小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

日米のきしみの本当の理由は何か?--単眼思考では分からない④

2014-04-24 06:39:45 | Weblog
 自衛の意味を個人の争いで考えてみよう。個人間の争いで、自衛として法律上の責任が問われないケースは「正当防衛」である。正当防衛とは「急迫不正の侵害に対し、自分または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」である。そのため行為が相手を殺傷するといった他人の権利の侵害行為になっても刑法上の犯罪も成立しなければ、民法上の損害賠償責任も発生しない。この正当防衛権は民主主義世界共通のルールでもある。この権利を認めていない民主主義国家はない。
 この権利が、国際間の紛争には必ずしも適用できないのは、個人間の争いで正当防衛権が成立する要件は「自分または他人の権利を防衛する」となっているためである。これが、実は集団的自衛権問題をややこしくしている。
 実は国連憲章は原則として自衛のための武力行使も禁じている。まず話し合いなどによる平和的解決(第三国や国際司法機関などの仲裁を求めることもできる)を原則的に義務付けている。
 しかし、当事国間の平和的解決が不可能な場合も国連憲章は想定した。それが安保理に対して紛争解決のためのあらゆる権能を与えている条文である。その条文は第6章の「平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為に関する行動」の41条(非軍事的措置)と42条(軍事的措置)である。
 国連憲章41条は経済制裁や外交関係の遮断など武力によらないあらゆる制裁を行う権能を安保理に与えている。実際にその対象になったのがアパルトヘイト(人種隔離)政策を法的に制度化していた南アフリカ共和国である。経済制裁などだけでなく国連の南アに対する制裁はオリンピックからも締め出すというくらい厳しいものだった。当時、南アの最大の貿易相手国は日本で、国連は日本に対する非難決議を採決したほどである。この屈辱的な事件は、日本ではほとんど報道されていない。日本の政治記者のモラルの基準は、日本の政治家は目の敵にするが、日本のアンモラルな国際的行動についてはまったく関心を示さないという好例でもある。
 しかし41条の行使によっても問題が解決しない場合を想定して設けられたのが、あらゆる軍事的制裁の権能を安保理に与えるという42条である。この武力制裁には限度が設けられていない。安保理の決議によって、原爆投下という制裁を加えることもできる。国連憲章が制定されたのは1945年6月であり、その後、連合軍の中心のアメリカは実際に日本に2度も原爆を投下している。
 ただし、41条も42条も安保理理事国の多数決では行使できない。国連安保理は現在15か国で構成されているが、そのうち米・英・仏・露・中の常任理事国5か国が拒否権を有しており、そのうちの1か国でも反対したら行使できな
いというおかしな制度だ。とくに42条は「国連軍」を前提にしているが、安保理の多数決では結成されず、常任理事国がすべて同意することが絶対的条件に
なっており、今日まで国連軍が結成されたことはない。
 そこで、国連が認めていない疑似「国連軍」ともいえる「多国籍軍」が国連軍の代行的役割を果たすことが時々ある。多国籍軍が一躍有名になったのは湾岸戦争の時で、国連決議に基づき(安保理決議ではない)、アメリカが中心になってEUや中東など約30か国がイラクに制裁を加えたケースだ。アフガニスタンでのターリバーン政権を打倒したのもアメリカが中心になって結成された多国籍軍である。またイラク戦争もアメリカが中心になって結成された多国籍軍である。いずれも多国籍軍の中心はアメリカであり、はっきり言ってしまえば多国籍軍とは米連合軍を意味する。
