獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その32

2025-02-23 01:26:03 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 ■「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


「エリツィン引退」騒動で明けた2000年

1999年12月半ば、モスクワからある警告が届いた。
12月31日は、94年の大晦日にロシア軍がグロズヌィー(チェチェンの首都)制圧に失敗した「記念日」なので、チェチェン武装勢力が一斉蜂起をする可能性があるとの情報だった。
私は12月28日の御用納めの日に「チーム」メンバーに対して、大晦日から元旦にかけては何かあったら1時間以内に外務省に駆けつけられるように、それから携帯電話が常時つながるようにしていてほしいとお願いした。
結局、チェチェンでは何事も起きなかった。
しかし、それよりも大きな事件が起きるのである。
12月31日午後4時半頃、私は地下鉄赤坂見附駅すぐそばの天丼スタンド「てんや」で、瓶ビールを飲みながら海鮮かき揚げ丼を食べていた。昼食を食べずに役所で資料を整理していたが、今日は長丁場になると思い、この辺で食事をとることにしたのだ。
ロシアウオッチャーにとって、大晦日は重要だ。ロシアの官公庁は31日午前中まで仕事をしている。昼過ぎに職場でスパークリングワインを開けて、「よいお年を」と挨拶して帰路につく。大晦日から新年は友人同士が住宅や別荘に集まって徹夜で大騒ぎをする。日付がかわったところで友人に電話をする。この時に電話がかかってきた人間は特に親しい関係にあるということだ。私のところにも数十件の電話がかかってくるし、私からも十数人に電話をする。そのほとんどがロシアの大統領府・政府幹部や国会議員だ。その時必ず話題になるのが大統領の年末メッセージだ。
エリツィン大統領は毎年大晦日の午後11時台後半に国民への新年祝賀メッセージをテレビで読み上げる。ここに内外政のヒントが多く隠されている。もちろん、この放送は事前に録画されており、数時間前に国営イタルタス通信社(ソ連時代のタス通信社)からエンバーゴ付き(正式に発表がなされるまでは報道してはならないとの縛り)で配信される。
それをよく読んでおき、ロシアの政治エリートと話をすると、ロシアウオッチングの焦点を絞ることができる。モスクワより東京は時差が6時間先行しているので、事前配信がなされるのが12月31日の深夜、大統領演説は日本時間では元旦の午前6時前だった。従って、大晦日は徹夜になることが多かった。
その年は「2000年問題」で、コンピューター・トラブルが発生するとの危機感が強かったため、外務省にも特別のチームが作られ、関係者が出勤していたので、いつもの大晦日よりはにぎやかだった。
不意に携帯電話がなった。「通知不可能」と表示されているので、外国からだ。電話に出ると相手はロシア人だった。私の蜘蛛の巣はモスクワにも伸びていた。そこにある情報が引っかかったのである。
「エリツィン大統領が本日辞任して、プーチン首相が大統領代行に任命される。既に大統領の特別声明が録画されており、モスクワ時間正午に放送される」
重大情報だった。青天の霹靂である。情報源はひじょうに信頼できる人物で、確度は高い。私は東郷局長と鈴木宗男自民党総務局長に電話し、念のためモスクワの丹波實大使にも電話した。
丹波大使もこの時点では情報を得ていなかった。後で確認したところ、私の電話が大使館にとっての第一報になったということだった。しかし、この種の情報は、いくら信頼できる情報源からのものであるにしても話だけで確定することはできない。この情報が真実ならば、まず国営イタルタス通信が伝える筈である。
