あるグリーフケアのワークショップに参加してきました。
グリーフとは、griefのことで、日本語では「悲嘆」といいます。
悲嘆とは、大切な人やものを失うことによる感情的な反応のことをいいます。
悲嘆というと、文字通り、嘆き悲しむということをぱっとイメージできますが、悲嘆は、悲しいつらいといった感情的なものだけではありません。
社会から引きこもったり、思い出のものを持ち歩いたり、決断がしにくくなる、無関心になったり、身体に変調が起きたりと、さまざまな反応が起こります。
と、いう感じで、このワークショップでは、グリーフと、グリーフケアについてみっちりと学んできました。
このワークショップの中で、自分たちの悲嘆を振り返る作業がありました。
お互いの経験を(可能な範囲で)話し合ったり、その気持ちをアートにして表現するといった時間を持ちました。
参加者の大半は看護師だったのですが、ワークショップで知り合った仲間として、その看護師さんたちの悲嘆をみんな食い入るようにして、時には涙を流しながら話を聴きました。
ふと思ったのですが、看護師は大切な人を失ったとき、特に、病気で失ったとき、必ず、看護師という職業的な立場から物事を考えていることに気がつきました。
それって、ごく当然のことかもしれませんが、あらためて語りを聴いていると、悲嘆の経験がとても痛々しいことがわかりました。
看護師なんだから、しっかりしなくちゃ。
看護師なのに、自分が不甲斐ない…。
こんな気持ちを抱え、自分を責めます。
そして、家族からは看護師だからいろんなことをよく知っているだろうと思われ、ちゃんと悲しみたい場面でも悲しむ時間が持てないくらい、患者の状態をあれこれ尋ねられたり、
少し冷静になって先を予測して行動していると、「冷たい人」と見られたり。
いくら看護師とはいえ、大切な人を失うかもしれない、失ってしまったという体験はつらいものに違いないのですが、周りの人も余裕がないので、うまくいかないことが多々あるものです。
それから、自分のつらさは、職場では言えないと思っている人も多くいたような気がします。
どんなにつらくても、目の前にいるつらく思っている人をケアすることが自分の役割ですから、いつものように振る舞って、微笑まなくてはなりません。
自分の職場にも、心を痛めている「であろう」人がいることが、容易に思い浮かびます。
ワークショップで学んだあと、そのことを考えると、今まで以上に胸が痛むようになりました。
今さらの気づきですが、気がつけたことを心からよかったと思っています。
グリーフの中にある人をケアする私たちに大切なことのひとつに、自分を知ることと、自分自身をケアすることがあると学びました。
看護師だって、ケアされないといけないんだ…。
あまりにも、看護師はケアされてない現状を実感しました。
それと同時に、ワークショップで、自分たちのつらい体験を話しているうちに、聴いてもらえることで自分がケアされているということにも気がつきました。
この学びをどうやって生かすのか…。
大きな課題がみつかったワークショップでした。