明治天皇と森永ミルクキャラメル
男子バレーの試合の一部始終を見ていてはがゆく思ったことが多々あった。体格の差、瞬発力の差、これは致し方ない面もある。一番残念だったのは、ここだ!!というときにミスをすることと攻撃のパターンを相手に先読みされてしまうことだった。それにしてもエース・アタッカー清水選手を中心に世界の強豪にぎりぎりまで食い下がっていった。負けていても最後まで食いついていった。この底力は将来に希望を繋ぐ要因となった。その感激が大きな力を日本に与えたことと思う。男子バレーの選手たちに初めに心から感謝したいと思う。お疲れ様でした。
さて、この度の本題。
明治天皇は森永のミルクキャラメルが好きだったそうだ(?)
イエスと答えたいが、そう旨くいく訳ではない。この二つの事柄を繋げる画家を紹介したいのである。それは、八木彩霞。洋画家である。愛媛県松山市出身。本名は八木熊次郎という。
愛媛師範学校を明治43年卒業 。愛媛県内の小学校に大正5年まで勤務し、神奈川県横浜市元街小学校に転勤。そして、大正7年に「森永ミルクキャラメル」の箱のデザインを作成した。その箱は現在もそのままで歴史的なロングランとなった。

大正11年には明治天皇のご尊像を油彩で作成するという名誉この上ないご下 命があった。1面は宮内省にもう1面は明治神宮に奉納し宝物殿で現在も保存されているという。
大正14年まで横浜市元街小学校に勤務。同年退職しパリへ留学した。そしてソルボンヌ大学文学部とグランショミール美術学校に通い日本人会の会員となる。画友であったかの藤田嗣冶の紹介で当時モンマルトルの丘に住んでいた印象派・後期印象派のアトリエに通い研究を続けた。
昭和2年帰国。以後教育界・画壇にて活躍した。1925年に再びパリに渡り、サロンコンクールで入賞。しかし惜しくも友人藤田嗣治の死を知ってからは絵筆を折ったという。
明治天皇と森永のミルクキャラメルが偉大な彩霞という画家によって結びつく。私はこういう事実を絵に強い関心を持つ日々から知りえたのである。私はこれからも色々な史実を絵から学ぶことになると思う。絵は明快に歴史を物語る。絵は「どこでもドア」である。

男子バレーの試合の一部始終を見ていてはがゆく思ったことが多々あった。体格の差、瞬発力の差、これは致し方ない面もある。一番残念だったのは、ここだ!!というときにミスをすることと攻撃のパターンを相手に先読みされてしまうことだった。それにしてもエース・アタッカー清水選手を中心に世界の強豪にぎりぎりまで食い下がっていった。負けていても最後まで食いついていった。この底力は将来に希望を繋ぐ要因となった。その感激が大きな力を日本に与えたことと思う。男子バレーの選手たちに初めに心から感謝したいと思う。お疲れ様でした。
さて、この度の本題。
明治天皇は森永のミルクキャラメルが好きだったそうだ(?)
イエスと答えたいが、そう旨くいく訳ではない。この二つの事柄を繋げる画家を紹介したいのである。それは、八木彩霞。洋画家である。愛媛県松山市出身。本名は八木熊次郎という。
愛媛師範学校を明治43年卒業 。愛媛県内の小学校に大正5年まで勤務し、神奈川県横浜市元街小学校に転勤。そして、大正7年に「森永ミルクキャラメル」の箱のデザインを作成した。その箱は現在もそのままで歴史的なロングランとなった。

大正11年には明治天皇のご尊像を油彩で作成するという名誉この上ないご下 命があった。1面は宮内省にもう1面は明治神宮に奉納し宝物殿で現在も保存されているという。
大正14年まで横浜市元街小学校に勤務。同年退職しパリへ留学した。そしてソルボンヌ大学文学部とグランショミール美術学校に通い日本人会の会員となる。画友であったかの藤田嗣冶の紹介で当時モンマルトルの丘に住んでいた印象派・後期印象派のアトリエに通い研究を続けた。
昭和2年帰国。以後教育界・画壇にて活躍した。1925年に再びパリに渡り、サロンコンクールで入賞。しかし惜しくも友人藤田嗣治の死を知ってからは絵筆を折ったという。
明治天皇と森永のミルクキャラメルが偉大な彩霞という画家によって結びつく。私はこういう事実を絵に強い関心を持つ日々から知りえたのである。私はこれからも色々な史実を絵から学ぶことになると思う。絵は明快に歴史を物語る。絵は「どこでもドア」である。