私はビールとかき揚げ丼を残したまま、支払を済まし、タクシーに飛び乗って分析第一課に戻った。
この当時、イタルタスのロシア語版端末が設置されているのは日本の政府機関でわが課だけだった。この年に会計当局をようやく説得し、導入したばかりだった。
私は端末の前に座り込んだ。暫くすると、画面に「モールニャ(稲光)」という表示が出た。臨時ニュースの場合、イタルタスは通常、「大至急」と表示するが、政局の大事件や大事故の場合だけ、「稲光」という表示になる。
そして、私が少し前にモスクワから得た情報が画面に現れた。私は即座に東郷氏に「タスで確認がとれました」と連絡した。東郷氏からは「官邸と外務省の連絡は僕がするので、あなたは鈴木大臣と野中(広務)先生に大至急連絡してくれ」との指示を受けた。そして、東郷氏は「僕もすぐに役所に行く。紙はいつできるか」と続けた。
私は、「エリツィン死亡の予定稿があります。プーチンについても情報はまとめてありますので、今のタスの内容を入れれば第一報は30分以内に作ることができます」と告げ、これから作ろうとしている分析ペーパーの構想を伝えた。
東郷氏からは、「それでいい。ロシア課への遠慮はいらないから、(外務省)幹部、官邸にも緊急連絡網を通じ、あなたが作った紙をただちに流せ」と命じられた。
私は東郷局長の電話の内容を分析第一課長に伝えたところ、課長からも、「了解したので、分析第一課長の決裁欄には了(了解したの意)としておいてほしい」との指示を受けた。
続いて鈴木氏、野中氏に電話をかけた。野中氏からは、「そうか、辞めたか。それで次はプーチンに決まりか」と問われたので、私は「そうなります」と答えた。
私は「チーム」メンバーの内3人に緊急招集をかけた。3人は打ち合わせ通り1時間以内に分析第一課にやってきた。
しばらくすると、分析第一課に新聞記者が続々と訪ねてきた。
私は「今はダメ。ちょっと立て込んでいる。ロシア課に行って」と対応するが、記者たちは「ロシア課はまだ誰も来ていません」と言って出て行こうとしない。
ロシア情勢に関して、表の窓口は、ロシア課であって、国際情報局は裏方にすぎない。記事にしないことを前提にバックグランドブリーフィング(背景説明)をすることはあるが、外務省として正式の発言をすることはない。
それでも粘る記者たちに、私はイタルタス通信の内容を話し、「今は大至急の書類を作っているので、30分後に対応する」と答えたが、それでも記者たちは待っている。そのうちに他の「チーム」メンバーもやってきたので、資料を渡し、外務省の緊急連絡室から関係者にファックス配信するように依頼した。
記者たちとしばらく話をしていると、別の記者が部屋に入ってきた。
「ロシア課に行ってきたんですが、東郷さんが課長席に座って、若い事務官に指示していろいろな作業をしているんですよ。何か大ロシア課長みたいです。東郷さんから『分析第一課に佐藤が来ているから、細かい話は佐藤に聞けばよい』と言われました」と言って記者の輪に加わった。
この時、私たちの「チーム」の反応が早かったので、一部に「佐藤たちは相当早くエリツィン辞任の情報を掴んでいたので、大晦日に待機していたのではないか」という情報が流された。特に東京在住のロシア人たちが盛んにそのように憶測をしていたのだが、それは違う。私が得ていた情報は、チェチェンで何かが起こるかもしれないという内容で、エリツィン辞任はまさに「青天の霹靂」だった。
しかし、緊急体制をとっていたので、速やかに対応ができたのである。東郷氏や鈴木氏、野中氏、それに小渕首相も私の「チーム」の対応をとても高く評価した。しかし、それを面白く思わない人々も外務省内にいた。

