老人とはわたしのことか寝待月 ふらここは揺れてはをらず薄れゆく トランプとはお前のことだ鵙の声 モンスターのやうに儚く星の恋 秋うらら昭和のわたし膨張す 深秋のクレーンこの世を吊り上げる 虫時雨ブコウスキーを読んでみよ 踊唄神政ローマの頓挫せり 人間はもうコリゴリと種浸す 稲刈機自由は何処かにあったはず くそまみれといふバンドのその後獺祭忌 稲架(はざ)崩すキリストはまだ来ていない 原色の1/fの揺らぎ佞武多来る 秋耕の巨人の足音鳴り止まず どぶろくや俳句に若さはいらぬもの ガラケー版SEKAI NO OWARI文化の日 秋団扇ヘーゲル弁証法いまも
槐見ゆ振り上げし拳の真っ白き まほろば 1979
私の最初の俳句入門は1979年だった。1985年頃まで実質5、6年は続けたと思う。結社・同人誌、総合誌の公募欄、週刊誌の特別企画(「サンデー毎日」2頁ワイド・句句凛凛&星曜秀句館)に投句し、結社1誌には同人参加した。しかし、全て中途で投げ出し、現在では当時の作句・掲載記録は一切散逸してしまっている。何故そうなったか、がまず第一に追求すべきことであろう。第二に、何と30年近くも経った2013年10月にブログで句作を再開した。大げさだが、私の人生にとって【俳句】というものが心底必要になったためであろう。1979年に最初に入門した直後に坪内稔典氏の【現代俳句】(現在の「船団」の前身)に何号か参加している。この頃、坪内氏は『過渡の詩』という評論集を出し、俳句の現代性の根拠として【片言性】【口誦性】の二概念を提起し、さらに表現主体の【俳句】との関係の不可避性を【生活の必要】という普遍なるもので一括りにしてみせた。これらの刺激的な真新しさを、1970年代を通じて浮遊状態にあった自身の在り方、生き方の指針とすることを試みた。正確に言えば、ただ直感的に指針とすべく飛びついたのだった。この本は今でも手に入るのかどうかわからない。出来れば古書店やヤフオクなどでもう一度手に入れることが可能ならぜひ読み直してみたい。・・・《続く》
私の最初の俳句入門は1979年だった。1985年頃まで実質5、6年は続けたと思う。結社・同人誌、総合誌の公募欄、週刊誌の特別企画(「サンデー毎日」2頁ワイド・句句凛凛&星曜秀句館)に投句し、結社1誌には同人参加した。しかし、全て中途で投げ出し、現在では当時の作句・掲載記録は一切散逸してしまっている。何故そうなったか、がまず第一に追求すべきことであろう。第二に、何と30年近くも経った2013年10月にブログで句作を再開した。大げさだが、私の人生にとって【俳句】というものが心底必要になったためであろう。1979年に最初に入門した直後に坪内稔典氏の【現代俳句】(現在の「船団」の前身)に何号か参加している。この頃、坪内氏は『過渡の詩』という評論集を出し、俳句の現代性の根拠として【片言性】【口誦性】の二概念を提起し、さらに表現主体の【俳句】との関係の不可避性を【生活の必要】という普遍なるもので一括りにしてみせた。これらの刺激的な真新しさを、1970年代を通じて浮遊状態にあった自身の在り方、生き方の指針とすることを試みた。正確に言えば、ただ直感的に指針とすべく飛びついたのだった。この本は今でも手に入るのかどうかわからない。出来れば古書店やヤフオクなどでもう一度手に入れることが可能ならぜひ読み直してみたい。・・・《続く》
鉄塔に枯木の触手スーパームーン 冬紅葉やがては闇にスーパームーン スーパームーン引き込み線に冬の塔 スーパームーン紅葉の闇の崩れだす 大霜のべうべうたるやスーパームーン 猫撫で声でスーパームーンの在処問ふ
初冬のマリアの奇跡不発なり 致死量の母恋歌と神無月 泥濘を抜け出てあをし十一月 冬めくや夢二の恋の消えてゆく 神去月貞操帯は重たかろ(改) 単独者と呼ばれて久し秋の暮 ワシントン靴店いずこ冬夕焼 ハイデッカーの存在と時間桃青忌(新暦11月11日) 落葉籠平行宇宙のごとく置く もはや夢と言うまい冬の紅葉散る ビニール傘に貼り付く落葉推定無罪 冬紅葉空とは違ふ青さ持つ 落葉には落葉の流儀サルトル死す
ポエジーなくば俳句にあらず初紅葉 ギャンブル人生まだまだ続く初紅葉 オレはオレ空の彼方の初紅葉 うすうすと深山幽谷初紅葉 初紅葉改憲護憲あをし儚し 薄紅葉東京にある死者の街 紅葉且つ散る東京は闇の中 もっと生きてもっと儚く夕紅葉 桜紅葉ルージュの伝言訥々と(ユーミンの名曲) 桜紅葉いちまいの空遠ざかる