獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その87)

2024-10-23 01:22:44 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

岸は退陣して、池田勇人が内閣を組織した。
「岸さんは、言論の自由こそ民主政治の要であることを忘れた。デモは、岸さんがその言論の自由を無視したから起きたのだよ」
湛山は、石田に語った。
「石田君、君なら分かるだろう?」
湛山も石田も、言論の自由を求めて戦ってきた仲間であった。
「先生の潔い退陣に比して、岸さんの政権に執着する醜さが、あまりにも対照的すぎますな。党内でもみんな囁いています」
「石田君、それもこれも運命だよ。僕は、一生を『ビー・ジェントルマン』で生きてきた。これからもそのつもりだよ」

8月、中国は政府間協定貿易、民間貿易、個別的配慮取引の「貿易三原則」を日本側に提示した。これによって、断絶していた日中貿易が再開された。
3年後の昭和38年(1963)9月、湛山は要請を受けて「北京・上海日本工業展覧会」総裁に就任した。この立場で湛山は二回目の訪中を実現した。
湛山は、人民大会堂で周恩来らと懇談し、続いて毛沢東主席、劉国家主席、朱徳全国人民代表大会常務委員長と個々に接見した。国慶節のパレードは、中国のこうした最高幹部とともに見学したのである。
「中国側は、石橋先生を最高の待遇でもてなしてくれた」
新聞を読んで、石田は仲間とともに、湛山の中国での活躍ぶりを喜んだ。こうした湛山の中国との国交回復の努力が実を結ぶのに、これからまだ十年の歳月を必要とする。

昭和42年(1967)『東洋経済新報』2月11日号の「時言」に湛山は「政治家にのぞむ」と題して、政治家のあり方について書いた。

〈私が、いまの政治家諸君をみていていちばん痛感するのは、「自分」が欠けているという点である。「自分」とはみずからの信念だ。自分の信ずるところに従って行動するというだいじな点を忘れ、まるで他人の道具になりさがってしまっている人が多い。政治の堕落といわれるものの大部分は、これに起因すると思う。
政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ。金を集めることがじょうずで、また大ぜいの子分をかかえているというだけで、有力な政治家となっている人が多いが、これはほんとうの政治家とはいえない。
政治家が自己の信念を持たなくなった理由はいろいろあろうが、要するに、選挙に勝つためとか、よい地位を得るとか、あまりに目先のことばかりに気をとられすぎているからではないだろうか。派閥のためにのみ働き、自分の親分のいうことには盲従するというように、いまの人たちはあまりに弱すぎる〉
〈政治家にだいじなことは、まず自分に忠実であること、自分をいつわらないことである。また、いやしくも、政治家になったからには、自分の利益とか、選挙区の世話よりも、まず、国家・国民の利益を念頭において考え、行動してほしい。国民も、言論機関も、このような政治家を育て上げることに、もっと強い関心をよせてほしい〉

この湛山の論旨は、時空を超えて政治家の本来の姿を捉えており、それに伴う国民や言論機関の役割を明確に指摘している。

(つづく)


解説

政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ。金を集めることがじょうずで、また大ぜいの子分をかかえているというだけで、有力な政治家となっている人が多いが、これはほんとうの政治家とはいえない。

令和の時代の自民党裏金議員たちに聞かせたい言葉です。


獅子風蓮