甲府盆地の湖水伝説が由緒にみられるシリーズ“佐久神社~穴切神社”に、続いてご紹介するのは、南アルプス市下宮地に鎮座する神部神社です。
神部神社は、第11代垂仁天皇の御代に、甲州盆地が湖水に沈んでいた頃に、大和国城上郡(今の奈良県桜井市全体と天理市、宇陀市 の一部)に鎮座する大三輪(大神)神社より舟でこの地に奉遷されたと伝えています。
独特なカラーリングと稚児柱に山梨独自の連なる屋根が付く特徴的な両部鳥居です。
“三輪大明神 ”の社号が残る扁額
狛犬一対
参道 秋の陽が大きく傾いた境内は落葉の葉音と鳥のさえずりが響く静かな時が流れています。
拝殿
式内社「神部神社」の論社はここ以外に同名社が同じ南アルプス市にもう一社、北杜市に一社。延喜式の「神部神社」に比定される式内社(小社)が北杜市高根の熱那神社、明野町の白山神社。韮崎市大草町に南宮大神社があります。
本殿
祭祀:大物主命
由緒:第十一代垂仁天皇の御宇大和国城上郡大三輪神社よりこの地方湖水なりし頃舟にて奉遷した(式内社)。往古から?々神階に叙せられ且つ神田若干の寄附あり。保元平治の後も逸見竹田、小笠原家等より厚く尊崇さる。祭典は数度の中で四月十二日の御幸祭を大祭とし西御幸祭といふ。往古は公祭として行なはれた故に下附されるもの武器、兵杖、馬口にまで及び祭典終了と同時に官へ飛脚を以て其の旨を報告せりと云ふ。又旧二月二日今は三月二日に御遷座の由縁を以て中祭にて舟引祭を斎行してゐる。(山梨神社庁より)神部神社は大和の大三輪明神を勧請し、大祭は四月中の卯の日で、上宮地の山宮より里宮に神輿を遷し、これを西御幸と云う。その儀式は東御幸(龍王村三社神社へ一の宮・二の宮・三の宮より神幸あるをいう)に準ずる。今は毎年四月十二日を祭日とし、その前日下宮地の三輪明神より、上宮地の八幡社へ神幸があり、二夜泊まって翌日帰って大祭をする。これは春秋の山宮・里宮間の往復を、一時に済ませる略式のものである。そのとき神主が御神体を懐中し、傳嗣院の爐へ行って火にあたり、それから神輿へお乗せ申す習わしがある。またその途中、小笠原町の御所庭という御旅所で神符献上を終わり、松林の中で饗膳の式があり、これを俗に「三輪のお涼み」という。(こちらより引用)
ここでは、由緒にもある様に『曳舟神事 』という特殊神事があります。
古くは「船祭」「舟引祭」とも呼ばれ、水のないところで舟を曳く珍しい神事です。
竹と筵(むしろ)で船の形を造り、二本の綱を氏子の人たちで鳥居まで曳き鳥居に向かって宮司が矢を放ち四至を祓い除ける意味として矢を4本ずつ2回放ったあと、拝殿まで舟を曳いて戻るという神事です。
『甲斐国志』には「船祭トテ遷座ノ時ノ式アリ(中略)船ニテ此ノ地ヘ渡リ給ヒシ式」と記されておりかつて、甲府盆地が湖だったため神が奈良から船に乗ってやってきたという伝承があり、それにあやかったものと伝えています。
《☞関連リンク》神部神社 曳舟神事 | 甲西 | 文化財Mなび
甲府盆地がかつて湖水に沈んでいた事実は、学術的には否定されていますが富士川までは、ここから南へ5キロほどあまり。
大和国より海上を経て駿河湾から富士川を北上しこの地に船でやって来たとしてもおかしくはありません。
また、ここには奉納算額が伝わっています。
日本独自の和算は、江戸時代に発達し当時の文化新興の一助となりました。
当時の和算家たちが問題を作成し解法を書いた「算額」は、全国各地の寺社に奉納されていますが、山梨県ではここと数社しか存在が確認されておらず珍しいものだそうです。
奉納された算額の複製(こちらより転載)
直角三角形の中に甲の円5つ。乙の円が1つで囲まれた黒い部分の面積を求めよ。と言う問題だと思いますが…。
そういえば、以前訪れた武田神社で見かけた事を思い出しました。
渋谷区の金王八幡宮にもあって記事にしたことを思い出しました。
案内板(写真クリックで拡大)
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