とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 97 パイプ・ライン Pipeline'65  The Ventures

2017-02-15 23:05:44 | 日記
心が浮き立つ曲を・・・。エレキ・ギターのザ・ベンチャーズ。「テケテケ・・・」。懐かしいですね。Aの父が初めて中古のステレオを買ったのはこの曲が流行っていたころでした。シングル盤のレコードで「ブルージーン・・・」とともに盤が擦り切れるほど何度も聴きました。

パイプ・ライン Pipeline'65 【Resize-HQ】 The Ventures


ベンチャーズ (The Ventures)は1959年結成の、アメリカ合衆国のインストゥルメンタル・バンド。特に日本に於いてはビートルズと並び、後の日本の音楽界の全般の影響を与えたバンドとされている。2008年にはロックの殿堂入りを果たした。


ベンチャーズが日本で人気が出たのは2回目の来日(1965年1月、アストロノウツなどとのパッケージツアー)で、ドン、ボブ、ノーキー、メルの4人で行った日本公演からであった。彼らは専用ギターである、モズライトのギターを真空管アンプにプラグ・インすることで生まれるラウドなサウンドで、たちまち日本の若者たちをとりこにし、日本に於いて一大エレキ・ブームサーフ・ミュージック・ブームを巻き起こした。
アンプのリヴァーブをフルにし低音弦をスライドさせて、トレモロ・ピッキングを行う「トレモロ・グリスダウン」奏法(日本では一般的に「テケテケ」と呼ばれる。しかし開祖はキング・オブ・サーフ・ギターと謳われるディック・デイルであり、ベンチャーズが編み出したわけではない)と共に、「ダイアモンド・ヘッド」、「パイプライン」(これを題材にしたのが映画化もされた芦原すなお原作の『青春デンデケデケデケ』)、「10番街の殺人」、「ウォーク・ドント・ラン’64」、「キャラバン」など、数々のヒット曲を生み出した。彼らが本国米国で一番人気があったのは60年代までで、日本では長く人気を保ち来日回数は50回を超え、いわゆるビッグ・イン・ジャパンの代表例とされている。
1966年に加山雄三の「君といつまでも」のカバーを日本で発売してヒットしたことをきっかけに、1960年代中盤から1970年代前半にかけて日本を意識した曲を作るようになり、日本の作詞家が歌詞を付けて発売したことで、歌謡曲の作曲家としても注目されるようになる。越路吹雪のために書いた銀座の夜景をイメージした「GINZA LIGHTS」が「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)としてリリースされたのを皮切りに、「北国の青い空」(奥村チヨ)、ジェリー・マギーが関った「京都の恋」「京都慕情」(渚ゆう子)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)などの歌謡曲を送り出し、それらはベンチャーズ歌謡と呼ばれた。「アメリカ人にこんな日本的な曲を書けるのか」と当時の日本の音楽評論家たちを唸らせたが、これには当時メンバーを離れたノーキーに代わって参加したジェリー・マギーの幅広い音楽性が作用しているとも言われている。特に「京都の恋」は、(1970年)第12回日本レコード大賞企画賞を受賞している。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 96 イーグルス ホテル・カリフォルニア

2017-02-14 16:41:54 | 日記
この哀調は言葉では表せないもの。Aは、この曲を聴くと胸が締め付けられて、叫びたいような気持ちになります。

イーグルス ホテル・カリフォルニア 英語歌詞・和訳付き


イーグルス(英語:Eagles /íːglz/「イーグルズ」)は、1971年にデビューしたアメリカのロック・バンド。アメリカ西海岸を拠点に活動しながら世界的人気を誇り、トータルセールスは1億2000万枚を超える。
主な代表曲は、「テイク・イット・イージー」「ならず者」「呪われた夜」「ホテル・カリフォルニア」など。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第75位。


