「屁理屈」の意味を『広辞林』で調べてみた。『広辞林』によれば、「役に立たない理屈。道理に合わない議論」とあった。なるほど安倍総理は安保法制懇に「集団的自衛権行使を容認できるようにするための憲法解釈の屁理屈」を思いつくことを要求していたらしい。その期待に応え、安保法制懇はノーベル賞級の「屁理屈」を思いついたようだ。
ただし、感心したのは、ノーベル賞級の「屁理屈」を考え出した「才能」に対してであって、屁理屈そのものを容認したわけではない。屁理屈は、屁理屈にしか過ぎないからだ。こんな屁理屈に国民が納得するとでも、安保法制懇のメンバーは本当に思っているのだろうか。もし、安倍総理がその屁理屈に喜んでいるとしたら、われわれ日本人は救いようのない史上最大級の大バカ総理を抱いてしまったことになる。
その「屁理屈」とは朝日新聞(4月12日付朝刊)によれば、安保法制懇は憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段としての武力行使を永遠に放棄する」と定めているが、いまのところゴールデンウィーク明けにも提出が予定されている報告書の中で、「憲法9条がいう国際紛争とは日本が当事者である国際紛争のこと」と限定解釈すれば憲法を改正しなくても集団的自衛権を行使できるという珍説を報告書に盛り込むようだ。つまり安保法制懇は、日本が当事者ではない国際紛争については武力行使を禁止していないと言いたいらしい。従来の解釈や一般的常識を180度ひっくり返す論理であり、「ノーベル屁理屈賞」の筆頭候補になることは間違いない。そんなノーベル賞があればの話だが。
この珍説によって「日本が紛争の当事者ではないから」という理由で憲法9条の縛りを受けずに実力行使に出た場合、そのとたんに日本は自動的に「国際紛争の当事者」になってしまうのだが、その場合はどうするのか。
自衛隊が「集団的自衛権」を行使して他国を攻撃したら。当然その国は個別的自衛権を行使して反撃を始める。そうなったら今度はその国に対する攻撃は「集団的自衛権」の行使ではなく「個別的自衛権」の行使になる。相手国の「個別的自衛権行使」は国連憲章51条によって間違いなく認められるが、日本とは直接紛争状態にない国に先制攻撃を仕掛けておいて、反撃されたら個別的自衛権を行使するといった屁理屈を国際社会が正当な権利として認めると、本当に考えているのか。それとも先制攻撃を仕掛けておいて、「日本は当事者になったから、これ以降は武力行使をしない。紛争は平和的に解決しよう」と言っても、そんな自分勝手な主張が国際社会で通用するとでも思っているのか。
正確に憲法9条1項を引用しておこう。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永遠にこれを放棄する」
続く2項の原案では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」だった。この2項原案に「このままでは日本は自衛権すら放棄することになる」と現行憲法審議の国会で噛みついたのが民主党(※55年体制ができる前で保守陣営は自由党と民主党に分かれていた)の芦田均代議士だった。この芦田議員の主張が受け入れられて2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という但し書きが挿入されたのである。これを「芦田修正」という。現に芦田氏は新憲法が公布された46年11月(発効は47年5月3日)に発表した『新憲法解釈』でこう述べている。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の不戦条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」
憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という一文を加えたことによって、日本は「専守防衛のための必要最小限の実力(※「戦力」ではない)を持つことは許されるというのが、最高裁判所が砂川判決で初めて認めた自衛権の法的根拠になっている。最高裁が「自衛権」についての憲法判断を下したのは、これが最初で、これが唯一である。明らかに芦田氏の主張を法的に認めた判決である。