 


解説
東郷氏からは、「それでいい。ロシア課への遠慮はいらないから、(外務省)幹部、官邸にも緊急連絡網を通じ、あなたが作った紙をただちに流せ」と命じられた。(中略)
エリツィン辞任はまさに「青天の霹靂」だった。
しかし、緊急体制をとっていたので、速やかに対応ができたのである。東郷氏や鈴木氏、野中氏、それに小渕首相も私の「チーム」の対応をとても高く評価した。

ロシア課を飛び越して東郷氏と佐藤氏の連携でエリツィン辞任という重要なニュースが政権中枢に届けられたため、外務省内で東郷氏や佐藤氏に対する不満が蓄積されてきたのですね。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その31

2025-02-22 01:10:25 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 ■チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


チェチェン情勢

その頃、ロシアでは、チェチェン情勢が緊迫化していた。チェチェン東隣のダゲスタン共和国の二つの村では、イスラーム原理主義者が「独立国家」を宣言し、チェチェン武装勢力が流入しはじめた。北コーカサス全域にアルカイダと関係の深いワッハーブ過激派の影響が急速に拡大し、ロシア国家に分裂の危機が生じた。
エリツィン大統領が、プーチン連邦保安庁(FSB)長官を首相に任命したのも、インテリジェンスを知悉したプーチンならばチェチェン危機を封じ込めることができるだろうと考えたからだ。テロリストはモスクワでもマンションを爆破、数百名の死者が出た。ロシアでは1999年12月に国家院(下院)選挙も控えている。ロシア情報収集・分析に関する私の仕事は飛躍的に増えた。11月22、23日にNHK教育テレビで私が解説した番組もこのようなロシア情勢の激変を伝えることが主な目的だった。
12月上旬、私の執務机の電話が鳴った。斎木昭隆(さいきあきたか)内閣副広報官だった。斎木氏は小渕恵三氏が外務大臣だったときに大臣秘書官をつとめていたが、小渕氏は斎木氏の誠実な人柄を高く買い、総理になったときに副広報官ポストを新設し、斎木氏を官邸に招いたのだった。
「佐藤君、斎木だけど、今、総理が佐藤君と話をしたいと言っているんでつなぐよ」
私は「何事だろうか」と緊張した。
「おう、お疲れ」
小渕氏は機嫌がよいときには、人に「お疲れ、お疲れ」と声をかける。私は「悪い話ではないな」と安心した。
「日曜日にあんたのNHKのビデオを見たんだ。面白い。俺に説明するときよりもわかりやすかったぞ。それになかなかいい男に映っていた」
「ありがとうございます」
「それでロシアの情勢はどうなるか。プーチンはうまくやっているのか」
小渕氏は既にニュージーランドのオークランドで行われたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で、プーチン首相と会見したときの印象から、プーチンがエリツィンの後継者となるか否かに強い関心をもっていた。
私は、モスクワやテルアビブから得た情報を整理して伝え「全てはチェチェン問題の処理にかかっています」と答えた。
小渕氏は、「わかった。ロシアのことはあんたがきちんと見ていてくれ。ユダヤの人たちにもよく聞いてな。また電話するからな。よろしく」と言って電話を切った。

12月の国家院選挙では与党勢力が圧勝した。プーチン首相によるチェチェン武装勢力封じ込め政策は大多数の国民の支持を得たのである。
この頃、私はゴロデツキー教授と頻繁に電話で連絡をとりあい、ロシア情勢に関する意見交換を行った。ゴロデツキー氏からもたらされる情報は、日本政府が知らないものばかりだった。特にクレムリン要人や寡占資本家がどのように動いているかなど、モスクワでもなかなか得られない質の高い内容が含まれていた。
計画中のテルアビブにおける国際学会に関する話もでたが、ゴロデツキー氏の構想もいまひとつ固まっていないようだった。私は、具体的事務手続きを進めるにはまだ時期尚早だと感じた。そして、いまいちどゴロデツキー氏に日本に来てもらい、東郷氏、袴田教授、山内教授とも直接打ち合わせてもらう必要があると考えたのである。
当時、モスクワのイスラエル大使は空席で、ゴロデツキー氏が駐露大使になるとの有力情報もあったので、この機会に夫妻で日本を訪れ、親日感情を強化してもらうことが、同氏が大使になった場合の先行投資として役に立つというのが私の考えだった。外交官、特に大使は夫妻で活動することも多く、とりわけ人脈形成においては家族ぐるみの関係が大きくものを言う。
ゴロデツキー教授の奥さん、スーザンさんは生粋のイギリス人であり、もともとオックスフォード大学でE・H・カー教授の助手をつとめ、同教授の学術書の編集作業にも従事した経験があるロシア専門家だった。スーザンさんはキリスト教徒だったが、ユダヤ教に改宗し、ゴロデツキー氏と結婚。イスラエルに移住したのだった。その後、専門を考古学に変えたが、ゴロデツキー氏の研究を手伝い、ロシア情勢についても十分専門家として耐えうる知識をもつ人物だ。
にもかかわらず、後に夫人の身分を「ロシア専門家」と偽って日本に招待したと私は刑事責任を追及されることになる。

 


解説
いまいちどゴロデツキー氏に日本に来てもらい、東郷氏、袴田教授、山内教授とも直接打ち合わせてもらう必要があると考えたのである。
当時、モスクワのイスラエル大使は空席で、ゴロデツキー氏が駐露大使になるとの有力情報もあったので、この機会に夫妻で日本を訪れ、親日感情を強化してもらうことが、同氏が大使になった場合の先行投資として役に立つというのが私の考えだった。外交官、特に大使は夫妻で活動することも多く、とりわけ人脈形成においては家族ぐるみの関係が大きくものを言う。


佐藤氏がゴロデツキー夫妻を日本に招いた理由も、その意義もよく分かります。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その30

2025-02-21 01:51:06 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 ■ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


