とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

日本人としての誇り

2010-11-11 22:51:29 | 日記
日本人としての誇り




 今、我が国民は日本人としての誇りを失ってはいないだろうか。それは何が原因か。やはり国際的な相対的位置と国内の不況が起因していると思われる。
 という風に大上段に構えると私はすくんでしまい、次が書けなくなる。その根本的な理由・原因を具に論述する力量がないからである。しかし、私は、このことをこの数年間ずっと考えていた。断っておくが、昔の軍国主義の時代に返れとは決して言わない。軍備を拡張せよとも言いたくはない。ただ、戦後の復興期に育ち、高度経済成長の時代に青春期を迎えた世代の私は、日本のあの輝きが失われていくのをひどく悲しんでいる。あの時代は確かにみんなが夢を持っていた。現代の若者は夢を失いかけていないか。それが心配である。
 私が強く日本という国を誇りに思い、そこに生きていることに感謝した時代があった。家庭というものがものすごくありがたいと思えた時代があった。私は、その時代を振り返ってみて、象徴的な出来事に思い至ったのである。そうだ、あのときだ。あのとき、私は、日本人としての誇りを感じ出したのである。
 それは、1964年東京五輪である。特に女子バレーの優勝の感激的なシーンだった。
 それは私の大学時代。私は、間借りしていた家の大家さんに「バレーやってるから一緒に見ないかね」と誘われた。私は嬉しくなって階段を駆け下りた。そして、大家さんの家族と観戦した。1964年10月23日のことである。ソ連との全勝同士の対決。これは力が入っていた。
 日本が順調に2セットを連取し、3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。試合を中継した鈴木アナウンサーが「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルが確定した。私は家族のみなさんとともに歓声を上げた。日本は強い。大国のソ連にに勝った!!
 出場選手は以下の12名である。

河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サダ、松村勝美、篠崎洋子、佐々木節子、藤本佑子(以上、日紡貝塚)、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)

 日本の女子バレーの軌跡を動画で振り返りたいと思う。

全日本女子バレー 黄金時代(1)



 昨日(10日)の対ロシア戦を見ながらかつての対ソ連戦を思い出していた。
 結果は3-1で敗退した。体格の差というものが大きなネックになっていると感じた。しかし、力のロシアを凌ぐ技の日本の神髄を見たような気がした。エースアタッカーの超長身エカテリーナ・ガモワ選手の得意満面の笑顔が曇りだした様子を私はじっと見ていた。力で押し潰す試合を続けてきたロシアが一時調子を乱し始めたのである。日本は確かに力を取り戻しつつある。私は実感した。
 かつての栄光をこの世界選手権で取り戻して欲しい。そして、日本に大きな夢と希望を与えて欲しい。私は切に祈っている。
 


韓国・中国に圧勝 !!

2010-11-09 23:09:15 | 日記
韓国・中国に圧勝 !!


 サッカー(対中国)、女子バレー(対韓国)ともに圧勝。
 いやいや、おめでとうございます。特に女子バレーは久々のベスト4進出の快挙。やりましたね。うれしい限りです。
 スポーツは晴れ晴れとしていて、清清しいですね。えっ、「晴れ晴れ」じゃおかしいですか。いやいや、私は選手たちの顔を見ていて素直にそう思いました。
 国会ではどろどろとした論戦(?)が繰り広げられています。あれは論戦と言えるでしょうか。議員各位はスポーツ選手のあの晴れ晴れとした表情を見ているのでしょうか。気持ちを一新していただきたいですね。与野党ともに素直になってもっと明るく前向きに日本国の将来のことを論じてほしいと思います。どなたも日本の国民ですから。
 また政治のことを書きました。以前、もう政治のことは書かないと言いました。が、また書いてしまいました。もうこれで私は書きません。

遠くを見すぎました・・・

2010-11-08 23:19:35 | 日記
遠くを見すぎました・・・



 うーん。自分は自分であるから、先ず自分を、その足元を、立っているところをしっかり見なければと思いなおしました。
 自分以外のところで何が起こっているか。そこだけ見ていたら、こけてしまいますね。遠くを見すぎるていると、自分を見失うことがあります。そして、他に対する願望だけが膨らんできます。
 脚下照顧。これはいい言葉ですね。
 禅寺の玄関には例外なく掲げられている言葉だそうです。入門者に一番最初に教える作法だとか。その作法とは「履物を揃える」ということを指しているそうです。
 常に他人の行いや言動に対して心を乱すことなく、自分自身を見つめ直す心を持つということだそうです。現代は他人の責任の追求が先行しまっている感じがします。いや、このことは先ず自分に当てはまります。自分のことは棚に上げ、人様の欠点や落ち度を先ず優先して追及する。私はよくこういうことがあります。反省 !! です。
 自分が可愛いから自分は弁護したい。たから先ず自分のことをほったらかして、人様のあら探しをする。これ、悪い癖ですね。直そうと思っていますが、ついつい、そうなってしまう。
 「あなたは腰が引けてるね、もっと自分を前に出したら・・・」なんてついつい言ってしまう。年をとると特権のように偉そうなことを言いたくなる。これは、他人が言った場合はすぐに気がつくが、自分が言った場合、、気がつくのに時間がかかる。これが厄介です。
 

