*************************
参照 北國新聞 2011年6月11日
輪島(日本海側)でも8メートル津波 加賀藩資料に記述
輪島でも8メートル津波 加賀藩史料に記述
1833(天保4)年、山形沖を震源地とする地震で輪島沿岸に高さ約8メートルの津波が押し寄せ、死者約100人の被害が出たとの記録が加賀藩史料などに残っていることが10日までに明らかになった。石川県作成の「津波浸水想定区域図」では、能登半島東方沖の地震で輪島は標高4・9メートルまで浸水すると想定されており、過去の記録はそれを超えている。東日本大震災から11日で3カ月。専門家は「想定外の津波は石川沿岸でも起こりうることを示す史料」としている。
津波被害が記述された古文書は加賀藩史料の「輪嶋并(ならびに)近浦津波一件」など。1833年10月26日(新暦で12月7日)午後3時ごろに発生した地震に伴う津波の被害状況が記されている。「新編日本被害地震総覧」によると、この地震は山形県沖を震源地とし、マグニチュード(M)7・5と推定される。
金沢市立玉川図書館近世史料館によると、史料には、地震発生から約1時間後に大規模な引き潮が発生し、巨大な津波が押し寄せたと記されている。津波は3波にわたって町を襲い、最も大きい第3波は高さ8メートルで、河原田川を1キロメートル以上も逆流したという。
大破流出家屋は318棟、半壊家屋は54棟。溺れて亡くなった人は47人となっているが、「新編日本被害地震総覧」では能登で死者約100人と推定されている。浜には畳や戸障子が打ち寄せ、船は700~800メートルも山の手に打ち上げられたとあり、東日本大震災の被災地と重なる惨状が広がっていたことが分かる。
金大理工研究域の平松良浩准教授(地震学)は、天保期の津波被害について、震源地の山形県沖から海の深い所を通って津波が速く伝わったと推測し、「日本海側は津波がこないイメージが強いがそれは誤解。歴史は繰り返すことを忘れてはいけない」と警戒を呼び掛けた。
平松准教授はさらに、想定を超える津波が起こりうるという認識を持つことが重要だと強調する。
平松准教授は今月4日から4日間、岩手県と宮城県の沿岸部で東日本大震災の被害調査を行った。南三陸町では1960(昭和35)年のチリ地震で発生した津波2・4メートルの水位を示す看板で注意が呼び掛けられていたが、実際は10メートル以上の津波が到達し、3階建ての防災対策庁舎も濁流で骨組みだけになっていたという。
平松准教授は「県の想定区域より広い範囲に水が及ぶ可能性は十分ある。『ハザードマップ』を安心情報とせず、普段から高台への避難経路を確認しておくことが大切だ」と強調した。
新聞記事終わり
************************