敬老の日はちゃんとありました。
さきほど、今度の満月はいつかなと日めくりをめくって探しておりましたら、明日が敬老の日でした。
本当に私ときたら、”今ここ”人間です。よくよく見渡してから言葉にすべきです。。
さて、今度の満月は中秋の名月ですね。
もう秋か…
最近の空は雲の形がさまざまで、見飽きることがありません。
日々調べ物やパソコン作業が多く、近くのものばかり見ているせいもあるので、目が喜んでいるのでしょうか。
敬老の日はちゃんとありました。
さきほど、今度の満月はいつかなと日めくりをめくって探しておりましたら、明日が敬老の日でした。
本当に私ときたら、”今ここ”人間です。よくよく見渡してから言葉にすべきです。。
さて、今度の満月は中秋の名月ですね。
もう秋か…
最近の空は雲の形がさまざまで、見飽きることがありません。
日々調べ物やパソコン作業が多く、近くのものばかり見ているせいもあるので、目が喜んでいるのでしょうか。
今日は老人の日。昔は敬老の日と言っていたけれど、近年変わりました。
敬老の日のほうがよかったな。”老人を敬う”ほうが素敵です。
たしか、中国語で「老」の字は、年を重ねて熟達しているというような意味があって、ネガティブな意味はなかったはずですが。
でも、日本ではどちらかというとよくない意味にとられがちです。
話は逸れますが、日本語には相手からの行為に感謝の気持ちを込める文法があります。
~てもらう・~てくれる。
無意識にこれらの表現を使って会話していることは本当に多いです。
日本人の中には、感謝の心、有難さを感じる心が根付いているんだなと思います。
毎年9月15日に、カレンダーや暦を見て”敬老の日”と書いてあるのと”老人の日”と書いてあるのとでは、どちらが高齢者に対する目に思いやりがこもるでしょうか。
子どもの日、母の日、父の日は、立場を表す名詞に日をつけるだけ。それなら、老人の日もアリでしょう。
そのような考え方もあるかもしれませんが、長年頑張ってきた人生の先輩を敬って”敬老の日”とするほうが、やはり素敵なのに…と思います。
今日は山の日です。どうして?と気になり、ググってみたところ、山の日は8月11日と決まっているのだそうです。理由は「八」が山のように見えること、「11」が木立のように見えることから、とのこと。
先日、日本語学校の課外授業でバス旅行がありました。といっても、日帰りなんですが。
バス移動の際に、山を見て、ネパールの学生が質問してきました。
「先生、あれは山ですか」
「はい、山ですよ」
「みどり山ですか」
「?」
「ネパールの山はみどり山としろ山があります」
「そうなんですか!日本では山は山ですよ」
その学生の話によると、ネパールの山は季節を問わず、いつも緑の山は緑山、白い山(ということは標高が高くて、年中雪がある山ということなんでしょう)は白山と呼び分けているんだそうです。
ネパールといえば、エベレストが臨める国。自国に世界最高峰の山があることに誇りを持っていると感じます。
そういえば、日本で一番高い山、富士山の標高をすぐに答えられますか?
答えは3776mですが、これは日本語の初級の教科書に出てくるので、学生はすぐに答えることができます。もうフレーズとして覚えてしまっているようです^^
何気なく日めくりをぱらぱら見ていた時に気がついたんです。
「終戦記念日」がない、と。
日本人なら誰でも知っているであろう、8月15日の終戦記念日。
この名称が、今年の日めくりには「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となっていました。
???
