この1週間といったらあまりの忙しさに毎日が飛ぶように…散るように…消えていくような状態…しかし、ふと我に返れるのが、教えている時と練習する時。
先週の土曜日は、かねてから楽しみにしていたアルド・チッコリーニのコンサートへすみだトリフォニーまで出かけた。1925年生まれのチッコリーニは今年87歳。私は、10年ほど前に一度日本公演で聴いてから、あまりの卓越した感性と技巧の演奏にただただ驚くばかり…それ以来、ほとんど来日するたびに行くことにしている。
考えてみれば、10年ほど前であっても77歳。到底普通のピアニストでは考えられない、昼、夜続けて2回公演でプログラムは全く別。2時間あまりのコンサートにアンコールがこれまた続けて出るわ出るわ…さらっと10曲くらい弾きとおした、しかも、美しいショパンから激しいファリャまで、そのレパートリーの幅広さといったら凄すぎる…
さて、そんなチッコリーニであるが、果たして今回は…と非常に期待してでかけた。
プログラム前半は、セヴラックの曲より、「春の墓地の片隅」「休暇の日々から」「リヴィアのキリスト像の前のラバ引きたち」そして「演奏会用の華麗なワルツ、ペパーミント・ジェット」…後半はドビュッシーの前奏曲集第1巻全曲だった。
全てにおいて、世界が違った。ドビュッシーはもう聴く前から素晴らしいことはわかっていたので、それを再確認するような演奏だった。セヴラックは、あまり聴く機会も弾くこともないが、もちろん美しい曲もあるものの、あまり有名にならないような面白みのない類の曲でさえも、チッコリーニの手にかかると魔法のように素敵な曲になるから不思議。特に「リヴィアのキリスト像~」は感動した。。。
ご高齢であるにもかかわらず、晩年のリヒテルのように楽譜を置いて演奏ということもない。舞台袖からピアノまでは杖をついてゆっくりゆっくり歩かれるのに、ピアノを弾き始めるとそのみずみずしく柔らかい音は、どこから鳴っているのか…思わず目をつぶって聴いてみる…
アンコールの拍手が鳴り止まない中、2度3度、お辞儀をしてゆっくりと舞台に戻られ、でもいつものチッコリーニだったら、「もう、しょうがないなぁ~」というような茶目っ気のあるしぐさをしては3曲4曲どんどん弾き始められた。が、今回は、何度舞台に現れてもお辞儀をするだけでなかなか弾いてくれない…でも、聴衆はアンコールを必ずやってくれるチッコリーニを知っている。
かなりの時が流れた。ようやく、おもむろにピアノの椅子に座った…しばらくして照明が全て消えた…おや?これは演出なのだろうか、チッコリーニの顔のあたりにだけボーッとほの暗い照明が当たる…
そして、スカルラッティのソナタ、ホ長調(L.23)が本当にゆっくりと静かに始まる…
こんなに美しくももの悲しいスカルラッティの響きを聴いたのは初めてだった。涙が頬をすーっと流れた…宝石箱に永遠にしまっておきたいような1曲だった…
きっと、観客はみな私と同じ気持ちになったのかもしれない。そのスカルラッティを聴いてさらに前にもまして、もうこの舞台、この時を止めてくれ!と言わんばかりの嵐のような拍手、そして歓声が鳴り止まない中、今度は先ほどよりいくらか早めに椅子についた。そして、グラナドスの「アンダルーサ(祈り)」
チッコリーニの長い人生を奏でるかのように、走馬灯の様に音が走り去っていく…
2曲でアンコールは終わりだった。何度も何度も鳴り止まぬ拍手に手を振る姿は何か今までとは違って悲しい表情に見えた。まさか、これで日本は最後「さようなら」なんていう意味じゃないよね?と自分自身に問いかけながらいつまでもいつまでも拍手した。
もう再び舞台に現れることのないチッコリーニを待つ聴衆もだんだんに少なくなり、私もしょうがなく席をたった。なんだか感動したコンサートのはずなのに、ロビーに出る人ごみの空気は時折、鼻をすするような音も聞こえるくらい暗い空気がよどんでいた。
限界を感じさせないチッコリーニでも時を重ねるってこういうことなのか…でも、考えようによっては、私がチッコリーニの年になるまでには、まだまだまだまだ…どんな時が流れようとしているのか想像もできないほど年月が流れる…でも、もしそれでもその年齢まで、ピアノを弾くことができたら、それは本当に幸せなことなのかもしれない。
続いて、翌日はコンクールの審査、その翌日はクリスマスコンサートの初合わせと、そして生徒たちの発表会の曲目を決めたりレッスンしたり…音楽三昧の日々は続きます…