対中国戦にエキサイトする訳は・・・

2010-11-06 22:55:22 | 日記
対中国戦にエキサイトする訳は・・・



 人生に勝ち負けはない !! これは決して譲ることの出来ない私の根本理念である。
 しかし、スポーツは勝ち負けが最後に伴う。これは仕方のないことである。だからと言って私は負けたもののすべてが敗者だとは思っていない。試合に勝って勝負に負けるということはスポーツにはしばしばあるからである。
 でも、でも、である。今日、6日の女子バレーの対中国戦は惜しかった。これは試合にも勝負にも負けてしまった。
 2セット取られた後の3セット目は正直私は珍しくエキサイトした。一つひとつのプレーに奇声を発していたのである。孫と一緒に観ていた。小学生の孫もバレーが少し分かるらしくこれまた「やった!1」とか「惜しい!!」とか言って興奮していた。どこでバレーのルールなどを知ったのか。私は不思議に思った。とまれ、私は、理性を失うような(?)精神状態になっていた。
 ぎりぎりまで粘って1セット勝ったときには、もう何とも言えないほどの喜びがこみ上げてきた。しかし、4セット目は乱れが目立つようになり、とうとう取られてしまった。
 私は、がっくりきてしまった。
 ・・・どうしてそんなに興奮したのか。試合が終わってからいろいろ考えた。
 結果、そうだ、国際的な中国との一連のごたごたが私の心にわだかまっていたからだと結論付けた。
 尖閣列島での事件、両国のギクシャクしたやりとり、流出した映像、等々。私の心の底にはごたごたしたものが渦巻いていた。言いたくても本音をストレートには言えない。政治はかけひきである。おいおい、もっとしっかりしなさいよ。という気持ちが私の本音だった。
 スポーツで反撃したら私の溜飲が下がる。うん、ここだ。ここが私を異常に興奮させたのである。
 もとより、スポーツの中に政治色を持ち込んではいけない。だが、私のような気持ちでその試合を見ていたお方が随分いらっしゃったのではないだろうか。

実態が見えない世の中

2010-11-03 22:25:14 | 日記
実態が見えない世の中



 最近の国内外の出来事を見ていると、その底にどういう思惑があって、どういう方向に動こうとしているのかさっぱり分からない。
 報道されている内容がすべて真実ではない。真実は常に奥にある。これは私がいつも思っていることである。だから、情報過剰のように見えて、実は情報過疎の立場に立たされているのである。私を含めたほとんどの人々はどのように時流を判断していいか分からなくなっているのである。
 日米関係、日中関係、日露関係等々の諸問題にしても、国内の諸問題にしても、本当のことは報道されていない気がする。ある一つの出来事の関するテレビ、新聞、ウエブ等のメディアを比較して検討しても微妙に食い違っているのである。
 例えば駐露大使を一時帰国させたことについても、そんなことをしても始まらないということを書いているのもあれば、そんなに刺激しなくてもいいとも書いている。中には素人のような対応であると批判している。かと思えば、当然だ、もっと突っ込んで大使を召還してもいいのではとも書いているのもある。
 いや、いろいろあってもいい。それをとやかく言う権限は私にはない。しかし、大使はロシアに関しては素人でなにが分かるかとか、メドヴェージェフは国内に活躍ぶりを宣伝してもプーチンにいずれ大統領選で潰されてしまう、ということまで書いているお方もいる事実はどう解釈していいのか。素人の私はさっぱり分からなくなる。混乱させるだけのような気がする。
 例えばある山があったとしよう。その山を東からいつも眺めている人たちにはその山は東の姿しか見せない。西からばかり眺めている人にも西の姿しか見せない。
 東からはなだらかに見えても、案外西の姿は急峻でものすごい姿を見せているかもしれない。四囲からいつも観ている人はこの世にいないかもしれない。だから、その山の実態は知られていないのと同じである。
 四囲からある事象を観て、真実に近い報道をすることは可能だろろうか。不可能なような気がする。だから私たちは、報道されていることは山の一つの姿に過ぎないという認識を常にもっていなくてはいけないと思うのである。