獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その38)

2024-07-18 01:05:52 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

(つづきです)

雑司ヶ谷の家の周りにはまだ畑が残っている。湛山には落ち着く場所であった。だが、難点もあった。それは、湛山が会社に通うのに遠すぎるということだった。
20分かけて家から護国寺の脇まで歩く。それから音羽通りを一丁目から九丁目まで抜けて、さらに江戸川、山吹町を経て会社に着くには1時間近くかかった。
「それよりも困るのは、近所にお医者さんがいないことなんですよ。日用品を売っている店もなく、音羽まで買い出しに行くくらいですから」
二人ともこの家と周囲の自然環境は気に入ってはいたが、そうした不便さも気になった。 梅子がたまたま三浦夫人に、愚痴ということではなくそんな話をすると、三浦夫妻は自分たちのことのように心配した。
「湛一君が病気にでもなったらどうするのよ。もっと賑やかな、会社に近いところにお移りなさい」
三浦夫妻は、言うだけでなく、新しい借家まで探してくれた。
「ここなら、家にも近いので行き来するにも便利だし、何かあった時にも安心よ」
今度の家は、戸塚町諏訪中通りにあった。実際に三浦家とも目と鼻の先だった。
「部屋は八畳二間に、六畳と四畳半。二畳の女中部屋もあって、家賃は前の雑司ヶ谷より安いんだよ」
湛山は、三浦から紹介された家を見てきて、梅子にそう報告した。
「内科の医者が近所にあるし、店も近くにあるから便利だ」
だが、ここにも長く住めなかった。
梅子に微熱が続き、診察の結果「静養の必要あり」とされた。三浦夫妻が知人の紹介でいつも避暑に出かけるという伊豆の船原温泉で静養することになった梅子に湛一も同行した。
そのために湛山は、三浦家に家財道具を預かってもらって、自分自身も三浦家に寄食を決め込んだ。1ヶ月半の静養で梅子は健康を取り戻した。
次に見つけた家は、小石川の高田豊川町だった。
湛山は離れ座敷を書斎にして使った。
梅子に『思い出の記』という文章がある。その中で梅子は引っ越しの後の湛山について、
〈湛山はいつでも、その家の一ばんよい部屋を真先に自分の書斎に決めた。そして書斎は神聖なところだといい、子供たちも、女中もはいることを厳禁した。書斎だけは自分で掃除した。書棚の本を取り出して、はたきをかけるなどすべて自分でやり、書斎にかんするかぎり、私が手をふれるのも禁じた。この時も、風雅な座敷に、大きなデスク、書棚、安楽椅子など一ぱい入れて、よく勉強したようである。また湛山は、引越しのときは、自分の書斎の整理がすむと、必ず外出した。散歩か、古本屋にでもいったのであろう。私どもが、引越荷物の整理をあらかた片づけたころ帰宅するのが常であった〉
などと書いている。長女の歌子は大正5年(1916)1月、この家で生まれた。

しかし、湛山一家の引っ越しはこの後も続く。近くの古綿工場の細かい埃が気になって、今度は早稲田大学のグラウンドの岡の上に引っ越し、そこで大正7年(1918)3月、次男の和彦が誕生する。翌年、この3人の子供たちの療養の意味もあって、鎌倉海岸に移ることになる。湛山だけが東京に残った。その後また長谷の観音近くに家を借りることになった時、それなら鎌倉に永住をしよう、と決めて大正11年(1922)、旧御用邸の隣で、現在の御成小学校の南側にあたる場所(鎌倉市大町蔵屋敷)に地所を借りて、そこに二階建ての家を建てた。すべて板の間の洋館で、トイレも当時では珍しい洋式で水洗であった。これが、湛山にとって貸家でなく、初めての自宅になった。
9歳になっていた湛一も珍しい洋館を喜んだ。

(つづく)


解説
しかし、湛山一家の引っ越しはこの後も続く。(中略)
翌年、この3人の子供たちの療養の意味もあって、鎌倉海岸に移ることになる。湛山だけが東京に残った。その後また長谷の観音近くに家を借りることになった時、それなら鎌倉に永住をしよう、と決めて大正11年(1922)、旧御用邸の隣で、現在の御成小学校の南側にあたる場所(鎌倉市大町蔵屋敷)に地所を借りて、そこに二階建ての家を建てた。すべて板の間の洋館で、トイレも当時では珍しい洋式で水洗であった。これが、湛山にとって貸家でなく、初めての自宅になった。


湛山は引っ越しマニアだったのでしょうか。
でも、鎌倉に落ち着いたようですね。

 

獅子風蓮