名実ともに、音楽の黄金期である70年代を代表するバンドであり、ヒット曲を多数発表しているが、どの曲も美しいコーラスワークを聴かせる。デビュー前、グレン・フライは全員がボーカルを採れるバンドを目指しており、デビュー時のオリジナルメンバーである、グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンはファーストアルバムである「イーグルス・ファースト」で4人全員がリードボーカルを採り、またグレンの目指していたコーラスワークもレベルの高いものとなった。その後、メンバーチェンジもあり、ロック色の強いバンドになっていったが、コーラスの美しさは落ちるどころか、さらにレベルアップしていった。
さらに、ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュといったテクニックのあるギタリストが加わってからは演奏能力も格段に上がり、ライヴでもクオリティの高い演奏を見せている。また、ビートルズのレノン=マッカートニーのように、ヘンリー=フライのコンビでヒット曲を連発していった。ただし、レノン=マッカートニーの場合はほぼ完成した楽曲に一方がアレンジを施すなどする関係だったのに対し、ヘンリー=フライのコンビは、主にヘンリーが作詞、フライが作曲を担った。


歌詞のあらましは、主人公がコリタス(サボテンの一種だがメキシコでマリファナの隠語でもある)の香りたつカリフォルニアの砂漠エリアのハイウェイで、長時間の運転に疲れて、休むために立ち寄った小綺麗なホテルに幾日か滞在し快適な日々を送ったが、堕落して快楽主義的なすごし方を続ける滞在客たちに嫌気して、以前の自分の日常生活に戻るためホテルを去ろうとしたものの、離れようにも離れられなくなった…という、一見伝奇譚的なミニストーリーであるが、歌詞の随所には言外に意味を滲ませる深みのあるものとなっているため、歌詞解釈について様々な憶測を呼び、評判となった。
ドン・ヘンリーは2007年9月11日の英デイリー・メール紙にてそれらについて「幾つかのこの曲の歌詞の拡大解釈には大変驚かされ続けている。この歌詞の内容はアメリカ文化の度を越した不品行と私達の知合いだった女の子達についてだった。しかし芸術と商業主義との危ういバランスについてでもあった。」と述べている。
作詞者の3人が属するウエストコースト・ロックひいてはロック産業の退廃を揶揄しているという解釈から、カリフォルニア州キャマリロにあったカリフォルニア州立精神病院を描写しているという解釈、さらには全汎的にアメリカ社会ないし現代文明のひずみに対する憂いを表現しているという解釈まで、聴き手に様々な印象を与える歌詞となっている。 (Wikiより)

あちこち「SYOWA」 95 John Lennon - Imagine HD

2017-02-12 21:58:23 | 日記
すべての結論はここにあるとAは思っています。no comment がベストですね。


John Lennon - Imagine HD


1960年代に伝説的な成功を収めたロックバンド、ザ・ビートルズを立ち上げたリーダーとして知られる。ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作し、メイン・ヴォーカルを務めた。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後1980年に活動を再開するも、同年12月8日23時頃(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性に射殺された。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第5位。同誌の「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第38位、「歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第3位。「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第55位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第5位。
ビートルズとしても、またソロシンガーとしても音楽界に多大な功績を残し、死後も絶大な影響を与え続けている。(Wikiより)

  歌詞

Imagine there's no Heaven   想像してごらん 天国なんて無いんだと
 
It's easy if you try      ほら、簡単でしょう?
 
No Hell below us         地面の下に地獄なんて無いし

Above us only sky         僕たちの上には ただ空があるだけ

Imagine all the people     さあ想像してごらん みんなが

Living for today...       ただ今を生きているって...

 

Imagine there's no countries  想像してごらん 国なんて無いんだと

It isn't hard to do       そんなに難しくないでしょう?
 
Nothing to kill or die for   殺す理由も死ぬ理由も無く

And no religion too       そして宗教も無い
 
Imagine all the people     さあ想像してごらん みんなが

Living life in peace       ただ平和に生きているって...

 

You may say I'm a dreamer    僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
 
But I'm not the only one    でも僕一人じゃないはず

I hope someday you'll join us いつかあなたもみんな仲間になって

And the world will be as one  きっと世界はひとつになるんだ

 

Imagine no possessions     想像してごらん 何も所有しないって

I wonder if you can       あなたなら出来ると思うよ

No need for greed or hunger  欲張ったり飢えることも無い
 
A brotherhood of man     人はみんな兄弟なんだって

Imagine all the people     想像してごらん みんなが
 
Sharing all the world     世界を分かち合うんだって...