ゴロデツキー教授夫妻の訪日

1999年11月22日、午後11時頃、外務省の執務机の電話が鳴った。袴田茂樹青山学院大学教授からだった。
「佐藤さん、私たちはいま、宮崎にいます。教育テレビを見ました。ゴロデツキーさんに佐藤さんの発言を訳して説明していました」
その日、NHK教育テレビで私をメインゲストとするETV特集「混迷するロシア」が放映されたのだった。袴田氏たちは宮崎で行われた総務庁主催の北方領土問題に関する泊まりがけのシンポジウムに参加していた。
この国際シンポジウムは名目上は総務庁の主催になっているが、実際の運営は末次一郎氏が主宰する安全保障問題研究会が取り仕切っていた。その末次氏に招待されたゴロデツキー教授は再来日し、このシンポジウムに参加していた。
末次一郎氏は、旧日本軍の諜報員養成機関として知られる陸軍中野学校を卒業した元情報将校で、戦後は巣鴨プリズンに収容された戦犯の支援、青年運動団体の創設、沖縄返還運動などで活躍した社会活動家でもある。与野党政治家に広範な人脈をもち、歴代首相の相談相手も務めていた。日本人だけではなく、末次氏の高潔な人柄と、原理原則では絶対に譲らないが、利害が対立する相手とでも誠実に対話をするという姿勢に惹きつけられるロシア人も多かった。
末次氏は北方領土返還をライフワークとして活躍していたので、外務省「ロシアスクール」とは緊密に連絡を取る関係となっていた。
袴田教授は末次氏が主宰する研究会の主要メンバーのひとりだった。このときの電話で袴田氏から「ゴロデツキーさんが来年、2000年を記念してロシアの地政学的位置に関する国際学会を開くので、それに日本の学者も参加して欲しいと言っている。外務省としてもサポートしてほしい」と相談された。ゴロデツキー氏も電話口に出て、国際学会の腹案について若干説明した上で、「この問題について、あなたと東郷さんと話をしたい」と提案してきたので、私は「とてもよい話と思います。是非、話し合いましょう」と答えた。
私が学会のことをはじめて知ったのは、この袴田氏の電話によってだった。すでに秋の人事異動で、東郷氏は条約局長から北方領土交渉を直接担当する欧亜局長に異動していた。ゴロデツキー教授は東郷氏や私たちと協議するために滞在を一日延長した。 その費用は、東郷局長の“指示”に基づき支援委員会から支出した。
その後、ゴロデツキー氏と東郷氏と私の三人で、昼食をはさみ意見交換をした。ゴロデツキー氏の構想は、次のような非常に興味深いものだった。
ロシアはユーラシア国家で、西に向けた顔と東に向けた顔がある。欧米のロシア専門家は、ロシアの東に向けた顔については十分な関心をもっていない。北方領土問題についても認識が不十分である。他方、日本のロシア専門家は、アメリカのロシア研究については熟知しているが、西欧、イスラエルの研究についてはほとんど関心を払っていない。
2000年という記念の年に、欧米、日本、ロシア、イスラエルの政策に影響を与える学者がテルアビブに集い、ロシアの行方と国際秩序について議論することは、それぞれの国の専門家にとって有益であり、特に日本政府にとっては北方領土問題に対する理解を各国専門家に対して求めるよい機会である。東郷氏も私もゴロデッキー教授の構想に全面的に賛成した。

