かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

鶴舞公園の近代散歩(3)~普選壇/御誓文記念壇(名古屋市昭和区)

2015-04-12 | 名古屋の近代建築

 噴水塔のすぐ南側に小さな野外ステージがあります。石張りの壁には何やら難しそうな文言が彫られた青銅版が埋め込まれていて、噴水塔や奏楽堂に通じる歴史的建造物に共通のたたずまいが感じられます。
 
 この建造物は普選壇(御誓文記念壇)と言って、大正14年普通選挙法成立時、時の総理大臣で愛知県出身の加藤高明の功績を記念して昭和3年6月に銅像とともに建設されたものです。野外劇壇(ステージ)後ろの青銅版の難しそうな文言は、普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」で、建設の趣旨とともに漢字とカタカナの文章で刻まれています。

 明治政府の基本方針となった「五箇条の御誓文」と言えば、私などは坂本竜馬の「船中八策」がすぐ頭に浮かびます。しかし実際の起案は福井藩の由利公正だそうで、「船中八策」を竜馬が書いたのは由利公正に会った後だったとのことです。どうも高校生の時にハマった司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の影響で、明治維新の陰の立役者としての坂本竜馬のイメージが強いようです。私にとって、高校生の時に読んだ司馬さんの「竜馬がゆく」は、今でも忘れられない『青春の一冊』で、「五箇条の御誓文」→「船中八策」→「坂本竜馬」まで思いが飛んでしまいました。


■普選壇全景





■「五箇条の御誓文」が刻まれた青銅版(昭和42年復元)



■普選壇裏側





◆普選壇(御誓文記念壇)/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:昭和3年(1928)
 設計:佐藤功一
 施工:沢田巳一郎
 構造:RC造石張り
 撮影015/03/21
 ※市指定文化財、景観重要建築物等


鶴舞公園の近代散歩(2)~鶴舞公園奏楽堂(名古屋市昭和区)

2015-04-08 | 名古屋の近代建築

 明治43年開催の共進会に併せて噴水塔とともに造られたのが奏楽堂で、噴水塔のすぐ東にあります。共進会の際には、正門を入ると真っ先に目に飛び込む位置に建てられていました。頂部には銅板葺きのルネサンス風ドームが載せられ、それをイオニア式柱頭のエンタシス(柱の中央部のふくらみ)のある列柱(2本1組で8組の列柱)が取り巻いています。
 
 昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和12年(1937)にドームが無いフラットな屋根の形で復旧されましたが、その後平成9年(1997)、当初の姿に復元されました。
 

◆鶴舞公園奏楽堂/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:明治43年(1910)
 設計:鈴木禎次
 構造:RC造
 撮影:2015/03/21
 ※名古屋市景観重要建築物等
 

■噴水塔とともに共進会を記念して建てられた奏楽堂





■ルネサンス風ドームの周囲にはハープの装飾をめぐらす



■アールヌーボー調の白鳥型手すりが可愛らしい



■鋳鉄製の手すりには「君が代」の冒頭部分の楽譜がデザインされ、ステージ下は半地下になっている



■イオニア式柱頭の列柱は中央部がふくらんだエンタシス





■雪の日の奏楽堂(撮影:2008/02)




■共進会会場正門



■共進会会場遠望~正門を入って正面に奏楽堂が見えます



■大正4年(1915)からは奏楽堂にイルミネーションが灯り、第三師団軍楽隊の演奏による音楽会が開かれるようになりました





鶴舞公園の近代散歩(1)~鶴舞公園噴水塔(名古屋市昭和区)

2015-04-06 | 名古屋の近代建築

名古屋市内では戦前、名古屋汎太平洋平和博覧会(港区)と関西府県連合共進会(昭和区)の二つの大きな博覧会が開催されています。今回は名古屋汎太平洋平和博覧会の跡地を訪問した後、もう一つの博覧会跡地、昭和区の鶴舞公園に向かいました。

鶴舞公園は、明治42年(1909)沼地だった場所を新堀川整備で出た大量の土砂を埋め立てて造られました。翌明治43年、名古屋開府300年を記念して行われた愛知県主催の第10回関西府県連合共進会の会場になり、主要会場のほか各県(3府28県)のパビリオンや娯楽施設も多数建設されました。博覧会の入場者は過去最多の260万人を集め、名古屋が近代都市へ発展する契機となったといわれています。

閉会後会場跡地は、名古屋で最初の都市公園として整備が続けられ、墳水塔と奏楽堂は公園の恒久的施設として残されました。大正9年(1920)にはフランス式庭園と日本庭園(設計は日比谷公園を手がけた東京大学教授、本多静六)が整備され、その後も動物園、図書館、公会堂や運動施設などが建設され、現在の鶴舞公園の姿が整いました。

