友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: SALT OF THE EARTH
「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。
2018年11月19日 投稿
友岡雅弥
壊滅的な津波被害を受けた釜石の鵜住居、そして大槌町に向かうために、花巻空港に到着した時のことです。エンブラエルの小型リージョナル機なので、数十人の乗客です。
なんだか、みたことのある人が先にいるぞ、と思ってたら、向こうでも、ちらちら、後ろの僕を見ている。
「渥美さんですよね?」
「友岡さん?」
日本災害救援ボランティアネットワーク理事長の渥美公秀さんでした。
何度か、同じ飛行機に乗り合わせたり、野田村などの被災地で、すれ違ったりしていて、直接、話はしないまでも、なんとなく、知りあいだったのです。
渥美さんは、レンタカーで野田村に行かれる途中で、僕はバスとJR在来線を乗り継いで、釜石に行くところだったので、短時間でお別れしました。
渥美さんは、阪神淡路大震災の時から、ボランティア団体を立ち上げられ、国内だけでなく、海外の災害にも、支援に奔走されています。
別の折に、少しじっくり話す機会がありました。
「ほんとうの復興は、いつなのか?」ということについて話しあってたのですが、渥美さんから、とても示唆的な話をおうかがいすることができました。
「阪神淡路大震災の、多くの被災者が語っていたのは、
中越地震、中越沖地震、東日本大震災のボランティアに行ってはじめて、自分が『復興した』という気持ちになった。
阪神淡路大震災のとき全国の人たちから受けた恩返しが、これで出来た。今までそれが正直、重荷だった」
「復興」というのは、被災したかたが、何らかの形で、他者に対して、支援ができるようになったときを言う。
この考えは、とても示唆的でした。
そして、渥美さんは、この考えを「恩返し」ではなく、「恩送り」と言ってました。
初期仏典には、「恩」という言葉に対応する原語がありません。
つまり、もともと仏教には、知恩、報恩という概念がなかった。
後の時代、中国や日本で作られた仏典、また中国で訳された仏典の訳には、それがバンバンでてきます。
あえていうと、upakāra、 prarikāraということばがそれに当たるのですが、これは「他人を助けること」です。
バラモン教では、シヴァやヴィシュヌなどの、超越的な神に祈願し、その返礼として、いけにえや財宝を捧げたのですが。
初期仏教では施(ほどこ)し、つまり貧者や困窮者に食べ物などの支援をすることだけが、唱えられていました。
これは、社会的にいうとこうなります。
最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。
悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴータマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。
その考え方は、今現在の社会で、身体的なハンディを持っていたり、経済的なハンディを持っていたりすることを、過去の因によるとして、固定してしまうからです。
でも、この考え方は、ごく一面、浅い意味ですが、いい部分もあります。
なぜならば、来世に悪いところに生まれないために、今、悪いことをしないでおこう、というように、犯罪の予防、社会の安定につながるからです。
でも、それは、いつも自分の所業を監視する、自己監視型の、ミシェル・フーコーのいうような社会を作ってしまうことは目に見えています。
事実、江戸時代中期、京都石清水正法寺の大我は、徳川幕府体制の御用僧侶だったのですが、このような言葉を残しています。
「一たび仏法を聞きて因果を信ずる者は、深淵に臨みて薄氷を踏むがごとく、戦戦兢兢(=戦々恐々)として敢えて心を放(ほしいまま)にせず。……万民(悪業の)来報を恐れて、君を戴くこと日月の如くす」(三彝〈い〉訓)
仏法の因果論を聴いた人たちは、悪業を犯さないように犯さないように、びくびく生きて、徳川幕府様を日月のように尊敬する、というのです。
結局、このように「因果」への恐怖から作られる社会は、安定しているように見えて、監視型社会なわけです。
他人から強制されるのでもなく、また因果を恐れるのでもなく、自らを律して行く、そして、それを社会に及ぼして行く。
まさに、そのために「困っている人を支えること」「まず与えること」を、初期仏教は唱えた訳です。
輪廻・業思想を排除した仏教は、倫理的な個の自立を考えたわけです。
それで、バラモン的な超越的存在への供養ではなく、他者への贈与。
それによって、個人も、社会も混乱を静めることができると考えた訳です。
自立(自律)した人たちが支え合う社会――これは、社会の根本に「恐れ」ではなく、「信頼」が醸成されていくでしょう。
まさに「恩送り」の考え方は、それです。
企業の「社会的責任」の文脈で使われる「ペイフォワード」も同様の意味でしょう。
「ペイフォワード」の反対語は「ペイバック」です。
恩返しが「ペイバック」ではなく、「恩送り」が、「ペイフォワード」に当たるでしょう。
あるアメリカのIT企業の社長が来日して驚いたのは、重い荷物をもって困っている人に「お手伝いしましょうか?」と言ったら、断られた。何か別の目的があるのではないか、と思われたようなのです。
アメリカでは、子どものころから普通にボランティアをするので、世の中には、普通に困っている人がいて、そして「上から」ではなく、同じ立場で、お互いさまだからと支えることを、子どものころから、体で覚えている。
そして、大人になって、なんらかの社会的成功を得たならば、それを困っている人に、普通の行為として、ペイフォワードする。
こういうことが、 自然に身に付いている人が多い。
――というのです。
ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目ざした社会のために、少しでも、恩送りができたらなぁと、思っています。
【解説】
最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。
悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴータマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。
ここは、私のこれまでの仏教理解と異なるので、違和感があります。
今後、勉強していきたいと思います。
ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目ざした社会のために、少しでも、恩送りができたらなぁと、思っています。
ここは私も賛成します。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