袴田教授もこのテルアビブにおける国際学会の実現にとても熱心で、末次代表と下斗米伸夫法政大学教授、更にアジア太平洋地域情勢に詳しい田中明彦東京大学教授を是非学会に参加させたいと私に働きかけてきた。
その後、私は、山内昌之東京大学教授と面会し、国際学会について話をした。山内教授は、ロシアのイスラーム問題の権威で、ロシア、中央アジア、中東情勢のみならず、日本の外交全般に通暁し、外務省が深く関与する月刊誌『外交フォーラム』の編集委員だった。また、田中氏、袴田氏とともに外務省総合外交政策局長が主宰する勉強会のメンバーで、ゴロデツキー教授が言うところの「政策に影響を与える学者」であることは間違いなかった。
前述した3月の訪日時に二人は会食したのだが、その際の議論も噛み合っていた。山内教授からは「せっかくの機会であるので、日本の指導的中東専門の学者で、しかもロシアとの関係についても研究している人を連れて行きたい」という申し出があり、私は「それはとてもよいことと思います」と答えた。
私は東郷局長に袴田氏と山内氏の要望を伝えた。
東郷氏は「それは実現したらよいと思う。それから僕もこの学会には参加したい」と大いに乗り気だった。
「この機会に外務省の若手専門家たちが一流の国際学会の雰囲気に触れ、ロシアに関する深い知識を身につけ、人脈を作ることは、外務省の情報収集・分析能力強化に貢献します」と私が提案すると、東郷氏は次のように述べてそれに同意した。
「とても良い機会なので、是非若い人たちを鍛えてやって欲しい。僕がモスクワ在勤中、若い人をメモ取りに連れて行っても、日露関係ならばきちんとした記録を作ることができるけれど、内政だと全くメモがとれない。これはロシア語力の問題ではなく、サブ能力(外務省用語でサブスタンスの略。政治、経済、安全保障などに関する専門的知識)が弱くなっているからだ。あなたのチームにはこの面での能力強化を望んでいる」
私が「カネはどこから出しますか」と尋ねると、東郷局長は「支援委員会から出せばいい。倉井(高志ロシア支援室長)には僕から言っておく」と答えた。この時点では私も東郷氏も、学会派遣費用を支援委員会から手当したことで刑事責任を追及されるとは夢にも思っていなかった。

 


解説
私が「カネはどこから出しますか」と尋ねると、東郷局長は「支援委員会から出せばいい。倉井(高志ロシア支援室長)には僕から言っておく」と答えた。この時点では私も東郷氏も、学会派遣費用を支援委員会から手当したことで刑事責任を追及されるとは夢にも思っていなかった。

ここは重要です。
テルアビブにおける国際学会の重要性は、私にも分かりました。
そこに日本の学者と佐藤氏の同僚の外務省の役人が複数派遣されることの意義も理解します。
その費用はどんどん膨らんでいきます。

しかし、それが国際機関であるロシア支援委員会から安易に手当できると東郷局長が考えたところに問題があったのかもしれません。

 

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その29

2025-02-20 01:35:15 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 □チェルノムィルジン首相更迭情報
 ■プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


プリマコフ首相の内在的ロジックとは?

1998年11月末、私は再びテルアビブ大学を訪れた。
この半年間にロシア情勢も日露関係も大きく変化していた。ロシアでは、チェルノムィルジン氏の後を若いキリエンコ首相が引き継いだが、8月にロシアのバブル経済が崩壊する。対外債務が事実上支払不能になり、銀行は取り付け騒ぎを起こし、深刻な経済危機が発生した。エリツィン大統領はキリエンコ首相を更迭し、プリマコフを首相に任命した。この頃、エリツィン大統領の健康状態も急速に悪化していた。
日露関係では、4月に訪日したエリツィン大統領に対して橋本龍太郎総理は北方領土解決に向けた大胆な新提案(「川奈提案」)を行った。エリツィン氏は橋本氏の提案に強い興味を示し、北方領土問題が解決に向けて大きく動き出すかに見えた。
しかし、その年の7月に行われた参議院選挙で自民党が大敗し、橋本首相は辞意を表明。7月30日に小渕恵三(おぶちけいぞう)内閣が成立する。11月、モスクワで小渕・エリツィン会談が行われるが、エリツィンの健康状態が悪く、政治力を発揮するにはほど遠い状況だった。さらに、プリマコフ首相の北方領土問題に対する慎重な姿勢も相まって、首脳会談では北方領土問題に関する実質的な議論はほとんど行われなかった。しかし、この時点ではエリツィン大統領も小渕首相も2000年までの平和条約締結に対する情熱は失ってはいなかった。
そのような状況の下で、平和条約締結に向けて新たな可能性を探ることが私の任務となった。私はイスラエルの情報能力、ロビイング能力を日本外交に活用することを以前よりも具体的に考えるようになっていた。そして、この考えを東郷和彦条約局長も強く支持した。