今回は2か所の名古屋の近代化を担った大きな博覧会跡地を訪れました。港区の跡地は公園として残っているものの、博覧会当時の遺産が平和橋だけというのは、いかにもさびしい。対照的に鶴舞公園跡地は、閉会後すぐに名古屋市を代表する近代公園として整備されたこともあり、博覧会当時の噴水塔や奏楽堂、その後建設された公会堂などが健在なのは嬉しい限り。今回訪問時も、公園では春の日差しの下、お彼岸の休日を思い思いに過ごす大勢の市民でにぎわっていました。

鶴舞公園では、明治以来長い年月をかけて近代化を象徴する歴史的建造物が風景に溶け込み、市民と同じ時を過ごしてきました。街角の身近な近代化遺産が、人々に「安らぎを与える景観をつくりだしているんだなあ~」と、あらためた実感できた幸せな一日でした。


◆鶴舞公園噴水塔/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:明治42年(1909)
 設計:鈴木禎次
 構造:石造
 撮影:2015/03/21
 ※市指定文化財、景観重要建築物等 


■公園のシンボルともいえる噴水塔は、博覧会会場の正門前広場に造られたもので、設計は名古屋ではおなじみの鈴木禎次
(バックの建物は名古屋市公会堂)


■本格的なローマ様式の石造建築で、テラスの手摺は備前焼の陶器、池の石組は地元の木曽川から運ばれた



■コンポジット式の柱を備える本格的な古典様式の噴水塔



■小噴水盤には名古屋市の〇八マーク



■噴水塔の案内板



■噴水塔は公園のほぼ中央⑥番の位置



■雪景色の噴水塔(2008年2月)



■当時の絵はがき~噴水塔の背景には各県売店が見えます



 


大正~昭和の洋風住宅/名古屋市昭和区御器所~荒畑界隈(2)

2015-01-07 | 名古屋の近代建築

今回の覚王山~吹上~御器所~荒畑界隈洋風住宅探訪の最後は、地下鉄鶴舞線荒畑駅のある山王通の南側のエリアです。
荒畑駅から南に入る通り沿いに、ミニ洋館付住宅よりグレードの高い洋風住宅が数軒残っていました。


■建物全体が洋風意匠で統一された、かなり本格的な洋館住宅です(昭和区御器所)



■二階は下見板張りの外壁にアーチ窓が並ぶ縦長の四連窓、玄関脇の二連のアーチ窓も素敵です





■外壁に石張り風の目地を切った大小の洋館が並ぶ洋風住宅(昭和区松風町)



■大正~昭和の洋館が持つちょっと怪しげな独特の雰囲気が漂います





■窓枠のデザインがいかにも戦前昭和っぽくてツボです!



■松風町の洋館のすぐ南側にも洋風住宅が残っています(昭和区若柳町)



■スクラッチタイルの門柱がモダンで、なかなか味わい深いものがあります


昭和・瑞穂・千種・天白区のエリアには、大正~昭和にかけて開発された住宅群が今もまだ比較的多く残っていますが、年々急速に減少しています。
今回は2回目の探訪でしたが、まだまだ取りこぼした物件も多いと思われます。
これからも名古屋の戦前の住宅地の姿を留める洋風住宅が残っている間に、このブログで一軒でも多く紹介できればと思っています。


大正~昭和の洋風住宅/名古屋市昭和区御器所~荒畑界隈(1)

2014-12-30 | 名古屋の近代建築

地下鉄鶴舞線が下を通る山王通を南北に挟んだエリア、御器所駅~荒畑駅周辺には、かなり本格的な洋館が付属した住宅が残っています。
この界隈は洋館部分の規模も大きく、デザインも多様なグレードの高い住宅が健在なので、見ごたえがあるエリアです。
まずは山王通北側、東畑町・緑町エリアの一部洋館住宅を訪ねました。


■山王通荒畑東の信号を北に向かってすぐにある本格的な洋館住宅
日本家屋の前面にかなり大きな洋風の玄関と洋館が張り出し、通りに面したファサードを飾ります(東畑町)




■住宅の隣には石貼り風の大きな蔵も付属しており、この界隈でもかなり規模の大きな邸宅です
敷地内に医院の看板が設置されているところから、旧医院の診療所と本宅だったのでは?





