これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。
「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡 雅弥講演(1)(August 24,2006)
読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。
■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/1994(平成6)年
■会合名/不明
「大聖人は「血脈」否定論者だった」
(つづきです)
他にもそうです。例えば「寺」。
もともとインドの言葉で「テーラ」というのは「宮殿」という意味なんです。
王様や大金持ちが住む大きな家です。
「出家」というのは字の通り、この寺から離れた人間を言うんです。
「出釈子宮(しゅっしゃくしぐう)」ですわ。
日本人は出家って坊さんのことを出家と思てるんですね。
違うんですよ。
出家とは、さっきの修行をする菩薩の事を言うんです。
日本では大きな寺に住すんでいる。
「住職」、住むのが職業ていうんです。
「出家」ていう言葉と「住職」ていう言葉は正反対なんです。
大聖人もご生涯で家は持ってないんですよ。
出家と同時に戸籍は抜かれるんです。
流浪の身になって、鎌倉では居候やったり、雨宿りしたりして暮らしたんですね。
流罪後は、身延に帰られた。
我々は身延の草庵て言うたら、身延に寺が建っていると思てるんですね。
建ってないんですよ。
秋元御書(1078頁)にはっきり書いてありますわ。
『ここに庵室を結んで、天雨をのがれ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、』と言うんですよ。
大聖人は木の皮を自分ではいで、粗末な木の皮造りの家に弘安3年まで住んでいたんです。
6~7年間です。
「袈裟」もそうですね。
日本人は、坊さんが着る服が袈裟と思てたんですね。
全部正反対。
坊さんが着ない服が袈裟なんですね。
袈裟、ゆうのは坊さんじゃなく、向こうでは一番貧しい人々(センダーラ)が着てた一枚布なんです。
ガンジーが着ている服が袈裟ですわ。
釈迦は王子の服を脱いでその人らと同じ服を着た。
だから誰も坊さんではなくて、乞食やと思ったんです。
だから例の「乞食空鉢」とゆうたんですね。
9年間『乞食や乞食や』と思て誰も供養してくれなかった。
大聖人もそうです。
『死んだ鹿の皮を衣とし』です。
大聖人が身延に入られた理由は幾つかあります。
そしてその中には、今まで、あいつが全く言えへんかった大事な理由があるんですよ。
文永11年5月17日の富木殿御書(964頁)に、
『けかち申すばかりなし、米一合も売らず、餓死しぬべし』とあるんですよ。
身延に入って来て、
『思っていた通りだ。ここの人々はみんな飢え死にしそうだ。お百姓さんは売る米一合も無い。』
身延はあの当時あの辺で一番の大飢饉地帯やったんですよ。
そこに大聖人は人を救いに行ったんです。
『結句は一人になりて日本国に流浪すべき身にて候……』有名な言葉です。
日興上人はもう折伏戦で、四十九院の熱原の方に派遣されていますから。
だから大聖人は大飢饉地帯にお一人で行かれたんですよ。
だから大聖人は、弟子達から色んな物を与えられた、お米とか、それを、飢饉の人達みんなにあげたんですよ。
だからご自身は
『春にはわらびを折りて身を養い、秋には果を拾いて命をささえつる。』と書いてある。
木の実とかで命を支えたんです。お米はみんなにあげたんです。
これをやっとね、ぼちぼち言えるようになりました。
だから大白蓮華なんか見ると、ちょこちょこと、こんなん入って来るようになりました。
いっきに変えてしまいますとね、
『なんや嘘やったんけ、私の青春返してくれ!』みたいな話になるからね。
徐々に行きますけど。4年ほど前までは向こうが最終チェック入れてましたからね。
そういうふうな人間としての大聖人の部分はできるだけ少なくするわけですよ。
人間としての大聖人ではなく、神様のような不思議な存在にして、血脈ということで自分を高めようとするのが、奴のやり方ですからね。
昭和40年から、彼はずーと長期戦略でやっていましたから。
(つづく)
【解説】
大聖人が身延に入られた理由は幾つかあります。
そしてその中には、今まで、あいつが全く言えへんかった大事な理由があるんですよ。
文永11年5月17日の富木殿御書(964頁)に、
『けかち申すばかりなし、米一合も売らず、餓死しぬべし』とあるんですよ。
身延に入って来て、
『思っていた通りだ。ここの人々はみんな飢え死にしそうだ。お百姓さんは売る米一合も無い。』
身延はあの当時あの辺で一番の大飢饉地帯やったんですよ。
そこに大聖人は人を救いに行ったんです。
友岡さんのいう「あいつ」とは日顕上人のことでしょうか。
当時は、宗門とのバトル中だったとはいえ、あまり上品な言い方ではありませんね。
友岡さんは、大聖人が身延に入られた理由の一つは、大飢饉地域だった身延の民衆を救いに行くことだったと言っています。
初耳ですね。
まるで、ボランティア活動をする友岡さん自身のようですね。
本当に大飢饉地域だった身延の民衆を救いに行くのが目的だったなら、大聖人は、それなりの資金を集めて、支援物質を運びながら入山したのではないでしょうか。
友岡さんは、自分の経験に引き寄せて御書を読まれるところがあるようです。
少し、論理の飛躍があるような気がします。
獅子風蓮