だから安保法制懇が憲法9条における「国際紛争」を限定解釈するには、まずもって砂川判決の非妥当性を明らかにして、改めて国際紛争と自衛権の関係についての最高裁の判断を仰ぐ必要がある。そうした厳密性を放棄して都合のいい判決文の一部だけを切りとって「新解釈」の裏付けにしようとしても、どだい無理な話というものだ。砂川判決の全文は非常に長いので、骨子となる憲法9条と自衛権に関する最高裁の判断の部分だけ要約せずに引用する。実は裁判の判決文はやたらと難解な法律用語がちりばめられ、相当の読解力を必要とするのが通例だが、私が引用する判決文は高校生程度の読解力があれば誤解なく理解してもらえるように最高裁判事が配慮したようで、堅苦しい文章ではあるが、それほど難解ではない。多少長いが、我慢して読んでほしい。
先ず憲法9条2項前段の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては「前項の目的を達するため、陸海軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自
衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民とともにひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家(※「独立」を国家の頭に付け加えるか、「国家」ではなく「主権国」と書くべきだったとは思うが)固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い(※米軍立川基地拡張計画のこと)、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。
改めて砂川判決を読み直してみると、その行間に込められた崇高な精神は、憲法に匹敵すると言っても過言ではないと思う。ただ砂川判決は米ソが対立していた冷戦時代において日本の国力や日本が国際社会の占めていた地位を前提としており、現在の国際情勢と、日本が国際社会に占めている地位、またそれに見合う国際の平和と安全に対して日本が当然負うべき責任や義務の大きさを前提に考えるとき、砂川判決を基準にするのはいかがなものかとは思う。私が判決文中の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存在を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能として当然のことといわなければならない」の「国家固有の」の頭に「独立」という二文字を付け加えるか、「主権国」と書くべきだったと書いたのは、今年1月22日から3日連続で投稿したブログ『安倍総理の憲法改正への努力は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ』で述べたように、現行憲法
が占領下において制定されたものであり、独立国家あるいは主権国家としての
尊厳と「自分の国(領土と国民の安全は自分で守る」という、独立国家(主権国家)であれば当然生じるはずの責任と自衛の権利すら否定しかねない要素を明確に否定しないまま独立後も存続させてしまったため、自衛隊という紛れもない自国防衛のための軍隊を日陰者扱いにせざるを得ない状態を放置し続け、自衛隊の軍事力(戦力)を「実力」などといった意味不明な言葉で言い繕ってきたのは、現行憲法の「戦力は、これを保持しない」という条文は、国際的に被占領国の安全は占領国の軍隊が守ることを前提にしていたからだ。
だから、日本が連合国側と講和条約(サンフランシスコ条約)を締結して独立を回復した時点で、日本の安全を守る責任は本来、占領国(米国)から日本に移行していたのである。独立を回復するということは、そういうことを意味するのは子供でも分かる話だ。
私が「現行憲法無効論」を主張しているのはその故であって、「国際紛争」の屁理屈解釈や砂川判決の一部分だけを切り取って、歴代政府の「集団的自衛権」解釈をこそこそと変更したりしながら、憲法解釈の変更や言葉遊びで何が何でも行使容認に持っていこうとしても、そんなことができるわけがないことくらい、本当のバカでなければ、そろそろわかってもいいころだろう。
いや、やはり本当のバカとしか言いようがない。そもそも「集団的自衛権」の政府解釈をこそこそ変えることで「集団的自衛権行使は憲法違反ではない」という屁理屈をこねながら(従来の政府解釈は集団的自衛権の行使に、軍事的支援の要請を受けた時、とか日本の安全が脅かされかねない時、などといった限定を付けていない)、それでいて憲法解釈を変更すると主張すること自体が矛盾していることにすら気が付いていないのは情けないとしか言いようがない。そのうえ、そんな憲法解釈の変更ができるのなら、憲法を改正する必要がなぜある。そういうことを「自家撞着」という。自家撞着の意味が分からない人のために言いかえれば「自己矛盾」と同義である。