■洋館部分は多角形のベイウインドウ(出窓)が張り出し、妻壁の幾何学模様の装飾が洋館らしさを演出



■バージボード付の三角屋根の玄関と、出窓の木製の窓枠に腰のタイルが効いています



■和風の母屋と急勾配の屋根を配した洋館部分のバランスが絶妙で、大正~昭和の中流モダン住宅の典型です(緑町)



■洋館部分にまだ当時の下見板が健在なのは嬉しい所です



■上の住宅に比べると規模が小さく庶民のモダン住宅といった風情(東畑町)



■小さいながらも二連ガラリのある洋館部分は、サッシや外壁の改修はあるものの今も大切に使われている様子

撮影:2014/11/23


大正~昭和の洋風住宅/名古屋市昭和区吹上~御器所界隈(3)

2014-12-29 | 名古屋の近代建築

環状線から東側の北山町のエリアにも戦前のモダン住宅が残っています。


■ミニ洋館付の二軒長屋





■こちらは同じ形式の四軒長屋・ミニ洋館付
現在これだけの敷地があればマンションになるところですが、当時は同じ間取りの戸建住宅(それも平屋)が建てられました。
このあたりの戦前からの古い住宅地も急速に開発が進み、マンションや駐車場になっているようです





■向かって右から2軒目が窓枠も木製のままで、当時の姿がしのばれます



■入母屋造りの日本家屋にミニ洋館部分が飛び出しています



■妻壁の換気ガラリ2連装タイプです

撮影:2014/11/23(昭和区北山町)


大正~昭和の洋風住宅/名古屋市昭和区吹上~御器所界隈(2)

2014-12-27 | 名古屋の近代建築

地下鉄桜通線の吹上駅から御器所駅間、環状線を挟んで東西に延びる北山町には比較的保存状態の良い一部洋館住宅が今も残っています。
木製の窓枠がサッシに、外壁がトタンなどに改修されている住宅もありますが、当時の面影を残しながら大切に使われている様子がうかがわれ、日本家屋にミニ洋館が付属した、大正~昭和に流行した典型的なモダン住宅の形態を見ることができます。
まずは北山町の環状線より西側エリアに残る大正~昭和の洋風住宅を紹介します。


■典型的な戦前の一部洋館住宅




■窓枠はサッシに変更されていますが、当時の外観をとどめています



■同じ形態の住宅が並ぶ「洋風二軒長屋」



■向かって右側の住宅の洋館部分は、ほぼ当時のままの外観を保っています





■洋館部分の妻壁に施された、植物をモチーフにした装飾が見どころ







■通りに面した一番目立つ位置に洋館が建っています



■この当時の洋館のお約束、妻壁の換気ガラリがワンポイント、鬼瓦の意匠も面白い

採集場所:昭和区北山町


■北山町の南隣鶴羽町の一部洋館住宅



■荒いドイツ壁にハーフティンバー風の木枠の装飾が良い味です
 
撮影:2014/11/23 


大正~昭和の洋風住宅/名古屋市昭和区吹上~御器所界隈(1)

2014-12-23 | 名古屋の近代建築

地下鉄吹上駅の南西、吹上公園の南側一帯の曙町界隈には昭和の雰囲気が残る古い商店が残っています。
曙町からさらに南側の地下鉄御器所、荒畑駅周辺は、大正~昭和にかけて開発された戦前の新市街地で、現在もその当時に建てられた一部洋館建の住宅が点在しています。


■吹上小学校南側の昭和な香りの漂うたばこ屋さん(昭和区曙町)



■西側は木造下見板張りながら、通りに面したファサードには当時流行のタイルを貼ってモダンな外観を演出





■この煙草屋さんの一角には昭和にタイムスリップしたような懐かしい風景が今も残っています


■曙町には戦前築と思われる古い商店が今も残っています



■北山本町1の交差点に残る古い和風の商店建築(昭和区北山本町)



■曙町の南側一帯には戦前からの古い住宅街が広がります
こちらのお宅は、ドイツ壁と換気ガラリが特徴的な一部洋館住宅(昭和区雪見町)

撮影:2014/11/23


大正~昭和の洋風住宅(名古屋市千種区覚王山~吹上界隈)

2014-12-20 | 名古屋の近代建築

 揚輝荘・聴松閣の見学を終え、地下鉄の覚王山駅~吹上駅~御器所駅~荒畑駅方面まで住宅街を歩きました。5年ほど前に瑞穂区桜山界隈の大正~昭和の洋風住宅めぐりを敢行したのですが、今回は千種区、昭和区を中心に戦前の洋風住宅を探索しながら町歩きを楽しみました。このエリアは大正以降住宅開発が行われた地区の一つで、全体は和風ながら玄関脇に小さな洋館や応接間を付けた文化住宅形式の住宅が今も残っています。

