とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 102 花笠道中 美空ひばり

2017-02-23 23:59:36 | 日記
あの燦然と輝く歌姫美空ひばりの唄をAは子どもの頃たくさん聞いていました。「りんご追分」なども心に残っています。しかし、Aは不思議とこの唄がすぐに浮かんでくるのです。自然なメロディーで覚えやすかったこともあると思います。そこはかとない色気も漂っています。案山子に呼びかけたり、地蔵さんに呼びかけたり、という長閑な雰囲気が好きでした。
ああ、懐かしい。大川橋蔵さんも若いですねえ。「銭形平治」もきりっとしていてよかったです。美空ひばりは憧れのお姉さんでした。映画もたくさん見ました。彼女を超える歌手はもう出ないだろうという気がしています。

花笠道中 美空ひばり


美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。
12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった[1]。昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。

戦敗間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、ひばり母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。


1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。 
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇[注釈 6]公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。塩酸をかけた少女はひばりの熱烈なファンだったという。現場に居合わせたブロマイド業者らによって犯人の少女は取り押さえられ警察に突き出された。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。
1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田茂に頼まれ、任侠映画でブレイクする前の高倉健を相手役として迎えた。東映と専属契約を結んだ1958年から1963年の間、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」と述べている。
1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 101 舟木一夫 修学旅行

2017-02-22 00:58:05 | 日記
Aの青春がここにまだいてくれました。
中学の修学旅行。京阪神でした。山陰線を鈍行の列車に乗って行きました。京都の街のネオンサインが見えたとき、どっと歓声を挙げました。みんなお米持参の旅行でした。宿に着くと、それぞれ持ってきたお米を大きな袋に入れました。その時の宿の女将さんの笑顔を忘れることはありません。夜になると布団の上で枕投げをしました。先生がやってきて笑顔でコラコラと言いました。
この唄、橋幸夫の「潮来笠」とほぼ同じころのヒット曲ですね。お二人の唄が映画化されて、見に行ったものです。・・・ははっ、青春してましたですね。

修学旅行 ☆ 舟木一夫


デビューまで

1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。父親は石川県河北郡津幡町笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で雷部屋に所属した力士であった。高校2年であった1961年夏、名古屋で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である。 偶然そこに取材に来ていた「週刊明星」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった堀威夫に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家遠藤実にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、愛知高等学校から転校した自由ヶ丘学園高等学校へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった。 上田少年は芸名を舟木一夫とし、ホリプロに所属することになった。社長の堀は、当時デビュー2年目で全盛期を迎え、舞台で時々学生服を着て歌っていた橋幸夫の対抗馬として、当時現役高校生だった舟木を学生服デビューさせると決定した。

デビュー

1963年6月5日、デビュー曲は恩師遠藤実作曲、日本コロムビア専属だった丘灯至夫作詞の「高校三年生」と決定した。4月で高校を卒業していた舟木だったが、「学生服で行け」という遠藤実の指示で、歌謡界異例の学生服デビューとなった。なお、「高校三年生」のレコードジャケットで舟木が着ているのは当時の母校の制服である。
「高校三年生」は、発売1年で100万枚の大ヒットを飛ばし、舟木は第5回日本レコード大賞新人賞を、丘は作詞賞を受賞した。デビューから2ヵ月後、本人が主演した同名映画も大ヒットし、舟木は一躍スター歌手になった。それに続き、学園三部作と言われた「修学旅行」「学園広場」もヒットした。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 100 映画 「この世界の片隅に」

2017-02-19 22:18:51 | 日記
Aが生まれた昭和19年から20年の広島が舞台。「ガラスのうさぎ」「火垂るの墓」とともに忘れることのできない作品となりました。のんさんの声が癒しとなっていますね。たくさんの募金によって完成まで漕ぎつけたとか。アニメの歴史に大きな足跡を残すことと信じます。・・・私たちは決してこの作品のことを忘れてはいけません。

映画 「この世界の片隅に」 紹介 - IN THIS CORNER OF THE WORLD -


『この世界の片隅に』は、こうの史代による日本の漫画作品。『漫画アクション』(双葉社)にて2007年1月23日号 - 2009年1月20日号まで連載。単行本は同社より上・中・下巻の形式と、前編・後編の形式で発売。
2011年8月5日に日本テレビ系列でドラマ化された。また、2016年11月12日より片渕須直監督による同名の劇場アニメーション映画が全国公開された。