いつから変わったんでしょうか。
そもそも「終戦ではない、敗戦なのだ。」という主張もありました。
この日を絶対に忘れてはいけないはずなのに。
なぜ、今になってまわりくどい表現に変わったのでしょうか。
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」…。これでは次の世代に実際に日本で起きた戦争の悲惨さは伝わらない。
広島サミットの前に、「平和はしっかりつかまえておかなければ、どこかへいってしまう」と原爆を体験した方がおっしゃっていたのが頭から離れないでいます。
広島サミットは成功だったのでしょうか。私にはそうは思えません。
世界情勢を見ても、平和に向かって進んでいるようにはとうてい思えず、私には世界のリーダーのすることが良く理解できません。
あの終戦以後、日本は戦争をしていない。けれど今はかなり危ない状態です。
どんな理由でも戦争を始めてしまったら、やめるまでにはかなりの犠牲が伴います。
日本がまた戦争なんてしたら、さきの戦争で亡くなった人たちになんと言い訳をするのでしょう。
歴史から何も学んでいない。あまりにも愚かで、悲し過ぎます。
知らないうちに、終戦記念日と言う言葉が消えていた。
そんな風に国民に何も知らされず、じわじわと何かが動いているのかと恐ろしくなりました。
卵の品薄状態がもう2か月くらい続いています。
テレビでは関東圏は秋に生まれたひよこが成長したので、卵が出回ってきたと報じられていましたが、北海道はまだのようです。
ともあれ、卵がなければ朝目玉焼きを作ることもありません。パンにチーズやベーコンを乗せて一緒に焼いたりするくらいで、朝はガスを使わなくなりました。
うすうす感じていたことではありますが、何かが欠けると、そのために必要だったものやコトが必要ではなくなるんですよね。
たとえば、カレーのルウなんかも肉や野菜がいつでも手に入って作ることにストレスでなければよく使う物ですが、タマネギが高騰するとか、国産の肉も高い、外国産の肉は大丈夫かなぁ…なんてことを考えると、カレーを作ること自体が少なくなっていきます。
これまでと何もかもが同じ条件だったら、使う物を少し多めに買っておくのも必要なことですが、あてはまらないこともあるなぁと思うようになりました。
「これなら大丈夫」「これで困ることはない」と言い切れないのが、今の不安定な世の中です。
試行錯誤したり、様子見したりして自分にとってのちょうどいいを探っていくのでしょうね。
人から「このまえ、こんなこと言っていたよね」と言われて、「?」となってしまうことがありました。
私、そんなこと言ったっけ???
なんか言ったような気もする。でも、どういう文脈で?
思い出せません。
けさ、片づけ物をしているときに「ああ!」と思い出しました。
物理的に何かを整理していると、頭の中も整理されてくるのかもしれません。
少しでも実を取ろうと(仕事をしようと)頑張りすぎていて、頭の中がキツキツになってしまい、何も出入りできなくなっていたようです。
札幌は例年になく、早く桜が咲き始めました。
いつもなら、だいたいゴールデンウィークのあたりが開花宣言です。のんびりした気持ちで桜を眺めていられたのに、今年は・・。
JRの窓から桜が見えると、なんだか妙に焦ってしまうというか^^;
けれど最近は寒の戻りなのか、気温が低い日が続いています。桜が長持ちするといいなぁ。
やっと木の芽がふくらんできたライラックも楽しみです。実はわたしは北海道はライラックの方が空の色に映えると思っているんですよね。
本州は夏のような暑さなんだとか。こちらは今朝も暖房をつけました。
年末年始の休みとこの3連休で、すっかりマイペースに過ごすことに慣れてしまいました。
いつもマイペースですが、朝ゆっくりできるのはサイコーのしあわせです。
さて、お正月に使った三つ葉の再生はどうなったか。
最初の4,5日はこんな感じでした。
よしよし、いいぞと思っていましたが・・。
室内が乾燥しているのでしょうか、それから一向に伸びていかず、萎れてしまいました(涙)。
やっぱりわが家は育たないなぁ^^;
よく、豆苗やカイワレ大根など再生しているという話を見聞きしますが、うちはダメ。
食べられるものを育てられるといいのですが…。
昨夜、夜中にBSで「異世界のんびり農家」というアニメが始まりました。どんなものかと録画しておいて、見てみたんですが、これがけっこうおもしろかった☆
主人公の男性が若くして病気で亡くなってしまいます。