 まずは覚王山駅から南西へ吹上駅の東春岡通りまで、名古屋市の近代建築調査書を片手に歩いてみましたが、なにせ調査から15年近くが経過しており、多くの住宅が取り壊されて駐車場やマンションに姿を変えたり、新築に建て替えられたりしていました。それでも数は少ないながら、まだ当時の姿をとどめる洋風住宅が現在も残っていて嬉しくなりました。


■急勾配の半切妻屋根が洋館らしさを演出(千種区丸山町)



■軒の持ち送りとハーフティンバー風の妻壁が特徴のかなり本格的な洋館(千種区丸山町)



■住宅街の路地で出会った小さな昭和(千種区丸山町)



■半切妻の屋根と換気ガラリに昭和が薫る(千種区春岡)



■玄関が洋風のいわゆる文化住宅形式の三軒長屋(千種区春岡)



■玄関のバージボード(軒板飾り)は戦前の木造下見板の洋館によく見られた手法です


揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区~地階(旧舞踏場・瞑想室)

2014-12-14 | 名古屋の近代建築

地階の南側には、インド・イスラム風のインテリアで統一された旧舞踏場(現多目的ホール)があります。
祐民が仏跡巡拝旅行で感銘を受け、東南アジア・インドのイメージを形にした旧舞踏場の舞台では、当時能狂言や舞踏などが催されました。


■舞踏場に入るとすぐ左手に半円形の舞台があり、右手(西側)に多目的ホールとして使用されている空間が広がります



■柱頭部や梁には蓮華模様、柱基底部にはインドアーグラ宮殿に見られる植物模様など、舞踏場全体にインド・イスラム様式の装飾が施されています
 


■舞台の西側に広がるホール



■南側窓ガラスには、ヒマラヤ第三峰カンチェンジュンガの雪嶺のレリーフが施され、日光やライトで浮き出させる工夫が凝らされています



■北側にはバーカウンターを設けたドリンクコーナー



■西側暖炉上の女神像のレリーフは、仏跡巡拝旅行で訪れたカンボジアのアンコールトムの彫刻を模したもの


■暖炉左には算盤状の連子窓、その隣には瞑想室の入口があります



■舞踏室南西角に設けられた「瞑想室」
西側壁面にはモザイクタイルが貼られ、アーチの中心には女神の石像があります
 





※揚輝荘・聴松閣については、邸内の説明板・パンフレット・「揚輝荘の窓・第2号」などを参考にさせていただきました


揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区~地階(ホール・壁画コーナー)

2014-12-10 | 名古屋の近代建築

 聴松閣は1~2階の各部屋で、山荘風や中国風など多様な様式が楽しめますが、何と言っても見どころは地階にあるホールと旧舞踏場です。施主の伊藤祐民は昭和9年、東南アジア・インド方面に仏跡巡りの旅に出かけます。祐民はこの旅行でインド・イスラム文明に触れ、強烈な感銘を受けすっかりインドにハマってしまったのです。

 そして帰国すると早々、ちょうど工事が始まっていた聴松閣の地階を、彼のなかで強烈に焼き付いたインド・イスラムのイメージ一色に設計変更したのです。なにせ松坂屋の創業者ですから、建築費用を気にすることもなく、インド古代文明の壁画やインド・イスラム様式の紋様や装飾などで聴松閣の地下を埋め尽くしました。そして祐民の夢を形にしたユートピア、「揚輝荘・聴松閣」は名古屋覚王山の地に花開いたのでした。


■1階~地下に続く階段を下りると、そこには祐民の夢を形にしたインド・イスラム様式のユートピアが広がります



■階段の親柱も古代インド文明風



■南北に延びるホールの壁画コーナー



■ホールの壁画はインドの留学生が描いたインドアジャンタ石窟の写しで、釈迦生誕の物語が描かれています



■中央に座っているのが釈迦でしょうか?





■ホール北側突き当りには地下トンネルの南入口があります。
トンネルはT字型で総延長170m、聴松閣と要人らが寝泊まりした有芳軒を地下でつなぎ、分岐点部分には八角形ドームがありました。
現在はマンション工事で大部分が取り壊され、「聴泉窟」の銘板がある東入口がかろうじて残っています。 


■地下トンネルの入り口も古代インド様式の装飾があるアーチ型。
トンネルをつくった目的は、防空壕説や要人の隠れ家所説など諸説あるようですが、現在も定かではありません。
まるで横溝ミステリーの舞台に出てきそうな豪邸の秘密の地下トンネル。
戦前の洋館ならではのロマンが広がるエピソードで、トンネルから金田一さんが出てきそうです
 


揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区~2階(旧応接室・旧寝室・和室)

