まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

キャラクターとしての現在を超える/「ゼロ年代の想像力」を読む(1)

2017-02-10 04:11:18 | 書評
そして東(浩紀)のキャラクターという概念をめぐる理解は、九〇年代後半的な自意識のあり方と符号している。「~する/~した」という行為=社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己像の設定=キャラクターの承認によってアイデンティティを獲得するという回路が、九〇年代の社会状況の産物であることは既に述べた通りである。
そしてゼロ年代の現在において露呈しているのは、誰もが自己像に抱いている設定(自己愛)=キャラクターを承認してくれる共同性(決断主義的に選択される「小さな物語」)を求めた結果、メタレベルで複数の小さな物語が乱立する動員ゲーム的状況なのだ。
人々は主観的にはデータベースから欲望する情報を読み込んでいるだけかもしれない。しかし、メタレベルでは各々が結果的に選択した小さな物語の共同性に絡め取られており、小さな物語同士の間でも、小さな物語の共同性の内部でもコミュニケーションは発生しているのだ。東(浩紀)の一連の議論は、このコミュニケーションに対する視線がほぼ欠如している。
「~する/~した」という関係性(コミュニケーション)ではなく、「~である/~ではない」という設定(データベース)でアイデンティティを確保しようとする思想は、必然的にその設定を承認してくれる共同性(物語)を要求する。そして小さな物語への無自覚な依存は,極めて排他的なコミュニティと結びつきやすいことは既に述べた通りである。「大きな物語」の支える空間を失った今、どう「小さな物語」たちを生きていくのか、複数の「小さな物語」たちをどう生きるのか、それが、私たちに与えられた課題ではないだろうか。データベースからコミュニケーションへ。それが本書の最大の問題設定である。

 第二章データベースの生む排除型社会 3.データベースからコミュニケーションへ P57~58 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫 2011)*拙文【俳句のサバイバリズム】の参考資料

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