あらすじ

1944年(昭和19年)2月、絵を描くことが得意な少女浦野すずは、広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぐ。戦況の悪化で配給物資が次第に不足していく中、すずは小姑の黒村径子の小言に耐えつつ、ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に守っていく。しかし軍港の街である呉は1945年(昭和20年)3月19日を境に頻繁に空襲を受けるようになる。同年6月22日の空襲で、通常爆弾に混ぜて投下されていた時限爆弾(地雷弾)の爆発により、すずは姪の黒村晴美の命と、自らの右手を失う。意識が戻ったすずは径子に責められる。同年7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下した。見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日に実家に帰ってくるように誘う。その当日である8月6日の朝、径子はすずと和解し、すずは北條家に残ることを決意する。その直後に広島市への原子爆弾投下により、爆心地から約20キロメートル離れた北條家でも閃光と衝撃波が響き、広島方面からあがる巨大な雲を目撃する。8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは家を飛び出し泣き崩れる。翌年1月、すずはようやく広島市内に入り、草津にある祖母の家に身を寄せていたすみと再会。両親は既に亡くなっており、すみには原爆症の症状が出ていた。廃墟となった市内で、すずはこの世界の片隅で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻った。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 99 誰が為に鐘は鳴る(For Whom The Bell Tolls)

2017-02-17 23:19:10 | 日記
Aのこの映画に対する思い出は、「武器よさらば」に通じるもので、戦争とは誰のために何の目的でするのか、という素朴な疑問でありました。ジョーダン(ゲイリー・クーパー)とマリア(イングリッド・バーグマン)の出会いと結ばれない戦場の中での恋。スペイン語が飛び交う中でのストーリイの展開。ゲリラの荒々しさ。そしてマリアの美しさ。・・・強烈な思い出です。

誰が為に鐘は鳴る(For Whom The Bell Tolls) part1


誰が為に鐘は鳴る(For Whom The Bell Tolls) part2


『誰が為に鐘は鳴る』(たがためにかねはなる、原題: For Whom the Bell Tolls)は、1943年製作のアメリカ映画。アーネスト・ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』の映画化作品。
スペイン内戦を舞台とし、ロバート・ジョーダンとマリアの恋を描く。題名はジョン・ダンの説教の一節を引用している。1939年3月にこの作品を書き始め、翌40年に発表された。
1943年にゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの主演で映画化もされた(これの邦題は『誰が為に鐘は鳴る』と、為が漢字になっている)。


イングリッド・バーグマン(Wikiより)

人物

ロバート・ジョーダン=ゲイリー・クーパー

マリア=イングリッド・バーグマン

パブロ=エイキム・タミロフ

ピラー=カティーナ・パクシヌー

アンセルモ=ウラディーミル・ソコロフ

エルソルド=ジョゼフ・カレイア

あらすじ

反ファシスト軍としてスペイン内戦に参加したロバート・ジョーダンは戦略上重要となる橋梁を爆破する任務を背負い、パブロが率いるゲリラ隊に協力を求めた。そこでファシストに両親を殺され、ゲリラ隊にかくまわれていた娘マリアと知り合い、恋に落ちた。やがて、彼は作戦を進めていくうちに、敵の作戦が変更となり、自分の任務である橋梁の爆破が無意味になることを知った。しかし連絡の不備から作戦は中止されず、彼は無駄になったことを知りながら橋梁を爆破し、瀕死の重傷を負い、仲間を逃がして自分は死に臨んだ。)(Wikiより)




あちこち「SYOWA」 98 Goldfinger Theme Song - James Bond

2017-02-16 22:47:52 | 日記
やはりこれを紹介しなければ娯楽映画は語れないという思いでいます。とにかく楽しめる、はらはらさせる。どんでん返しもある。アクションが並外れている。音楽もいい。ここではオープニングが素晴らしかった「Goldfinger」ご紹介します。

Goldfinger Theme Song - James Bond


ジェームズ・ボンド (英: James Bond) は、イギリスの作家イアン・フレミング(1908年 - 1964年)のスパイ小説、およびこれを原作とする映画の主人公である、イギリス秘密情報部 (MI6) の工作官である。
アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) が企画した「AFIアメリカ映画100年シリーズ」では、『アメリカ映画のヒーローベスト50』で3位に選ばれている。(Wikiより