2014-12-06 | 名古屋の近代建築


■旧応接室(展示室4)~英国山荘風のインテリアで統一



■各部屋にはそれぞれデザインが異なるマントルピース(暖炉周辺の装飾)のある本格的な暖炉が設けれられ、見どころの一つになっています
旧応接室の暖炉周りはタイルと石材を貼り付け、山荘風のイメージを演出



■暖炉脇の丸窓がモダン



■旧寝室B(展示室5)~こちらは天井や壁の装飾を中国風にしています



■各部屋の床は寄木貼りですが、それぞれデザインを変えるこだわりようです



■マントルピースのデザインも中国風テイスト


■天井の木彫の装飾



■旧サンルーム(展示室6)



■旧寝室A(展示室7)



■旧寝室の奥にある和室~かなり改修されている様子です





揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区~2階(ホール・旧書斎)

2014-12-03 | 名古屋の近代建築


■階段を上がるとホールが南北に延び、書斎や応接室、寝室が配置されています







■ホールの窓枠のデザインも凝っています



■2階ホールの天井は吹き抜けで、開閉のできる折りたたみ戸により天窓からの採光が可能です



■階段を上がるとすぐ左手にある旧書斎



■旧書斎(展示室3)~書棚と照明は造り付け、天井は船底天井で、床は当時としては珍しいプラスチックタイルの市松張り





揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区~1階(旧居間・旧サンルーム・旧食堂)

2014-11-30 | 名古屋の近代建築

聴松閣の玄関受付で入館料300円を支払い、まずは1階の部屋を見学。


■玄関受付



■玄関の階段ホール



■展示室1(旧居間)~映像で揚輝荘を紹介



■展示室2(旧サンルーム)~パネルや昭和14年当時の揚輝荘を再現したジオラマが展示されています



■八角形の張り出し窓は度重なる改変のため無くなっていましたが、今回当時の姿に復原されました



■サンルームの隣にある旧食堂は喫茶室として営業中で、お昼時ということもあり大繁盛
天井や壁に張り出した荒削りの木材と、中央の大きな暖炉が山荘の雰囲気を巧みに演出しています



■階段の手すりや親柱にはチョーナの削りあとを残し、イングランドのチューダー風の味を出しています





揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区~建物外観

2014-11-26 | 名古屋の近代建築

 北園から連絡通路を通り南園にある聴松閣を訪れました。南園には洋風の聴松閣と並んで和風の揚輝荘座敷が現存していますが、現在は聴松閣だけが公開されています。

 揚輝荘は、いとう呉服店(後の松坂屋)の初代社長伊藤次郎左衛門祐民が開設した別荘なのですが、そもそも揚輝荘と言う建物は存在せず、別荘の1万坪の敷地全体を指して「揚輝荘」と呼んでいました。大正~昭和にかけての最盛期には、大小三十数棟の建物が軒を連ね、テニスコート、弓道場、温室などもあったようです。

 今回訪れた聴松閣は昭和12年、宮家や政治家など各界の要人が集まる迎賓館として建てられましたが、祐民の意向でアジアの留学生が寄宿する学生寮として国際交流の場としての役割もになっていたようです。戦後はGHQに接収され、その後松坂屋社員寮として使われ改装が繰り返されましたが、2013年の開館に合わせ創建当初の姿に復元されました。


◆揚輝荘・聴松閣/名古屋市千種区法王町2-5-17
 竣工:昭和12年(1937)
 設計:竹中工務店
 施工:竹中工務店
 構造:木造地上3階、地下1階
 撮影:2014/11/22
 ※名古屋市有形文化財





■南園入口



■戦後揚輝荘の敷地はマンションなどの開発が進み、南北に分断されました



■聴松閣全景~外観は柱を外壁に露出したハーフティンバー様式の山荘風で、上高地の帝国ホテルを参考に建設されました


■聴松閣の西隣に建つ揚輝荘座敷



■山荘風の外観ですが、外壁は隣の和館にあわせ、創建時のべんがら色に塗られています。
写真などを見ると戦後外壁が白壁だった時期もあるようで、個人的には山荘風が似合う白も捨てがたい・・・





■建物西側~隣の座敷と結ぶ通路は現在閉鎖されています



■地階の明り取り用の窓が設けられています



■ハーフティンバーの外壁と玄関の石積の柱が、山荘の雰囲気を醸し出しています



■玄関前に鎮座するのはトラでしょうか?



■玄関入口



■北園と結ぶ通路の脇に、伊藤銀行本店ビルに飾られていた「いとう丸」の商標が置かれています




次回は聴松閣内部を探訪します~