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東京調布界隈散策 part1(神社散策編)

2009-03-08 | 神社・仏閣
東京調布市には、興味深い神社がたくさんあり以前から訪れてみたいと思っていました。最近は、激務の毎日が続き休日は、すっかり出不精気味になっていたおり、サクラさんが調布駅前で「レンタサイクルを借りられる」という情報を得て、普段からの運動不足も解消出来る一石二鳥ともあって、早速とある休日。調布駅からレンタサイクルを借りて調布散策をしてきました。


■布多天神社
布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第11代垂仁天皇の御代約1940年前の創建といわれております。
文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、その時に、御祭神、少彦名命(すくなひこなのみこと)に菅原道真公を配祀されました。江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。
当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。 そして布田五宿は、明治二十二年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。(以上布田天神社HPより)



【『新編武蔵国風土記稿』貞応2年(1223)撰述の縁起】
桓武天皇延暦18年(799)、木綿の實始めて渡りしなれど、いまだ布に製することをしらず、其時多磨川邊に菅家の所縁にて、近国に名を顯はせし廣福長者といへるものあり、天神の社へ七昼夜参籠して、不思義に神の告を蒙り、布を製するの術を得て、多磨川にさらして、これをとゝのへ奉りぬ、是乃本朝木綿の初なりとかや、帝御感淺からず、即ち其布を調布とのたまへり
それより此邊武州調布里といへり、後に廣福長者の末孫菅原を修して、原永法となのり、この処にありしに、後菅神の肖像を造立して、布多天神に配祀せり、永法後に発心して、永法房と改め、草庵を結て両社の守りをなし、年月を送ける所に、永延年中に院號を下されて、廣福山常行院永法寺と號し、別当となしたまひしといふ。


【式内社調査報告】 「布多」は調布(たづくり)(手作)と関係のあることばと考へられる。思ふに、「布」は太布(たふ)を意味し、その太布が多く産出される地といふことで、それが「布多」といふ地名となり、やがて社名となつたのではなからうか。
したがつて、「布多天神社」とは布多(太布の多く産出する土地)にます立派な神社との意味であらう。ちなみに、萬葉集巻十四の東歌に、「玉川に晒す調布、さらさらに、何ぞこの児の、こゝだかなしき」とある歌は、この地を詠んだものといふ。


調布市民の総鎮守が布田天神です。前述の式内者調査報告にもある様に、ここが調布市名の由来にもなっているお社です。
もともとの遷座地は、今の場所からもっと多摩川にほど近い布田5丁目「古天神公園」辺りにあったそうです。
甲州街道から少し入っただけなのですが境内は、とても静かでした。厄払いに訪れたカップルや近所の子供連れのお母さん達。参拝に訪れた老夫婦の姿がチラホラ。境内の梅は、まだ8分咲といったところでしょうか。
ここは、祓い戸の神様も祭祀されているので、サクラさんは早速ご挨拶。
境内から駅方向へ続く天神通り商店街には、鬼太郎とキャラクター達の像が飾ってあります。この近くに、作者水木しげるさんのオフィスがあるそうです。
なんでも、以前この像が盗難や壊されたとかで、地元の働きかけて無事に復活されたそうです。
最近 我が家にも何かと縁がある「鬼太郎」ですが、水木しげるさんの描く鬼太郎バージョンは、何となく昔から見ている「鬼太郎」なので愛着が沸きます。
調布で鬼太郎と言えばやはり「深大寺の鬼太郎茶屋」ですね。深大寺を訪れた際に訪れてましたが、また別の機会に。


「布多天神社」 祭祀は少彦名命に菅原道真公を配祀 天神様ですが、元々の祭祀は不明なんだそうです。

咲き始めた梅と社殿横に、みつけた井戸跡?

市内で最も古い(寛永八年作)と伝わる「狛犬」

調布駅北口を出て、布多(天神通商店街)天神参道までの甲州街道を挟んだ商店街 この近くに水木しげるさんのオフィスがあります。

(上下)鬼太郎とお馴染みのキャラクター達(中)商店街に続く参道の突き当たりは、布多天神 かつては、梅並木の名所だったそうです。

以前盗難や破損に見舞われたそうですが、無事に再建されたそうです。「子泣きじじい」もどこかにいたはずですが...。

場所:東京都調布市調布ケ丘1-8-1

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