なおこのブログの冒頭で、高村副総裁の砂川判決解釈について、私は「屁理屈」と書いたが、朝日新聞は「牽強付会」というほとんど死語になった熟語で批判した。ま、司馬遼太郎氏が生きていたら、たぶん朝日新聞と同様「牽強付会」と切って捨てたであろう。彼が大好きな言葉だったからだ。
ただし、感心したのは、ノーベル賞級の「屁理屈」を考え出した「才能」に対してであって、屁理屈そのものを容認したわけではない。屁理屈は、屁理屈にしか過ぎないからだ。こんな屁理屈に国民が納得するとでも、安保法制懇のメンバーは本当に思っているのだろうか。もし、安倍総理がその屁理屈に喜んでいるとしたら、われわれ日本人は救いようのない史上最大級の大バカ総理を抱いてしまったことになる。
その「屁理屈」とは朝日新聞(4月12日付朝刊)によれば、安保法制懇は憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段としての武力行使を永遠に放棄する」と定めているが、いまのところゴールデンウィーク明けにも提出が予定されている報告書の中で、「憲法9条がいう国際紛争とは日本が当事者である国際紛争のこと」と限定解釈すれば憲法を改正しなくても集団的自衛権を行使できるという珍説を報告書に盛り込むようだ。つまり安保法制懇は、日本が当事者ではない国際紛争については武力行使を禁止していないと言いたいらしい。従来の解釈や一般的常識を180度ひっくり返す論理であり、「ノーベル屁理屈賞」の筆頭候補になることは間違いない。そんなノーベル賞があればの話だが。
この珍説によって「日本が紛争の当事者ではないから」という理由で憲法9条の縛りを受けずに実力行使に出た場合、そのとたんに日本は自動的に「国際紛争の当事者」になってしまうのだが、その場合はどうするのか。
自衛隊が「集団的自衛権」を行使して他国を攻撃したら。当然その国は個別的自衛権を行使して反撃を始める。そうなったら今度はその国に対する攻撃は「集団的自衛権」の行使ではなく「個別的自衛権」の行使になる。相手国の「個別的自衛権行使」は国連憲章51条によって間違いなく認められるが、日本とは直接紛争状態にない国に先制攻撃を仕掛けておいて、反撃されたら個別的自衛権を行使するといった屁理屈を国際社会が正当な権利として認めると、本当に考えているのか。それとも先制攻撃を仕掛けておいて、「日本は当事者になったから、これ以降は武力行使をしない。紛争は平和的に解決しよう」と言っても、そんな自分勝手な主張が国際社会で通用するとでも思っているのか。
正確に憲法9条1項を引用しておこう。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永遠にこれを放棄する」
続く2項の原案では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」だった。この2項原案に「このままでは日本は自衛権すら放棄することになる」と現行憲法審議の国会で噛みついたのが民主党(※55年体制ができる前で保守陣営は自由党と民主党に分かれていた)の芦田均代議士だった。この芦田議員の主張が受け入れられて2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という但し書きが挿入されたのである。これを「芦田修正」という。現に芦田氏は新憲法が公布された46年11月(発効は47年5月3日)に発表した『新憲法解釈』でこう述べている。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の不戦条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」
憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という一文を加えたことによって、日本は「専守防衛のための必要最小限の実力(※「戦力」ではない)を持つことは許されるというのが、最高裁判所が砂川判決で初めて認めた自衛権の法的根拠になっている。最高裁が「自衛権」についての憲法判断を下したのは、これが最初で、これが唯一である。明らかに芦田氏の主張を法的に認めた判決である。
だから安保法制懇が憲法9条における「国際紛争」を限定解釈するには、まずもって砂川判決の非妥当性を明らかにして、改めて国際紛争と自衛権の関係についての最高裁の判断を仰ぐ必要がある。そうした厳密性を放棄して都合のいい判決文の一部だけを切りとって「新解釈」の裏付けにしようとしても、どだい無理な話というものだ。砂川判決の全文は非常に長いので、骨子となる憲法9条と自衛権に関する最高裁の判断の部分だけ要約せずに引用する。実は裁判の判決文はやたらと難解な法律用語がちりばめられ、相当の読解力を必要とするのが通例だが、私が引用する判決文は高校生程度の読解力があれば誤解なく理解してもらえるように最高裁判事が配慮したようで、堅苦しい文章ではあるが、それほど難解ではない。多少長いが、我慢して読んでほしい。
