今日は天候は
の予定
港のそばの上島町役場
弓削出港です。
生名島と因島の水道を航行です。
造船所の乱立です。
皆忙しそうに大型船の建造中です。
因島病院です。
生口島と因島の水道通過
しまなみ海道大橋です。
生口島の西日光耕三寺を遠望しながら佐木島、高根島との水道を航行します。
三原瀬戸から大三島と毒ガス製造で有名な大久野島との間を通り大三島港を目指します。
穏やかな瀬戸内海です。
天候も回復し
です。
使用していない浮き桟橋があり係留させていただきました。
大山祇神社参道の灯篭です。
目的地は大山祇神社の参拝と国宝館、海事博物館の見学です。
まずは神社で海上安全のご祈祷お札を購入
めでたく結婚式に出くわしました。
正に瀬戸の花嫁ですね。
日本の国宝や重要文化財がよくもこれだけあるな・・・と言うくらい展示してあります。
国宝、重文もこれだけあると値打ちが下がりますね。
勿論撮影禁止で画像はありませんが
つづいて海事博物館・・・・昭和天皇の海洋植物研究の為の専用船が展示してあります。
結構大きな物ですよ。
15トン以上ありますか
さあ昼食です。
沢山の行列の店があります。
店の名前は
「大漁」です。
上記「大漁」をクリック
別のサイトも下記から
http://www.shimacon.jp/eat/tairyo.html
何が美味しいのかと並んでいる人に聞いてみると海鮮丼が350円でネットに載っていたとのこと。
すごい行列は終わりそうにないので諦めて違う店に
改めてネットのすごさを感じます。
私たちは近くの店で穴子丼や鯛のあら炊きなどを頂く
上記の写真は鶴姫の像
「大山祇神社と鶴姫伝説」
鶴姫(つるひめ、大永6年(1526年)? - 天文12年(1543年?))は、戦国時代の人物で、伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用の娘。兄に大祝安舎と大祝安房。
元々大祝氏は、伊予河野氏の一門である。戦国時代となり、周防大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大し、河野氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていた。
大祝氏は代々神職として戦場に立つことはなかったが、戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していた。1534年(天文3年)に大内氏が侵攻してきた際には、兄の安舎が陣代として出陣し、大内軍を撃退している。
1541年(天文10年)にも大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻すると、神職となった兄・安舎に代わって安房が陣代となった。安房は河野氏や来島氏と連合して迎撃した。大内軍を撤退させることはできたものの、安房は討死を遂げた。同年10月にも大内氏が侵攻すると、安房に代わって16歳の鶴姫が陣代として出陣し、大内氏の武将・小原隆言を討ち取っている。
1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣、瀬戸内海の覇権の確立を目論んだ。河野氏とその一門は全力で迎え撃つが、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成も討死する。鶴姫は残存の兵力を集結させて最後の反撃を行い不意を突かれた大内軍は壊走し、鶴姫らは勝利を収めた。
しかし鶴姫はこの戦の後に兄や恋人を想い、18歳で自殺したと伝えられている(鶴姫伝説)。
辞世の句は「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。
鶴姫が着用したとされる胴丸が大山祇神社に展示保存されているが、現存している日本で唯一の女性用の胴丸である。なお胸部は女性用に大きく膨らんでいる。
現在、鶴姫の一生を現代風にアレンジした鶴姫祭りが毎年行われている。
大三島にお別れを告げて大崎上島と大崎下島の水道から上蒲刈島と豊島の水道を通り目的地かまかり海の駅を目指します。
「県民の浜」と言う広島県の施設で宿泊からレジャー、海水浴と広大な施設です。
桟橋も専用で海の駅になっています。
まるで外国のリゾートのようです。
ここは「海猿」のロケ地だったようです。
では今日はここまで
ではでは
カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/花香る静寂の宿 湯楽
http://www.yuraku-group.co.jp/kinosaki/
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