You may say I'm a dreamer   僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
 
But I'm not the only one    でも僕一人じゃないはず

I hope someday you'll join us  いつかあなたもみんな仲間になって
 
And the world will live as one そして世界はきっとひとつになるんだ



     歌詞掲載ページ・多謝

あちこち「SYOWA」 94 金子みすゞの世界

2017-02-11 00:31:41 | 日記
1995年8月27日NHKスペシャルで金子みすゞの世界「こころの王国」が放送されました。主演は「おしん」の小林綾子さん。この番組が火付け役となり金子みすゞの世界が広く知れ渡るようになりました。
この番組を見て、金子みすゞについては多少知っていたもののAは初めてその世界の大きさ、広さ、深さを知りました。そして、全集を買い求めて一心不乱に読みふけりました。心が自然と洗われていくような気がしました。

西村直記の世界から、金子みすゞの世界


金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。本名、金子 テル(かねこ テル)。
大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴ったとされる。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。



こころの王国 (金子みすず)(NHKスペシャル)


出演者:小林綾子、山本耕史、渡辺康子、いとう可奈子、藤吉美加、石橋保、大林丈史、小山真季、小野田英一、高橋ひとみ、語り:松田輝雄

生涯

山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)の生まれ。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[1]をとげる。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。
1926年(大正15年)、叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺[2]、26年の短い生涯を閉じた。(Wikiより)

(参考)

近日作家松本侑子さんの『みすゞと雅輔』が刊行されます。詳しくは下記のサイトをご覧ください。

http://office-matsumoto.world.coocan.jp/index.htm(松本侑子ホームページ)

あちこち「SYOWA」 93 愛と死をみつめて/吉永小百合

2017-02-09 23:52:42 | 日記
「ぼろぼろ泣けて・・・。これは実話なんだなー」映画館を出ると、いかつい体格で気の強いNが目を腫らしてそう言いました。Aは「ああいう真正面からの刺激には人間案外強いもんだよ」と言いました。「お前泣かなかったのか」Nは聞きました。「ああ、まあ、じんときたけどね」とAは答えました。「お前案外冷たいんだな」Nは軽蔑するようにそう言いました。
実は、Aは、心の中でぼろぼろ泣いていたのでした。

愛と死をみつめて/吉永小百合


『愛と死をみつめて』は、大学生河野實(マコ、1941年8月8日 - )と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島 みち子(ミコ、1942年2月3日 - 1963年8月7日)との、3年間に及ぶ文通を書籍化したものである。
1963年(昭和38年)12月25日、大和書房より刊行された。本書は160万部を売り上げる大ヒットを記録。また、1964年年間ベストセラーの総合1位を記録した[1]。
関連本として、大島著の『若きいのちの日記』や河野著の『佐智子の播州平野』も出版された。実際に交わされた手紙等をもとにした往復書簡集ではあるが、『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いにゆきます』等の純愛小説の先駆け的存在であったといえる。ラジオドラマ・テレビドラマ・レコード・映画化された。

あらすじ

兵庫県立西脇高等学校に通うミコ(大島みち子)は、顔に軟骨肉腫ができる難病に冒されていた。阪大病院に入院した際、同じ病棟で長野県出身の浪人生マコ(河野実)と出会い、互いに18歳のタイガース・ファン同士で意気投合し、文通を始める。
その後ミコが同志社大学、マコが東京の中央大学へ進学してからも文通は途切れず、ミコの病気が再発して再入院した後も、マコは夏休みに大阪駅ホームのビール売りのアルバイトを続けてミコを励ます。夏休みが終わって、東京に戻ったマコとの文通が闘病生活の大きな支えになっていく。マコはその後もアルバイトをして長距離電話で励ましたり、旅費を工面して阪大病院を訪れるなどし、2人の愛は深まるばかり。
しかしミコは手術で顔の半分を失い、さらに病気は悪化していく。そして、マコの22歳の誕生日の前日に、自らのメモリアルデーを刻んで、この世を去って逝く。(Wikiより)

愛と死をみつめて 青山和子

当時ヒットした唄です。懐かしい。竹下景子さん、若いですね。