テルアビブ大学の内規では、学部長やセンター長は一期四年、連続して三期以上はとどまれないことになっている。カミングス・ロシア東欧センターでは、ゴロデツキー氏が任期満了となり、シモン・ナベー教授が所長をつとめていた。ゴロデツキー氏は、同大学のキュリエル国際関係センター長に就任していたが、同氏がイスラエルにおけるロシア専門家の首領的状況にあることに変化はなかった。しかもゴロデツキー氏はイスラエルの次期駐露大使の有力候補となっていた。
ロシア・イスラエル関係が前述したような特殊な状態にあることから、イスラエルの駐露大使はロシア社会に非常に深く食い込んでいる。また、イスラエル政府も選りすぐりの人材を政治任命で送ってきた。例えば、当時のマゲン・ツビー駐露大使は、その後、イスラエルのロシア移民問題を扱う秘密機関「ナティーフ(ヘブライ語で道を意味する)」長官になった。「ナティーフ」は、国交断絶時代にはソ連国内のユダヤ人ネットワークを維持する特殊工作に従事していたが、その人脈は現在も生きている。

プリマコフ首相は、ロシアでは守旧派の代表格で、東洋学研究所でアラビア語を学んだ中東専門家だった。「プラウダ」(旧ソ連共産党中央委員会機関紙)カイロ特派員をつとめ、あのイラクの独裁者サダム・フセイン大統領とも親交があった親アラブ派として知られる人物だが、彼はユダヤ人なのである。」
ここで、「ユダヤ人の血統」について少し説明させていただきたい。
ユダヤ人は母系を原則とする。すなわち、母親がユダヤ人ならば、その子は無条件にユダヤ人なのである。従って、苗字だけでは、ユダヤ人か否かがわからない場合が多い。
あるとき東郷氏にイスラエル政府関係者が冗談半分にこう切り出した。
「東郷さんは、イスラエルの帰還法に基づいて、イスラエル国籍をとることができますよ」
東郷氏はきょとんとしている。
「東郷さんのおじいさん東郷茂徳外務大臣の奥様、エディさんは、種々の文献によるとユダヤ系だと記されています」
確かに当時の関係書を繙くとエディ夫人がユダヤ人なので、東郷外相はナチス・ドイツに批判的だという見方がドイツにあったとの記述はいくつもある。
「東郷外相とエディさんの間にはお嬢さんしかおられませんでしたよね。そのお嬢さんの息子さんが東郷さんですよね。ですから東郷さんはイスラエルの帰還法に基づけば、無条件に国籍を付与されるカテゴリーに属するのです」
この話は東郷氏に強い感銘を与えた。その後、二人で飲んだときに東郷氏は何度もこの話を持ち出して、「僕にはいろいろな血が流れているが、ユダヤ人であるとの意識はもっていなかった。民族は実に面白いね」と語っていたのが印象的だった。
プリマコフ首相の場合も母親がユダヤ人だった。だが、プリマコフ氏は少年時代に叔父で医者のキルジブラット氏に預けられ、叔父の姓を名乗っていた時期がある。ソ連時代でキャリア街道を進むためには誰もがユダヤ的出自を隠した。そして、ユダヤ人であるということは人格形成に少なからぬ影響を与える。こうした点が日本人にはわかりにくいところなのだが、イスラエル人はプリマコフ氏の内在的ロジックを的確に捉えることができるのである。
プリマコフ首相に関するゴロデツキー教授の評価は興味深かった。
「プリマコフはあの国に忠誠を誓っている。その国の名前がソビエト社会主義共和国連邦であるか、ロシア連邦であるかは本質的問題ではない。あの国の愛国者なのだ。優れた学識をもっているので、北方領土問題についても日本側の主張に根拠があることは理解するだろう。しかし、ロシアの国内事情から領土問題の解決は難しいと考えているのだと思う。
他方、エリツィン大統領は歴史に名前を残したいと考えている。この意味で、北方領土問題にケリをつけて、アジア太平洋地域の新秩序形成においてロシアが主要プレーヤーになるというシナリオはエリツィンの琴線に触れている。エリツィンが決断する可能性が完全に排除されているとは言えないだろう。そして、大統領が決定すれば、プリマコフはそれに従う」
ここまでは私の考えているエリツィン観、プリマコフ像と合致した。プリマコフ氏について私にはなかった視点の話をゴロデツキー教授は続ける。
「ユダヤ人であるがゆえに逆に反ユダヤ的言動をとるユダヤ人というのは珍しくない。プリマコフもその一人だ。しかし、プリマコフにもユダヤ人の魂がある。イスラエルとソ連が外交関係を断絶している時代にプリマコフはイスラエルとの関係の悪化を防ごうと動いた有力な人物だった」
ナベー教授がそれに付け加えた。
「プリマコフは狡猾なタフネゴシエーターだが、人間的品性は悪くない。また、大統領には絶対的忠誠を誓うので、エリツィンが本気で決断をすれば、プリマコフはその決断を忠実に遂行するだろう。なぜなら、プリマコフにとっては、共産党書記長であれ大統領であれ、国家の長と国家は同一だからだ」

