獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その29)

2024-07-05 01:46:23 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第4章 東洋経済新報

(つづきです)

湛山は、自分が入社した東洋経済新報社にまさか、あの有名な社会主義者の片山潜がいるとは考えもしなかった。田中も三浦も、そんなことは教えてくれなかった。
片山椿は、この時51歳。 湛山よりも24歳年長だった。
「片山さんというのは、明治30年代の労働運動、社会主義運動の先駆けの時期に華々しく活躍した人ですよね」
「そうだ。日露戦争時にも非戦論を展開した。あの大逆事件の幸徳秋水らと一緒にね。日露戦争が勃発した年だったな、オランダのアムステルダムで開かれた社会主義インターナショナル大会に、日本代表として出席して、ロシアの代表だったプレハーノフと固い握手をしたことで世界をあっと言わせた」
明治41年に成立した桂太郎内閣は、社会主義運動に対する取締りの強化を図った。湛山が、連隊で誤解され厚遇された背景も桂内閣にあった。
「社会主義運動も幸徳秋水らの直接行動派と、片山さんの議会政治派とに分裂したんだよ。しかも片山さんらの派は少数派でねえ、生活のうえでも主義主張のうえでも彼は窮地に立ってしまったんだ」
「それでですか?」
「そう。彼の窮状を見るに見かねて新報に入社させたのが、主幹の植松さんなのだよ」
「仲間なんですか?」
「いや、仲間ではない。年はかなり離れているが二人は親友なんだよ。片山さんがアメリカ留学から帰った頃から親交を結んでいる。だからといって植松さんが社会主義者だということではない。人間として共鳴したんだろうな」
湛山は入社していきなり片山のような有名人と出会えてびっくりしたが、その後片山との付き合いが深まるほど、その人間性の素晴らしさに脱帽した。
島村抱月訳のイプセン『人形の家』が芸術座で上演されると、湛山は片山と連れ立って観劇に行ったこともある。片山は、その劇評を書いたりした。
片山は、評論でも人生でも湛山よりは遥かに先輩であったが、少しも偉ぶらない。それどころか、自分の書いた原稿を湛山に見せて、手を入れてもらうと、
「ありがとう。とても良くなったよ」
などと言うのであった。
後に湛山は、『東洋経済新報』時代の片山を評して〈片山氏は後にソ連におもむき、その最期にはソ連から国葬の礼を受けた。しかし、東洋経済新報社における氏は、率直にいって、そんな人物ではなかった〉、〈われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことはなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった〉、〈神田三崎町の氏の住宅はキングスレー館と称し、夫人に幼稚園を経営させていた。けだし当時の片山氏の思想はキリスト教社会主義に属していたものと思われる〉などと、記している。
「彼はね、この社内では絶対に社会主義の宣伝だの、組織活動などはやらない。約束したわけではないが、彼はそういう人物だ。しかし、僕は社外での活動については了解している」
しばらく経ってから植松主幹は、鋭い論調で活躍するようになった湛山に語った。
「あの大逆事件の後、彼らの活動に対する政府の弾圧や、社会の迫害は厳しいものがあったんだ。そんななかで彼は社会主義の火を絶やさないように、細々と活動を続ける覚悟を決めていたんだ。しかも、こういう情勢下でやっていける運動といったら、合法的なものでなければいけない。だから、片山さんは普通選挙獲得運動に方針を転換したんだ」
普通選挙獲得は、『東洋経済新報」としても社論としていたから、この点では片山の考えが支持できた。
片山潜は、湛山が東洋経済新報に入社した1年後の明治45年(1922)1月、東京市電争議を扇動した容疑で検挙された。明治天皇大葬の終わった9月下旬に刑期を終えて出獄したが、投獄されている最中に、親友であり庇護者であった植松考昭が37歳の若さで死去してしまった。失意の片山は東洋経済新報社には戻れたものの、片山の執筆に対して官憲の監視が厳しくなったこともあって、仕事は激減した。
もちろん、社会主義運動も制限される。大正3年(1914)の春、単身渡米を決意して会社を辞めた。主幹になっていた三浦や、社の中枢になっていた湛山もその渡米には尽力した。この年の11月、渡米した片山は、その後ソ連に渡り、昭和8年(1933)11月にモスクワで死去するまで、二度と日本の土を踏むことはなかった。
湛山は片山の訃報を知って早速『東洋経済新報』の11月18日号と25日号に「片山潜氏の思ひ出」を執筆して哀悼の意を表している。
〈私は、氏の其の南米視察中に書面を貰ったことがある。この書面は、相当長いものであつたにも拘らず、其の中には(私の所に寄来してゐた氏の総ての書面がさうであった如く)社会主義の社の字も、ソビエットのソの字も書いてゐない。然らば何が書いてあったかと云ふに、徹頭徹尾、日本の南米に於ける発展のまるで閑却せられ、それに反して米国の勢力の到る所に延びつゝあるを憤慨したものであつた。若し今日でも片山さんと云ふ署名を隠して、之を人に示すことが出来たら、恐らくその人は、何と云ふカンカンの帝国主義者が居るものかと驚いたであらう。私はこの書面に現れた片山氏こそ、実は片山氏の真骨頂ではなかつたか〉

(つづく)


解説

社会主義者、片山潜の人となりがわかる貴重な史料です。

 

獅子風蓮