先ず憲法9条2項前段の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては「前項の目的を達するため、陸海軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自
衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民とともにひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家(※「独立」を国家の頭に付け加えるか、「国家」ではなく「主権国」と書くべきだったとは思うが)固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い(※米軍立川基地拡張計画のこと)、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。
改めて砂川判決を読み直してみると、その行間に込められた崇高な精神は、憲法に匹敵すると言っても過言ではないと思う。ただ砂川判決は米ソが対立していた冷戦時代において日本の国力や日本が国際社会の占めていた地位を前提としており、現在の国際情勢と、日本が国際社会に占めている地位、またそれに見合う国際の平和と安全に対して日本が当然負うべき責任や義務の大きさを前提に考えるとき、砂川判決を基準にするのはいかがなものかとは思う。私が判決文中の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存在を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能として当然のことといわなければならない」の「国家固有の」の頭に「独立」という二文字を付け加えるか、「主権国」と書くべきだったと書いたのは、今年1月22日から3日連続で投稿したブログ『安倍総理の憲法改正への努力は買うが「平和憲法」が幻想でしかないことを明らかにしないと無理だ』で述べたように、現行憲法
が占領下において制定されたものであり、独立国家あるいは主権国家としての
尊厳と「自分の国(領土と国民の安全は自分で守る」という、独立国家(主権国家)であれば当然生じるはずの責任と自衛の権利すら否定しかねない要素を明確に否定しないまま独立後も存続させてしまったため、自衛隊という紛れもない自国防衛のための軍隊を日陰者扱いにせざるを得ない状態を放置し続け、自衛隊の軍事力(戦力)を「実力」などといった意味不明な言葉で言い繕ってきたのは、現行憲法の「戦力は、これを保持しない」という条文は、国際的に被占領国の安全は占領国の軍隊が守ることを前提にしていたからだ。
だから、日本が連合国側と講和条約(サンフランシスコ条約)を締結して独立を回復した時点で、日本の安全を守る責任は本来、占領国(米国)から日本に移行していたのである。独立を回復するということは、そういうことを意味するのは子供でも分かる話だ。
私が「現行憲法無効論」を主張しているのはその故であって、「国際紛争」の屁理屈解釈や砂川判決の一部分だけを切り取って、歴代政府の「集団的自衛権」解釈をこそこそと変更したりしながら、憲法解釈の変更や言葉遊びで何が何でも行使容認に持っていこうとしても、そんなことができるわけがないことくらい、本当のバカでなければ、そろそろわかってもいいころだろう。
いや、やはり本当のバカとしか言いようがない。そもそも「集団的自衛権」の政府解釈をこそこそ変えることで「集団的自衛権行使は憲法違反ではない」という屁理屈をこねながら(従来の政府解釈は集団的自衛権の行使に、軍事的支援の要請を受けた時、とか日本の安全が脅かされかねない時、などといった限定を付けていない)、それでいて憲法解釈を変更すると主張すること自体が矛盾していることにすら気が付いていないのは情けないとしか言いようがない。そのうえ、そんな憲法解釈の変更ができるのなら、憲法を改正する必要がなぜある。そういうことを「自家撞着」という。自家撞着の意味が分からない人のために言いかえれば「自己矛盾」と同義である。
なおこのブログの冒頭で、高村副総裁の砂川判決解釈について、私は「屁理屈」と書いたが、朝日新聞は「牽強付会」というほとんど死語になった熟語で批判した。ま、司馬遼太郎氏が生きていたら、たぶん朝日新聞と同様「牽強付会」と切って捨てたであろう。彼が大好きな言葉だったからだ。