友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: SALT OF THE EARTH
「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。
2019年1月28日 投稿
友岡雅弥
篠田鉱造さん(1871-1965)は、新聞記者として幕末から明治にかけての多くの聴き取りをして、記事にしたかたです。
篠田翁が記者をしたのは報知新聞です。報知新聞は、今では、読売新聞の傘下にあるスポーツ紙ですが、明治以来、戦前までは、政治・社会情勢をもっぱらあつかう新聞として、トップを走っていました。
篠田さんの記事は、「新聞記事」という範疇を超えて、『幕末百話』『明治百話』などの著作となり、今、その激動の時代の第一級資料として貴重なものとなりました。
今では、その後つづく、農村、引き揚げ、ハンセン病、在日外国人、戦争体験などの「聴き取り調査」の「原点」として、高く評価されています。
手製のミニコミをつくって、谷中・根岸・千駄木という地域に生きる人たちの生活を発信し、「谷根千」という言葉を産み出し、そして、そこが東京下町の、落ち着いた風情を残す場所として全国的な人気となる。そんなコミュニティ・ワークをされた森まゆみさんも、篠田翁の文体を「文章が音となって立ち上がってくる」(『明治百話』解説)と高く評価しており、自らも、戦前・戦中・戦後の東北地方の膨大なフィールドワーク・聴き取りをされた横浜国立大学の大門正克さんも、著作『語る歴史、聞く歴史』のなかで、「聴き取り」の原点として、多くのページを、篠田鉱造さんに割いています。
篠田翁の卓越性は、ただひとえに、従来の歴史では記録として残らなかった庶民の言葉を記録した。
そして、従来の記録には残されなかった「時代の雰囲気」が記録された。
この2点につきます。
石川島の人足寄場に、後に主たる貿易輸出品ともなる陶器の絵付けを、囚人に教えた職人のかたり、首切り役人からみた、政治犯たちやその人たちに対する江戸の人たちの共感。
などなど、とてつもない貴重な記録の連続です。
では、なぜ、篠田鉱造翁が、このような貴重な「庶民の記録」を残せたのか?
篠田翁の父や祖父はとても教育熱心でした。息子・孫の鉱造が、全然勉強しないことに悩み、知りあいの床屋(理髪店)のあるじが、自らは読み書きができないけれど、 息子のために、貧しくはあったのですが、当時は考えられない「勉強部屋」を新築し、そこに漢籍などをおき、おかげで、息子は教員となった。「鳶が鷹を産んだ」と近所の評判であった。この床屋に住み込ませ、そしてその勉強部屋で暮らさせたら、鉱造も教師などになるだろう。
――そんな目論みでした。
この「勉強部屋」が、まさに鉱造少年が偉業を成し遂げる「拠点」となったのです。 ただし、祖父たちの目論みとは、正反対のかたちで。
その「勉強部屋」からは、髪を刈るハサミの音とともに、床屋の「おやじ」と「客」の会話が手に取るように聴こえるのです。
しかも、今の「居酒屋談義」みたいな、酒飲みのおっさんたちが、テレビの討論番組の受け売りをして、ヘイト談義をするのではありません。
この前まで江戸時代で、引っ越しの自由も制限されていた。つまり、完全な顔なじみ。だから、単なる「話題」で済む訳はないのです。生活から性格まで、分かっている訳ですから。
それで、「無学な庶民」かもしれませんが、「お天道さまに誓っての責任ある、世間話」が語られたのです。
これによって、鉱造少年は、いろんな職種の職人さんたちや、世間の動向、それが庶民の暮らしにどのような光と影をもたらすかを、毎日、毎日、聴いていったのです。
抽象的な議論は、もうええような気がします。
具体的な生活に根ざした、生活者としての経験と責任に裏打ちした会話は、一人一人をどれだけ賢くするか。
そのことが、居酒屋談義みたいなものがテレビやネットやSNSで垂れ流されている今、とても、大事な気がします。
【解説】
抽象的な議論は、もうええような気がします。
具体的な生活に根ざした、生活者としての経験と責任に裏打ちした会話は、一人一人をどれだけ賢くするか。
そのことが、居酒屋談義みたいなものがテレビやネットやSNSで垂れ流されている今、とても、大事な気がします。
同感です。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