因みにナベー教授は、ソ連崩壊後、モスクワ国立国際関係大学で、交換教授第一号として、ヘブライ語を教えた。国際関係大学は、未来の外交官、諜報機関員を養成する特殊な大学で、ソ連時代は西側陣営に対しては閉ざされていた。そこで当時、准将だったナベー氏はロシアの学者や軍人とのユニークな人脈を作り上げた。
私は、ゴロデッキー教授、ナベー教授に訪日してもらい、彼らのロシアに対する深い学識を日本の外交官、政治家、学者に伝え、また彼らが北方領土問題に対する理解を深めることができないかと考えるようになった。
そこで、外交用語で言うところの「ノンコミッタルベース」(「約束はできないが」程度の意味)で、両教授に訪日を打診した。もちろん、全く見通しがなかった訳ではなく、それ以前に「ロシアスクール」の親分格である東郷氏に「イスラエルに優れたロシア専門家がいるので日本に呼びたいと思う」ということを相談し、賛同を得ていた。
99年3月、両教授は訪日し、外務省関係者のみならず、鈴木宗男内閣官房副長官、末次一郎安全保障問題研究会代表らと意見交換を行った。ゴロデツキー教授、ナベー教授の北方領土問題に対する理解は深まり、また、日本側関係者もイスラエルのロシア情報の重要性を理解した。
ただし、この準備過程において外務省内部でちょっとしたいざこざがあり、それに鈴木宗男氏が関与した。東京地検特捜部はここに着目して背任罪を作り上げていくのである。

 


解説
私は、ゴロデッキー教授、ナベー教授に訪日してもらい、彼らのロシアに対する深い学識を日本の外交官、政治家、学者に伝え、また彼らが北方領土問題に対する理解を深めることができないかと考えるようになった。
(中略)
99年3月、両教授は訪日し、外務省関係者のみならず、鈴木宗男内閣官房副長官、末次一郎安全保障問題研究会代表らと意見交換を行った。ゴロデツキー教授、ナベー教授の北方領土問題に対する理解は深まり、また、日本側関係者もイスラエルのロシア情報の重要性を理解した。


イスラエルの教授から得られる情報は、ロシア外交とりわけ北方領土問題について死活的に重要だったわけです。
両教授の日本招聘は意味のあることでした。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その28

2025-02-19 01:48:16 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
 □「背任」と「偽計業務妨害」
 □ゴロデツキー教授との出会い
 ■チェルノムィルジン首相更迭情報
 □プリマコフ首相の内在的ロジックとは?
 □ゴロデツキー教授夫妻の訪日
 □チェチェン情勢
 □「エリツィン引退」騒動で明けた2000年
 □小渕総理からの質問
 □クレムリン、総理特使の涙
 □テルアビブ国際会議
 □ディーゼル事業の特殊性とは
 □困窮を極めていた北方四島の生活
 □篠田ロシア課長の奮闘
 □サハリン州高官が漏らした本音
 □複雑な連立方程式
 □国後島へ
 □第三の男、サスコベッツ第一副首相
 □エリツィン「サウナ政治」の実態
 □情報専門家としての飯野氏の実力
 □川奈会談で動き始めた日露関係
 □「地理重視型」と「政商型」
 □飯野氏への情報提供の実態
 □国後島情勢の不穏な動き
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