 これらの多国籍軍の結成の中で、とくに大きな意味を持つのはターリバーン打倒の多国籍軍である。湾岸戦争もイラク戦争も、アメリカは直接攻撃されていないにもかかわらず、「世界の警察」としてふるまった。が、ターリバーン攻撃の名目は9.11事件(イスラム過激派による同時多発テロ)に対する報復であった。アメリカは、このテロを計画したのはターリバーン政権だと主張して「個別的自衛権」を発動してターリバーンを攻撃した。そしてアメリカの要請に応じてNATO軍(北大西洋条約機構)が軍事行動を共にした。問題は、このときのNATO軍の共同軍事行動の名目である。ウィキペディアはこのケースについて「北大西洋条約機構がアメリカ同時多発テロに対する(北大西洋条約に基づく)集団的自衛権を発動して攻撃を行った」と記している。この記しかたは正確とは言えない。NATO軍は北大西洋条約に基づいて自動的に米軍と軍こと行動を共にしたわけではなく、北大西洋条約に基づいたアメリカの要請に応じて参戦したのである。つまり、アメリカは同時多発テロをターリバーン政権による自国への攻撃とみなして「個別的自衛権」を行使すると同時に、そうした「個別的自衛権」の行使を正当化するため「集団的自衛権」も行使して北大西洋条約機構に軍事的共同行動を要請したと解釈するのが合理的である。
 そう理解せずに、NATOが集団的自衛権を行使したと解釈すると、ではベトナム戦争やキューバ危機の時になぜNATOは北大西洋条約に基づく集団的自衛権を行使しなかったのかの説明がつかなくなる。ターリバーンはアメリカを目の敵にしてはいるが、EU諸国にはイスラム系住民が多く生活しており、現にターリバーンがEU諸国を相手にテロ活動を行ったこともない。NATOがアメリカの要請に応じて軍事行動を共にしたのは、そうすることがNATOにとってもヨーロッパで紛争が生じた時アメリカに軍事的支援を要請できる条
件を確実なものにするためだったのである。
 実際、国連憲章の規定もこのケースを裏付けている。先に述べたように、国連憲章は国連加盟国に原則、国際間の紛争は話し合いによる平和的解決を義務付けている。しかし、現実には紛争が生じた場合、話し合いによる平和的解決は難しい。そもそも話し合いで解決できるような問題だったら、紛争にまで至らない。現にTPP交渉も難航はしているが、日米ともに話し合いによって妥協点を見出そうと努力しており、紛争にまでは至っていない。
 そこで、話し合いによる平和的解決が不可能になった時に国連安保理に紛争解決のためのあらゆる手段をとれる権能が与えられているが、多数決主義ではないため複雑化した紛争を安保理も解決できないケースが生じることを国連憲章は想定した規定を設けている。それが加盟国すべてに「固有の権利」として認めた自衛権(51条)なのである。その固有の権利としての自衛権を憲章では「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間(※41条または42条の発動によって紛争を解決するまでの期間のこと)、個別的又は集団的自衛の固有の権利」と規定している。つまり、「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も、ともに自国防衛のために行使できる権利なのである。もっとわかりやすく書けば、個別的自衛権は自国の軍事力の行使を意味し、集団的自衛権は他の国連加盟国(実際には同盟関係にある国に限定されるが)に軍事的支援を要請できる権利のことなのである。
 日本の場合、いちおう日米安全保障条約によって日本が攻撃を受けた場合、アメリカは日本を防衛する義務を負うことになっている。だから私は何度も日本はすでに集団的自衛権をいつでも行使できる状態にあると主張してきたのだ。が、実際に有事の際、アメリカが日本の要請に応じて軍事的協力をしてくれるという保証はない。昨日オバマ大統領が来日して安倍総理とミシェラン三つ星のカウンター席だけのすし店で寿司をつまみながら懇談したようだが、その懇談での安倍総理の目的は、TPP交渉での落としどころについてアメリカはどう考えているか、また尖閣諸島で中国との間に不遜の事態が生じた時アメリカは本当に自衛隊に協力して尖閣諸島の防衛に力を貸してくれるのか、オバマ大統領の腹を探ることと言われている。つまり日本政府はアメリカを「同盟」「同盟」て連発して、国民には平和ボケを促しながら、現実に他国と武力衝突が生じたときのアメリカの対応を信用していないことを明確にしてしまったのが、今回のトップ会談である。
