明治6年(1873)田中八幡(明治2年に氷川神社と合祀して小日向神社となる)があった現社地に遷座した。同12年(1879)コレラ伝染除けの祭典が行われ、病気平癒の霊験があったという。
末社の天日鷲神社は明治9年(1876)阿波の忌部神社から勧請されたもので、11月の酉の日には商売繁盛の熊手を授与する。
由緒こちらより引用

こちらは天日鷲神社 天日鷲神と言えば、阿波の忌部氏の祖神


ゴール 17:00 江戸川橋交差点

本日のルートマップ (Androidアプリ EveryTrail利用)

総歩数16982歩 総距離11.88キロ
久しぶりに良く歩いた一日でした。
朝夕と涼しくなったとはいえ、日中はまだ真夏日
同行したHNさんは、後半少々お辛そうにお見受けしましたが最後までお付き合いいただき感謝です。
大変お疲れ様でした。

※本文中で記述した説明書きは、雑司が谷案内処のページから引用させて頂きました。


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