チェルノムィルジン首相更迭情報

ゴロデツキー教授のロシア情勢に対する見方はとても興味深かった。
当時、ロシアウオッチャーの間では、心臓病で健康状態が悪化しているエリツィン大統領よりも政権ナンバー・ツーで求心力を強めていたチェルノムィルジン首相が次期大統領になるとの見方が強かった。しかし、ゴロデツキー教授の見方は全く異なっていた。
まず、チェルノムィルジンを後継者と考えていなかった。
「チェルノムィルジンは、天然ガス屋さんで典型的なソ連の企業長だ。ロシア国家全体を見渡すアタマがない。マフィアの親分のような体質なので、ロシアの知的に良質な部分を惹きつけることができない。大統領としての資質に欠ける」と切って捨てた。
そこに同席したイスラエル政府のロシア専門家は「チェルノムィルジンも心臓病を抱えているので、健康については万全とは言えない」と付け加えた。
余談だが、2000年、私は、東京でロシアの国家院(下院)議員に転出したチェルノムィルジン氏の昼食会に出席したが、チェルノムィルジンは日本側通訳に対して「おい、おまえ俺の言うことがわかっているのか。もっと早く訳せ」と乱暴に命令していたので驚いた。
ロシアの要人で日本人通訳にこのような乱暴な態度をとった例を私はこれ以外に一件しか知らない。また部下には丁寧語を使わせるが、自分から部下には荒っぽい言葉で呼びかけるという、軍隊の司令官のような話し方をしていた。ふと私がチェルノムィルジンの左手を見ると、そこには入れ墨が入っていた。日本同様にロシアでも国会議員で入れ墨がある人は非常に珍しい――。

その頃、日本政府は1998年4月に予定されていた川奈日露首脳会談を控え、ロシア国内の政局情報収集を最優先していた。
ゴロデツキー教授の北方領土問題解決に対する見通しは悲観的だった。ただし、この見方は、その後、ゴロデツキー氏が日露関係について情報を収集し、分析するなかで変化する。当時の彼の見方について説明しておこう。
「北方領土問題は、スターリニズムの負の遺産であり、基本的に東西ドイツの分裂や東欧社会主義圏の成立と同じ第二次世界大戦の結果によりもたらされた。従って、それを解決する『機会の窓』は、89年のベルリンの壁崩壊から、91年のソ連崩壊の間に最も大きく開いていた。しかし、この機会を日本は十分に活用しなかった。
その後、ユーゴ、チェチェンなどで民族紛争が激化したので、ロシアの政治エリートは領土変更に対して抵抗感を強めた。北方領土問題が解決する可能性はまずない。その大前提の上で、もし日本が『取り引き』をしようとするならば、エリツィン大統領と直接交渉するしかない。ロシア人と領土問題を解決するにはトップ交渉しかないからだ。
領土と経済は『取り引き』できない。領土は政治、安全保障のカテゴリーに属するので、この面での『取り引き』を考えなくてはならない。ここでプリマコフ外相のファクターを忘れてはならない。エリツィンがソ連外交との断絶性を指向するのに対し、プリマコフは連続性を指向する。職業外交官は元来、保守的なのでプリマコフ側に立つ。従って、外相と職業外交官が大きな壁となるのだが、その障害を乗り越え、いかに大統領と直接交渉をするかが重要だ」
ゴロデツキー教授と知り合ったこのイスラエル出張中に、ロシアの寡占資本家(オリガルヒー)と有力な人脈をもつある人物から「寡占資本家はチェルノムィルジン更迭を進言した。エリツィン大統領も首相解任を決断した」という情報を得た。
一般論として、情報には二種類ある。第一は、種々のデータを分析、総合して得る調査情報である。第二は、事情を知っている人に「こうなっている」ことを教えてもらう生情報である。私はこれを生情報と考え、東京に報告した。
その後モスクワに渡り、チェルノムィルジン側近の二人にあたり、この情報は間違ってないとの感触をえた。この感触を得た数日後の98年3月23日、エリツィン大統領はチェルノムィルジン首相を解任した。全世界が衝撃を受けたが、主要国では日本政府だけがこの情報を事前につかんでいた。
私は、国会内で橋本龍太郎首相から呼び止められ、「よくやった。すごいな」という評価のことばを直接かけられた。
この出張を通じ、私はイスラエルのロシア情報が質量両面で、モスクワに匹敵するとの認識をもつようになった。そして、この情報を北方領土問題解決のためにどう使うかということを真剣に考えるようになったのである。

 


解説
その後モスクワに渡り、チェルノムィルジン側近の二人にあたり、この情報は間違ってないとの感触をえた。この感触を得た数日後の98年3月23日、エリツィン大統領はチェルノムィルジン首相を解任した。全世界が衝撃を受けたが、主要国では日本政府だけがこの情報を事前につかんでいた。
(中略)
この出張を通じ、私はイスラエルのロシア情報が質量両面で、モスクワに匹敵するとの認識をもつようになった。そして、この情報を北方領土問題解決のためにどう使うかということを真剣に考えるようになったのである。

なるほど、ここを読むと、イスラエルのロシア情報が、対ロシア外交、とりわけ北方領土問題の解決に死活的に重要だったことが理解できます。

 

獅子風蓮