 今日のブログの冒頭で個人間の争いについての「正当防衛」の定義について書いたが、正当防衛は「急迫不正の侵害に対し、自分または他人の権利を防衛する行為」であるが、国際紛争における「自衛」は「自己防衛」の意味であり、他国を頼まれもしないのに防衛する権利や義務を意味してはいない。現に、ボツダム宣言に署名した中国の代表は国民党総裁で中華民国総統の蒋介石だったが、毛沢東率いる中国共産党との国共内戦で苦境に陥りながらアメリカの軍事支援を要請しなかったため、米国は中国が共産主義に支配されるのを指をくわえて見ているだけだった。蒋介石がなぜ集団的自衛権を行使してアメリカに軍事支援を要請しなかったのかは不明だが、日本政府の集団的自衛権についての従来解釈が正しければ、アメリカが指をくわえて中国の内戦に軍事介入しないはずがない。同様に、日本が他国から攻撃を受けた場合、日本が支援を要請しない限りアメリカは一歩も動けない。国連憲章が、個人間の争いにおける正当防衛と異なり、自国を守るための軍事力行使について「個別的又は集団的」としたのは、「第三国を防衛する」というこじつけで自国の利益のために軍事力を行使することを厳しく制止する目的もあったからである。
 が、問題は本当に日本が他国から攻撃された場合、アメリカが軍事的支援に乗り出してくれるという保証はない。安保条約には、アメリカが日本を軍事的に支援する場合に米議会(上院・下院)での決議が必要と明記されている。米議会が軍事的支援を決議する場合は、その支援がアメリカの国益にかなうか、少なくともアメリカの国益を損なわないことが前提になるのは当り前だ。だから朝日新聞の記者は外務省幹部の発言をでっち上げてこう書いた。「新聞記者、見てきたような記事を書く」を地でいったような記事だ。

 日本は米国をどこまで頼るのか――安倍政権内部で、激しい議論が交わされたことがある(※これは記者の想像)。
 政権発足間もない昨年春、安倍は執務室に外務省幹部らを招き、日本が第三国から攻撃を受けたときに、米国がどの段階で報復処置をとるかを議論した。「日本を助けなかったら米国の世界に対する信用は失墜する」。ある外務省幹部
はこう語り、日本が少しでも攻撃を受ければ、米国は即座に対応してくれる、
と強調した。だが、安倍の反応は違った。幹部に「本当にそうか」と問いかけて、こう続けた。「東京が攻撃を受ければ報復するかもしれないが、そうでなければ米国は迷うだろう」。(※こんな子供じみた議論を安倍総理や外務省幹部がするわけがない。こんな議論があったと記事にしたこと自体がでっち上げの何よりもの証拠だ。が、この後続く記事はいい線をいっている)
 軍事介入に及び腰な米国が、果たして尖閣諸島の防衛に無条件で手を貸すだろうか、との疑問は政権内にも広がっている。有事の際の日米の具体的な共同作戦の用意がないまま日米同盟だけに頼っていられない、という危機感だ。

 最後のくだりも記者の想像の産物だが、おそらくそれは事実だろう。安倍総理が集団的自衛権についての従来の政府解釈を変えまでして「限定容認」にしゃかりきになっているのは、有事の際の米国の軍事的支援をより確実なものにするためなのだ。どうして朝日新聞の記者はここまでたどり着きながら、集団的自衛権に政治生命をかけている安倍総理の真意を見抜くことができないのか。ひょっとしたら、この記者は私の見方に近い見方をしているのかもしれない。ただ私のようにはっきり書いてしまうと、これまでの朝日新聞の主張を覆さざるをえなくなるため、競技場の入り口まで差し掛かりながら、踵を返してしまった可能性は低くない。「宮仕え」の身も楽ではないのかな…。(続く)