先週の土曜日は、かねてから楽しみにしていたアルド・チッコリーニのコンサートへすみだトリフォニーまで出かけた。1925年生まれのチッコリーニは今年87歳。私は、10年ほど前に一度日本公演で聴いてから、あまりの卓越した感性と技巧の演奏にただただ驚くばかり…それ以来、ほとんど来日するたびに行くことにしている。
考えてみれば、10年ほど前であっても77歳。到底普通のピアニストでは考えられない、昼、夜続けて2回公演でプログラムは全く別。2時間あまりのコンサートにアンコールがこれまた続けて出るわ出るわ…さらっと10曲くらい弾きとおした、しかも、美しいショパンから激しいファリャまで、そのレパートリーの幅広さといったら凄すぎる…
さて、そんなチッコリーニであるが、果たして今回は…と非常に期待してでかけた。
プログラム前半は、セヴラックの曲より、「春の墓地の片隅」「休暇の日々から」「リヴィアのキリスト像の前のラバ引きたち」そして「演奏会用の華麗なワルツ、ペパーミント・ジェット」…後半はドビュッシーの前奏曲集第1巻全曲だった。
全てにおいて、世界が違った。ドビュッシーはもう聴く前から素晴らしいことはわかっていたので、それを再確認するような演奏だった。セヴラックは、あまり聴く機会も弾くこともないが、もちろん美しい曲もあるものの、あまり有名にならないような面白みのない類の曲でさえも、チッコリーニの手にかかると魔法のように素敵な曲になるから不思議。特に「リヴィアのキリスト像~」は感動した。。。
ご高齢であるにもかかわらず、晩年のリヒテルのように楽譜を置いて演奏ということもない。舞台袖からピアノまでは杖をついてゆっくりゆっくり歩かれるのに、ピアノを弾き始めるとそのみずみずしく柔らかい音は、どこから鳴っているのか…思わず目をつぶって聴いてみる…
アンコールの拍手が鳴り止まない中、2度3度、お辞儀をしてゆっくりと舞台に戻られ、でもいつものチッコリーニだったら、「もう、しょうがないなぁ~」というような茶目っ気のあるしぐさをしては3曲4曲どんどん弾き始められた。が、今回は、何度舞台に現れてもお辞儀をするだけでなかなか弾いてくれない…でも、聴衆はアンコールを必ずやってくれるチッコリーニを知っている。
かなりの時が流れた。ようやく、おもむろにピアノの椅子に座った…しばらくして照明が全て消えた…おや?これは演出なのだろうか、チッコリーニの顔のあたりにだけボーッとほの暗い照明が当たる…
そして、スカルラッティのソナタ、ホ長調(L.23)が本当にゆっくりと静かに始まる…
こんなに美しくももの悲しいスカルラッティの響きを聴いたのは初めてだった。涙が頬をすーっと流れた…宝石箱に永遠にしまっておきたいような1曲だった…
きっと、観客はみな私と同じ気持ちになったのかもしれない。そのスカルラッティを聴いてさらに前にもまして、もうこの舞台、この時を止めてくれ!と言わんばかりの嵐のような拍手、そして歓声が鳴り止まない中、今度は先ほどよりいくらか早めに椅子についた。そして、グラナドスの「アンダルーサ(祈り)」
チッコリーニの長い人生を奏でるかのように、走馬灯の様に音が走り去っていく…
2曲でアンコールは終わりだった。何度も何度も鳴り止まぬ拍手に手を振る姿は何か今までとは違って悲しい表情に見えた。まさか、これで日本は最後「さようなら」なんていう意味じゃないよね?と自分自身に問いかけながらいつまでもいつまでも拍手した。
もう再び舞台に現れることのないチッコリーニを待つ聴衆もだんだんに少なくなり、私もしょうがなく席をたった。なんだか感動したコンサートのはずなのに、ロビーに出る人ごみの空気は時折、鼻をすするような音も聞こえるくらい暗い空気がよどんでいた。
限界を感じさせないチッコリーニでも時を重ねるってこういうことなのか…でも、考えようによっては、私がチッコリーニの年になるまでには、まだまだまだまだ…どんな時が流れようとしているのか想像もできないほど年月が流れる…でも、もしそれでもその年齢まで、ピアノを弾くことができたら、それは本当に幸せなことなのかもしれない。
続いて、翌日はコンクールの審査、その翌日はクリスマスコンサートの初合わせと、そして生徒たちの発表会の曲目を決めたりレッスンしたり…音楽三昧の日々は続きます…