私の属する緩和ケア病棟では、主に、「緩和ケアを主体とした」治療を受ける方が入院されることが多いので、対象となる方は、残りの時間が限られている方が入院されることがほとんどです。
この時期、つまり、がんを治したり、がんと闘ったりすることが困難な体調になる時期には、それまで以上に患者さんの気持ちも複雑になります。
これまでの自分の生き方、人とのかかわりの中で「もっと、こうすればよかった」という後悔。
どうして、何も悪いことをしていない自分がこんな目に合わないといけないのか、医療者はもっと、もっと「こうすべきだ!」という怒り。
病気は、きっと、これまでに自分が人を大切にしてこなかった、自分を振り返ることがなかったせいだ、などという罪悪感。
死ぬのが恐い、夜寝たら、もう目が覚めないような気がする、といった不安、恐怖感。
これまで必死に周りの人に尽くしてきたつもりなのに、病気になった途端に周りの人との接点がなくなり、淋しくて仕方ない孤独感。
さまざまな気持ちになります。
ケアをさせていただく者から考えると、これらの気持ちは「何とか和らげたい」と思うものであります。つまり、患者さんは「つらい気持ちにある」と考え、あの手この手を考えながら、ケアを提供させていただきます。
このような時期に、後悔、怒り、罪悪感といった心境になることは、状況を考えると、まずは「当然である」と私たち、医療者は受け止めます。ですから、患者さんの怒りやいらだちを「不合理なもの」と短絡的に受け止めることはまず、ありません。
よくよく考えてみると、後悔、怒り、罪悪感といった気持ちは、一般的にいうと、「負の感情」でしょう。この時期には、そうなる方が大半だと私たちは思っております。
ところが。
今、入院されている患者さんに、死を受容し、不満ひとつをいわず、感謝の弁を医療者に向けてくださる方がいます。
どうしてこんなことを言うかというと…。
あまりにも患者さんが私たちに感謝しすぎるからです。
この方は、部屋に行くたびに、今にも涙されんばかりに「ありがとう…」と感謝の意を表明してくださいます。
うちの医師は、手を握られ、感謝され、「私は金正日よりも幸せだー」という患者さんに対して、「多幸感」があるのではないかといったくらいです。
これをどう、考えるか。
私は、ぴんときました。
「私たち、医療者は、残された時間が限られた時、普通は患者さんは何らかの負の感情を抱くものだ」と思い込んでいる、いえ、そんな経験が積み重なっているせいで、この患者さんの言葉のそのものを受け取れなくなっているのではないかと。
例えば、この時期の患者さんがステロイドで多幸感があるとしても、感謝の気持ちを伝え続ける状況というのは、患者さんが不快でなければ、何の問題もない。
むしろ、その状態を「何かあるのかな?」と思う自分達の考え方を改めないといけないかもしれないとも思いました。
カンファレンスで、私は言いました。
「私たちって、感謝の言葉を受け取ることになれていませんよね。」
臨床心理士さんも言ってくれました。
「患者さんの気持ちは素直にありがとう、と受け取ればいいのではないでしょうか。」
各いう私も、感謝され続けると、猜疑心を持ってしまいそうなのですが…。
自分の今の「立場」上、スタッフの意見を聴いていると、客観的にそれを見ることが(珍しく)できまして、「素直に患者さんの気持ちを受け取ろう」と発言できました。
勿論、患者さんがそのような言葉を私たちにくださる以前に、スタッフの皆がさまざまな介入をしていることは当然のことです。
この機会に、自分達の介入を「OK]とすることを実感することも、これからのケアに必要なのかもしれないということをひしひしと感じました。
今日は、その患者さん、「ラスト侍」をみて、日中の時間をエンジョイされてました。
このような時間は、目を細めたくなる、とても大切な時間だと思います。
日々の小さなことから、「自分は自分だ」「自分は生きているんだ」「自分は関心を向けられているんだ」という感覚を持っていただけるようにケアさせていただきたいと思っています。
この患者さんに、感謝。