こんばんは(*・ω・)
こだまです。
コモディイイダ陸上競技部9年間の軌跡
その3 3年目
2011年3月16日、入社3年目がスタートした。
震災の余波が多分に残るなか、土田選手らが入社した。
私がいた店舗はというと、いや、スーパーは皆そうだったと思うが、商品の入荷が不安定で、発注したものが納品しないという状態が続いていた。
開店直後にお客様が殺到し、1時間ほどで開店休業状態が毎日続くという感じだった。お客様にはただ謝ることしかできなかった。
計画停電も朝霞の寮で経験した。
入社3年目は歯車が噛み合わない1年だった。
足の痛みが治ったかと思ったら、自転車で派手に転倒、傷が癒えたかと思ったら通勤ラン中に人を避けて足をひねり人生初の松葉杖、完治したかと思ったら痛めたことのない臀部を故障、まともに走れた期間が2011年中にはなかった。なのでレースはほぼ走っていない。
当然、東日本実業団駅伝も走っていない。
チームは、再び福島選手の快走により4区途中まではニューイヤー出場圏内だった。襷は6区まで繋がりコモディイイダ新記録ではあったが、ニューイヤー圏内までは大差をつけられた。
『児玉が走らなくてはダメだろう』という言葉をたくさんいただいたが、走った選手に失礼だと思い、大した返事はしなかった。
尚、この年1区で日清食品グループの佐藤悠基選手が登場し、前年までのスローペースの展開が一気にハイペースとなった。
ようやく走れるようになったのは師走。東京マラソン2012を目指して走り始めた。
練習自体は順調だった。
当時はまだエリートの資格を持っていなかったため、東京マラソン当日はスタート1時間前から並んでいた。
実質初マラソンだったが、8kmほどでふくらはぎが肉離れのような感覚になった。無理をして何とか走っていたが、30kmを過ぎて次はエネルギー切れが体を襲った。車で言えばガソリンが空になった状態だ。
体を動かそうと思っていても動かない。視野も狭くなるというよりは欠けていた。周りに誰もいないところで応援してくれていた奥さんの声も姿も気づかないほど、いっぱいいっぱいであった。
ゴール直前には女子の先頭と女子の日本人トップにも抜かれたが何も抵抗はできなかった。
2時間26分。
エリートの資格を得るには程遠い記録だった。マラソンの洗礼を受けた。
しかし、体は思ったよりも早く回復し、足に痛みも残らなかった。
2012年は結果を残す年にしよう、そう誓い、4年目を迎えようとしていた。
3年目は奥さんと付き合えたことが唯一の救いであった。
続く。
こだまです。
コモディイイダ陸上競技部9年間の軌跡
その3 3年目
2011年3月16日、入社3年目がスタートした。
震災の余波が多分に残るなか、土田選手らが入社した。
私がいた店舗はというと、いや、スーパーは皆そうだったと思うが、商品の入荷が不安定で、発注したものが納品しないという状態が続いていた。
開店直後にお客様が殺到し、1時間ほどで開店休業状態が毎日続くという感じだった。お客様にはただ謝ることしかできなかった。
計画停電も朝霞の寮で経験した。
入社3年目は歯車が噛み合わない1年だった。
足の痛みが治ったかと思ったら、自転車で派手に転倒、傷が癒えたかと思ったら通勤ラン中に人を避けて足をひねり人生初の松葉杖、完治したかと思ったら痛めたことのない臀部を故障、まともに走れた期間が2011年中にはなかった。なのでレースはほぼ走っていない。
当然、東日本実業団駅伝も走っていない。
チームは、再び福島選手の快走により4区途中まではニューイヤー出場圏内だった。襷は6区まで繋がりコモディイイダ新記録ではあったが、ニューイヤー圏内までは大差をつけられた。
『児玉が走らなくてはダメだろう』という言葉をたくさんいただいたが、走った選手に失礼だと思い、大した返事はしなかった。
尚、この年1区で日清食品グループの佐藤悠基選手が登場し、前年までのスローペースの展開が一気にハイペースとなった。
ようやく走れるようになったのは師走。東京マラソン2012を目指して走り始めた。
練習自体は順調だった。
当時はまだエリートの資格を持っていなかったため、東京マラソン当日はスタート1時間前から並んでいた。
実質初マラソンだったが、8kmほどでふくらはぎが肉離れのような感覚になった。無理をして何とか走っていたが、30kmを過ぎて次はエネルギー切れが体を襲った。車で言えばガソリンが空になった状態だ。
体を動かそうと思っていても動かない。視野も狭くなるというよりは欠けていた。周りに誰もいないところで応援してくれていた奥さんの声も姿も気づかないほど、いっぱいいっぱいであった。
ゴール直前には女子の先頭と女子の日本人トップにも抜かれたが何も抵抗はできなかった。
2時間26分。
エリートの資格を得るには程遠い記録だった。マラソンの洗礼を受けた。
しかし、体は思ったよりも早く回復し、足に痛みも残らなかった。
2012年は結果を残す年にしよう、そう誓い、4年目を迎えようとしていた。
3年目は奥さんと付き合えたことが唯一の救いであった。
続く。