子規の忌の俳句はハイク否HYKE 糸瓜忌の細々とある人の声 呆けてなほ句を詠むしろさ獺祭忌 片言でしききと呟く雲流れ 子規の忌の安保法案押し通す 巻頭言書き了へ明日は獺祭忌 秋桜子誓子も遠し獺祭忌 ゴキブリの走りに走る子規忌の日 子規の忌は季語であるはずもなく走る 子規の忌や簡易宿泊所の死のかたち 糸瓜忌や安保は必ず負けるもの
故郷の高齢少子化秋彼岸 マツコ・デラックスは四十三歳秋彼岸 2015年まさかの安保秋彼岸 20世紀に終ったことも秋彼岸 ヒトゲノムしかと受け継ぎ秋彼岸 夫死後の母ひかり持つ秋彼岸 人生八十年もう当たり前秋彼岸 俳句無き世を遠望す秋彼岸 電柱にいのちを託し秋彼岸(鬼怒川の氾濫) 国会前で何耕せる秋彼岸 あいりん地区の愛隣と書く秋彼岸 エンパイア・ステートビル新宿に秋彼岸
巻頭言清書す後の彼岸まで まほろば ※昨日から気温が20度近くまで下がり、一気に秋が深まって来た。ちょうど8月後半と9月前半が入れ替わったかたちになった。おかげで8月に壊れかけた体調が9月の入って戻り、自然に夏から秋に移行出来た。世間では安保法案をめぐって大騒ぎしているが、こちらはそれどころではない。一に健康、二に健康である。本業の障害物になっていた同人誌の【巻頭言】の清書が終り、これから投函しておきたい。連休中に配達されればよいが。編集中の代表から心配するメールが来ていたので、早速報告のメールを返しておく。この雑誌は代表をはじめ俳壇の最高レベルから私のような者まで幅広い。さらに俳句だけでなく、現代川柳までカバーしているので大変に勉強になる。結社誌も関西のもので同人昇格に主宰の承認をいただいた。ブログに書いた句を推敲の上、毎月セレクトして1年半にわたって投句し続けたかいがあったというものだ。年内に開催される大会で主宰にお会いするのが楽しみである。・・・《続く》
ケツアール・コアトル金秋の雨降りしきる まほろば ※昨日16日(水曜)はまだ25度あり、どんよりした曇り空の中にもギリギリ夏の名残りを感じ取ることが出来た。しかし今日17日(木曜)になると20度をやっと超えるくらいにガタンと落ちて、もう初秋の残る暑さは失われてしまう。土曜からのシルバーウイーク(~来週水曜までの5日間)は雨は降らず、時折晴れ間が覗くものの雲の多い9月半ばの気候となりそうである。世間では連休前まで安保法案をめぐる緊迫した状況が続いている。連休は秋の空気に浸るため近隣の東京下町を巡りたいと思う。しばらく休んでいる【一人吟行】を100句を目標にやってみたいと思う。
五島の第一の錯誤は近代俳句の3要素を批判しながら、結社や季語が成り立つ為の【文化的共有感覚】を無批判に踏襲したことである。季語の詩語としての普遍性を言うなら、その【文化的共有感覚】そのものを否定すべきであった。詩語としての普遍性を持つために、季語は《季語》である必要はない。第二に、近代俳句の多様性を無視したことである。碧悟東・井泉水らの【新傾向俳句】は《自由律》《無季》として、すでに虚子の【有季定型】と鋭く対立していた。第三に、近代俳句の【有季定型】イデオロギーを支えて来た【結社制度】に替るものとして、インターネットの電磁(情報)媒体を掲げたことである。ネットを生み出す電磁信号(技術)自体が、日本民族特有の言語の定型性(=文化的原感覚)とは相容れないものであり、逆に排除・破壊するものであることへの無知である。
インターネットを成り立たせるのは、所与のものとしての電磁信号であり、やがて個有の発語の肉体性を奪ってゆく。つまり人間の個体性は不用になる。俳句においても、伝統的に《座》と呼ばれて来た発語と季感(語)の【文化的共有感覚】そのものが電磁(情報)媒体(=システム)にとって無用の長物に貶められる。そもそもインターネットとは、個々人が生み出したものではなく、米国を中心とするグローバリズムである【世界情報寡頭制】が日本国に分配し、その構成員である我々日本国民に使用義務を課した新たな社会規範である。短歌・俳句など日本語に特有の言語の《定型性》は、その起源にまで遡って脳内の言語中枢(=発語システム)のレベルで破壊されるだろう。
私たちは近代俳句における【文化的共有感覚】の内実としての《季語》《結社》に替って、分断された《個》の肉体感覚(リアル)にこそ回帰すべきである。俳句の伝統と前衛とネット文化を貫く【流れゆくもの】としての過渡的な《自我》の混在の中で、私たちが自らの【文化的共有感覚】の主体であるためには、俳句の《定型性》の薄れてゆく状況に背を向けることなく、それぞれの《個》の現在性として、その渦中に踏み止まる覚悟こそが求められている。【了】
インターネットを成り立たせるのは、所与のものとしての電磁信号であり、やがて個有の発語の肉体性を奪ってゆく。つまり人間の個体性は不用になる。俳句においても、伝統的に《座》と呼ばれて来た発語と季感(語)の【文化的共有感覚】そのものが電磁(情報)媒体(=システム)にとって無用の長物に貶められる。そもそもインターネットとは、個々人が生み出したものではなく、米国を中心とするグローバリズムである【世界情報寡頭制】が日本国に分配し、その構成員である我々日本国民に使用義務を課した新たな社会規範である。短歌・俳句など日本語に特有の言語の《定型性》は、その起源にまで遡って脳内の言語中枢(=発語システム)のレベルで破壊されるだろう。
私たちは近代俳句における【文化的共有感覚】の内実としての《季語》《結社》に替って、分断された《個》の肉体感覚(リアル)にこそ回帰すべきである。俳句の伝統と前衛とネット文化を貫く【流れゆくもの】としての過渡的な《自我》の混在の中で、私たちが自らの【文化的共有感覚】の主体であるためには、俳句の《定型性》の薄れてゆく状況に背を向けることなく、それぞれの《個》の現在性として、その渦中に踏み止まる覚悟こそが求められている。【了】