第一部『第一次菅平合宿編』前半。
今の自分は、あの時の合宿をこなせるだろうか……。走力は当時より比べ物にならないほどついた。
しかし、やっぱり完全にできるとは言い切れない。この合宿は走力以前に精神的なものが大きく比重を占めているからだ。
児玉雄介という陸上選手が形成されたと、確信している地獄の夏合宿を今紐解こう。
今から書くことは、大体一年生のときのことである。
7月下旬、夏休みが始まってすぐに合宿は始まる。
1年生の時は僕はどれくらいキツいものなのか、あまりわからなかった。先輩から聞かされているだけで実感はわかなかった。
1日目、始発もまだ出発しないようなまだ辺りが暗い、高校の近くにある駅に集合する。みんな親が運転する車で来ていた。もちろん僕も。
2、3年時はこの一時がたまらなく嫌だった。わざわざ苦しみに長野に行くのに楽しい感情になるはずが、なかった。
全員が集まったら、学校所有のバスで菅平に向かう。3時間ほど経つと菅平に着いた。
だが、宿舎に着いた訳ではない。山道の入り口のような所でバスは止まった。
今から練習を始めるという。僕ら1年生はマジなのかと思ったが、僕は自信があった。数週間前の記録で15分40秒台を出し、先生から誉められていたからだ。
この合宿でAチームで
たくさん練習して、レギュラーを勝ち取ってやろうと密かに目論んでいた。
甘かった。この世のどんなものより甘かった。外国のお菓子の甘さなど比ではない。
開始2kmで集団から離れた。車でも上るのがキツい坂道を、平地とさほど変わらないペースで走った。
スタートして10分経たずに、僕の自信は跡形もなく砕け散った。先生にも死ぬほど怒られた。
一発目の練習で得た物は、自分はただの自惚れ野郎だとわかったことだった。
午後練習は何とかこなせたのだが、30km以上も走ったのに1日はそれで終わりではなかった。
夕食も練習だった。山盛りごはんを何杯も食べさせられた。
もう食べられなくなっても、先輩から『食えねーじゃねーよ。無理やりにでも押し込むんだよ。』と、容赦なく罵倒された。
たくさん食べられることは幸せだが、明らかに食べすぎだった。僕ら下級生は泣きそうになりながら、毎食喉元までごはんを詰め込んだ。
合宿は1日3部練習だが、食事もあわせて6部練習だと思った。
部員の練習着を洗濯して、やっと眠りについた。地獄はまだ1丁目に入ったばかりだとは知らずに。
朝は毎日4時起きである。
体を起こして1歩を踏み出した瞬間、激烈な筋肉痛に襲われた。3年生になっても2日目に筋肉痛は鉄板だった。
バスに揺られながら練習場所1km手前まで行く。車中で喋る者はほとんどいなかった。
朝練は、大体7kmコース3周である。4周のときもあった。高校生にしてはかなりの距離を走っている
。
1年時の僕はほとんどこなせなかった。集団から脱落し、ヘロヘロになりながら距離だけを走った。練習とは呼べないものだった。
ここでもちっぽけなプライドは粉々になった。僕は完全に打ちのめされた。先生にも烈火のごとく怒られ、先輩にも長い時間説教された。
人生最悪の朝だった。
だけど、絶望はしなかった。
打ちのめされても僕の心には、『大丈夫、俺はまだまだこれからだ』という気持ちが支配していた。
できることからやっていこう、そう決意して、合宿をこなそうと思った。
後編へ続く。