苫小牧市美術博物館でクリムトの絵を堪能してから、別室に展示してある縄文式土器などを見ました。そこには他の展覧会の予告のチラシもおいてあり、近くのコミュニティホールでの催し物の案内もありました。
夫が行って見たいという「ヒロシマ原爆資料展」。じゃ、行って見ようということで苫小牧市文化交流センターへ向かいます。
最初は原爆が投下される前の街の様子、人々の暮らしがわかる写真などが展示されていました。港があり、当時は国の要といわれるほどだったそうです。
展示を見ていくと、原爆投下の候補地として広島、小倉、長崎、新潟とありました。新潟も候補に入っていたとは初めて知りました。
また、「(米側が)原爆を使用するかどうかの予告はしないということにしたことに対して研究者からは反対の声があがったが、そのまま実行された」という表現もありました。これがよく理解できなくて、夫にどういうことかと聞いてみると、「例えば、今のプーチン大統領がウクライナに対して核を使うかもといって脅すようなことを言わないで、ってことじゃないか」と言っていましたが、この解釈でいいんでしょうかね。
原子爆弾を開発するために多額の費用がかかったので、それを国民に納得させるためにも使用する必要があった。ソ連の動きを封じるためにも必要だった…。
いろいろな政治的理由がありました。けれど、何よりそれを使用したらどうなるか。そこを無視してまで実行したんですね。・・というより、国際政治、ましてや戦争となると民間人のことなど考慮されるはずもないのでしょう。。
投下後の様子、被爆した人たちの人生もひとつひとつ展示されていました。
ある人は、その時ちょうど離れたところにいて、ご自身は被ばくを免れたものの妻子を亡くしてしまい自分も死のうかと思った、と。でも、誰が弔うのかと思いとどまったという人。
また、シャーレの中に小さなガラスの破片の展示が。そのガラスは、爆風でガラスの破片が頬に刺さったときに取り切れず残っていたものだそうです。昭和60年にやっと取り除くことができたんだとか。
昭和60年といえば、わたしは中学生でした。戦争は昔のことと思っていました。月日が流れても、ずーっとあの時の痛みを抱え続けて生きて来られた方がいらっしゃる。その断片を物として、実物として見せられると、言葉を失います。心にずんと来て何も言えなくなってしまいます。
ひとつひとつ短いエピソードがつづられており、それを見ていくだけで胸がいっぱいになってしまいました。
展示室は入って左右に長い部屋なんですが、部屋の右半分を見ただけで、わたしはもう無理でした。
一足先に展示室を出て、ロビーで地元新聞を見たりして夫が出てくるのを待っていました。
地元新聞に、戦争を体験した人たちの遺品についてのコラムがありました。
それらの品がインターネットのオークション等で流出しているそうです。筆者は、戦争を語り継ぐ品としてその地域から出さないように保護する必要がある、と述べていました。確かに、先ほどのガラス片のようにその出来事と一体化して語られなければ、何も知らない見る側の人には響かないこともあるでしょう。
人は辛い出来事を忘れることで生きていける仕組みになっていますが、社会全体として絶対に忘れてはいけないことがあります。日々それに向き合って語り継いでいる人たちには本当に頭が下がります。