死後の世界で神様と対面。神様が自分のミスで病弱にしてしまったことを詫び、来世は健康な体を授けてやる、何かやりたいことはあるかと尋ねます。
男性はこれまでの人生で農業をやってみたかったこと、人間関係に疲れたことを思い、「人のいないところで農業をやりたい」と申し出ました。その神様は「農業はわたしの管轄ではないが…」と言いつつも他の神様と連絡を取って何とか都合をつけました。
男性は生まれ変わって、どこかにワープ(?)。気がつくと月が2つ出ている異世界の森の中にいました。
男性が今必要なものを念じると、シンプルな道具(例えば鍬やシャベルなど)が出てきて、それを使うと、どんなに大変な作業をし続けても、疲れません。
木を切り倒し、牙のある獰猛なうさぎを倒して食料にし、トイレを作り、簡易な小屋を建て…。
畑を作ると、種も撒かないのに芽が出てきたり…。
アニメだから何でもありですね。
でも、興味深いのは、わたしが子どもの頃のアニメは同じ何でもありの想像の世界でも、魔法使いだったり、近未来の便利な社会だったりしたのですが、このアニメはわたしが子どもの頃よりもさらに昔に戻っているということ。
便利な社会には、もう夢がないということでしょうか。
月が2つ出ているっていうのが村上春樹さんの『1Q84』を彷彿とさせ、念じると欲しいものが出てくるのはドラえもん、もう少し最近のだと『不滅のあなたへ』のフシを思わせました。
先が見えない世の中で、私の中では何か自分の思考を超えた現象を見て安心したい心理があります。
コロナが始まってから、何となくアニメを見るようにもなりました。
この「異世界のんびり農家」は面白そうなので、もう少し続けて見ようと思っています。
ピアノ音楽のCDを1枚聞き終わって、それから無音状態で過ごしています。
ラジオ代わりに聞いているYouTubeにも食指が伸びません。
無音状態で洗濯機を回し、くたびれたキャミソールを解体して小掃除をし。メール返信も簡潔に済ませてしまいました。
ふと見やると、パキラの葉が増えて、込み入った感じになってきています。
葉の端が枯れているのは取り除きました。少しスッキリ。
パキラの葉のように単純ではないけれど、自分自身含めた身の回りがどこか込み入って煩雑になっている感覚があります。
熱が下がって、自分の部屋を掃除していたときは、着慣れた服を見て「これは着ていてもパワー出ないな…」なんて思いがよぎりました。
服も一時だいぶ減らしたので、今着まわしている服はかなりヘビロテ状態です。くたびれてきていることは確かです。
かといって、今捨ててしまうと大変なことになりそうなので、新しいのを買ったらさよならということにします。
今はまだ街に出かける気力がないので、年内は無理そう…。
少しずつ自分を入れ替えていく時期なのかなと思っています。
今年の漢字が発表されていました。
「戦」。日々ロシア・ウクライナのニュースが報道されていましたから、そうだな~と思います。
じゃあ、私は?と自身を振り返ってみると、今年はよく教案を考えていたな、というのがまず思い浮かぶことです(私は日本語教師をしています)。
それだけ仕事に追われて、いつも何かにつけ日本語が気になっていました。
そんなわけで、わたしの今年の漢字は「考」です。
下手な考え休むに似たり、と言う言葉がありますが^^;
でも、考えて少し休んで、それでもなおいいと思ったら行動に移せば失敗も少ない!と考えることもできます^^
要は考え方。
考えるだけなら傍から見ると休んでいるように見えるのかも。
考えることと実行がペアになるよう、来年も精進したいと思います。
「つまらない住宅地の…」ああ、タイトルが覚えられないw
先月まで放送されていたBS夜ドラです。
このドラマを何気なく録画しておいて、時間のある時に見ています。
最終話まであと2回と言うところまで来ました。
ドラマや長い小説には(いえ、短くてもいいんですが)、途中のなんてことない場面で作者の思いが織り込まれていることがありますね。
もしかしたら、そこに共鳴してしまう(単に反応してしまう、かもしれない)のは、自分が普段から心のどこかで考えていたことなのかもしれません。
たとえば、逃亡犯である日置昭子と同級生だった男性が「あいつは復讐するために逃げ出したんじゃない」という台詞に加えて、「俺とあいつは同じくらいの成績でそんなに変わらなかったんだ。俺が日置で日置は俺なんだ」っていうところ。
テレビのニュースで一度でも犯罪を犯したら悪者。ましてやその悪者が刑務所から逃げ出したら、凶悪な人物。
そんな風に自動的に思ってしまう。それでいいのだろうか。。
自分が思ってもみないところで人生って変わってしまうことがあると思います。
日置昭子は父親の会社が倒産、両親の離婚からそうなりました。
もちろん、そのことで悪いこと(ドラマの中では横領でした)をしていいわけではありません。
でも、心の中に他人には共感してもらえない黒いものを抱えて間違えてしまった。
そういう人が何か事件を起こして、それをたまたまテレビで目にしたとします(リアルに)。
そういう人に何も知らないで「悪者」ってレッテルを貼って自分の中の心の交通整理をしてしまうってどうなんだろう。
ラクではありますけれど。
そんな風に感じさせられました。
自分の中で「買い物はもういいや」とほったらかし状態が続いていたかと思うと、いろいろ買い足したりしているうちにまた買い物が楽しくなったりしてしまうことがあります。
買い物の波があるんです。
それは、人間の脳に組み込まれたシステムなのかもしれません。
物を得ると、脳内に成功報酬が出る。
昔々、人は生きるために獲物を探しに狩りに出かけました。
やっと獲物を仕留めて、やった~!!・・・そんな感じでしょうか。
それがDNAの中に息づいていて、買い物をするとスイッチがはいるんですね。
でも、忙しくて買い物に行けません。とりあえずメモしておきます。
日が経つと…。なくてもなんとかなっていることも多くて(笑)
食べ物、日用品はその限りではありませんが。
散歩は気分転換になっていい。
晴れた日の気分爽快な景色の中にひととき身を置きたくてベンチに座ります。
そんなに長いこといるわけではないけれど、立ち上がるとき何かスイッチが入ります。
小さな切り替えを与えてくれるベンチって、素敵な存在です。
屋外にあるベンチ。
手をかけなければ汚れっぱなしになってしまいます。座りたくても、なんとなく…やめてしまうかも。
ふっと座れるベンチがあるところには、気を配ってくれている人がいるものだと思います。
ありがとう。
夏からずーっと、うちにいる時は窓を開けています。
風が通っていると気持ちがいいです。
暑い時はリビング側から寝室側に風が通ります。涼しい時は逆です。
今朝は寝室側から風が通っています。
天気予報の通り、昨日とは打って変わって涼しいです。
いまだに目覚まし時計無しの生活。もうすぐ半年になります。
このごろは日が昇るのが遅くなってきたせいか、目が覚めるのが5時頃になりました。
今朝は5時29分でした。
ぎゃっ!もうこんな時間?!
なんてことにそのうちなったりして…^^;
それも楽しそうです。
新聞の折り込み広告を見ると、暖房器具や断熱カーテンなどが載っています。
断熱カーテン、いい仕事してくれそうです。
今年は光熱費、大変そう。
心配ばかりしていても仕方ないけれど。変化の時は痛みを伴うもののようだから。。
今朝は久しぶりに朝散歩に出かけました。
松の木に打ち付けてある温度計を見ると、15℃。ひんやりしていますが、上着はまだカーディガン程度で大丈夫な感じです。
街路樹も緑の割合がまだ多いですが、だんだん色づいてきました。
エリザベス女王が亡くなって、なんだか時代の区切りを感じます。
ニュースで見かけると、手を止めて見入ってしまう。そんな人でした。
ファッションも目を引きますが、それだけではない。
遠い存在の人なのに、何か惹きつけられるものを持っているとはそういうことなのでしょう。
エリザベス女王に対するいろいろな人のコメントを見聞きしていると、共通することが「とても興味を持ってお話を聞いてくださった」ということです。
相手の話をよく聞くことはコミュニケーションの基本のきですが、ただ受け身になって聞くだけというのは違うんですね。相手に興味を持って、それをきちんと伝わるように示して話を聞くと、相手もうれしくてどんどん話したくなる。会話のトピックだけじゃなくて、そこにお互いの好意が交差するのでしょう。
そういう時間を過ごせたら、それが本当に短い数分のことであっても心に残るはずですよね。
25歳で即位してから、ずーっとさまざまな国や場所、そこで出会った人たちといつでもそういうコミュニケーションを取ってきたのでしょう。。
人と直接会って話すことが少なくなって、コミュニケーションの大切さがいかに大事かをひしひしと感じています。
「せっかくこうして顔を合わせてあっているんだから、おたがい少しでもいい時間を過ごしたい」と思います。一期一会の気持ちです。
じゃ、それを具体的にどうやって実行したらいいのか、と考えたときに今回の報道を通じて、まずは相手に興味を持つことからだと改めて気づかされました。
朝日を浴びたコスモス。花の写真を撮るのって、案外難しい。
よい一日を。