緩和ケアで行こう

へなちょこ緩和ケアナース?!のネガティブ傾向な日記です。

あらたな役割

2010-01-31 18:38:52 | 

 去年から、自分の病院で、あらたな役割が私に与えられました。
 これまでは、がん患者さんやそのご家族、そしてスタッフのサポートが私の主な役割でした。

 私に与えられた役割のひとつは、「主任会」の運営です。主任会の代表者ということになります。


 私は、実は、管理職の経験はありません。だから、最初、この役割をこなすことのお話をもらったとき、それはそれは、困惑しました。
 私が主任会を仕切る、ですってーーー?とんでもなーい。


 …といっている暇が、今年に入ってますますなくなってきました。

 うちの主任会には、やらねばならぬことが、雪だるま式に増えているからです。
 
 各病棟の主任さんは、がん患者さんのケアや院内教育のことでともに仕事をすることがあるので、顔と名前は一致しますし、みなさんとお話したことがあります。「面識がある」ということと、「やらねばならぬことがある」ということで、私が主任会を運営していくにあたって持っていた困惑は幾分、ましになってきています。

 主任さんですから…、さすが、これと決めたらそれを何とか遂行しようという意欲は「ありがたい」と感じるくらいです。
 


 ある主任さんから、「ポンさん、余分な仕事を押し付けられて、大変やん。」といわれました。

 確かにね。
 会の目的遂行のために、文献を読んで、調べて、そして、主任さんたちに方向性を示すといったことをしなくてはならなくなりました。主任さんたちは一生懸命に協働してくださいますが、ふと…、

 「方向性、これで合ってるかしら???」

 と不安になることもしばしばです。

 けれど、時間の余裕がない目的を果たそうとするならば、あれこれ迷うよりも、実際にやりながら、評価や修正をやるほうがよっぽど効率的です。
 今年度は残り2ヶ月ですが、その期間にできることとやらねばならないことを、優先順位を考えてざっとリストアップし、主任さんたちに実行してもらっています。
 そして、主任さんたちの実行していることが、無駄にならないように、そしてやる気と責任感を維持できるように、看護部長ならびに師長会に「主任会の決定権」をきっちりといただけるように提案し、了解を得ました。

 ありがたいことに、目的遂行のために、主任さん自らが月に一度の主任会以外に、毎週月曜日に話し合いを持ちましょうと積極性をみせてくれています。
 これには、ちょっと、(新米代表者としては)感動しちゃいました。

 主任さんとのそんなこんなのやりとりがあって、私はこの役割を「余分な仕事」とはまったく思わなくなりました。

 返って、「やってみせるわよ」ってな密かにそんな気持ちにもなっています。
 (これからどんな気持ちに変化するかわからないから、控えめにいっておかないと…。)
 

 それも、これも、主任さんたちのおかげです。

 
 これからも、しばらくは、ゆっくりと急いでいこうと思います。
 

文章を書くって、難しい

2010-01-25 22:23:54 | 

 自分の意図を文章にして伝えるって、時と場合によってはとても難しいことがあります。
 苦手意識があると尚のこと…。

 私は、文章を書くのは得意な方ではありません。
 おそらく、このブログを読んでくださっている方々の中には、「ポンはなんてわかりにく文章を書くのか」「文章の流れがおかしいじゃないかぁ」と思っていらっしゃると思います。
 拙くて、申し訳ありません。

 でも、でも。ブログだから、ある程度は、許されるのでしょうね。

 

 その昔。
 文章を書くのに、とても苦労しました。

 それは、研究論文を書いているときでした。

 論文の締め切りは、1月中だったと思います。
 気が「相当」焦りつつ、データを整理して、考察の文章を考えているときでした。
 
 しかし。

 その考察の文章を教授にスーパーバイズしてもらうたび、その結果は散々でした。
 
 忘れもしない、その年の大晦日。1月中に論文を提出しないといけないのに、考察が一行も書けていませんでした(ホンマに、最悪だった)。
 これで、いけるだろう…。
 そう思って、教授に読んでもらいましたが、結果は、
 

 「ポンさんが何をいいたいのかがさっぱりわからないわっ」
 ってな感じで、準備した考察の文章のすべてを読んでもらえることもなく、何度も玉砕でした。

 それは、まるで、ちゃぶ台をひっくり返されるような…。


 世の中は、年越しのカウントダウン。でも、私は提出のカウントダウンってな気持ちだったかな。

 大晦日も、正月も返上で考えた論文。


 文章とはどう書くのか、自分の意見をどのように文章にして伝えるのか。
 それは、教授が「こうするんだよ」と具体的に教えてくれるわけじゃないとしても、添削される内容で、本当に勉強させてもらいました。

 

 今となっては、その経験は感謝したくなる以外の何物でもありません。

 自分が文章を書くときだけでなく、人の文章を読むときも、ある程度、読みこなすことができるようになったのではないかと思います。
  
 

 先日、学会に発表する抄録の文章を読んでもらいたいと、医師から頼まれました。
 
 ちょっと…、いーーーえっ、かなり…、嬉しかったっ!
 


 こうやって、文章を読むことで、人のお役に立てるのなら、どんとこい!って感じ。
 
 こんなことができるようになったのは、あの、「ちゃぶ台をひっくり返される経験」をしたから、と思っています。
 
 教授に、感謝!
 

食べることの意味

2010-01-17 19:20:51 | 日々の「ケア」

食べるということは、人間にとって、本当に大切なことなんだな、とつくづく思えた機会に、最近、たまたまですが、よく遭遇します。

よくよく、考えてみると、人って何かにつけて、食べてる。
ある人は、お腹いっぱいになることを求めて。
ある人は、美味しいものを求めて。
ある人は、こだわりを求めて。
ある人は、思い出作りを求めて。

患者さんの多くは、「食べることができる」ことでご自分の体調のバロメーターにされることが多いと思います。
ただ、単に「いつもの量」を食べることができるだけでなく、美味しいかどうかも、体調を確認するためには大切なことのようです。

それは、患者さんじゃなくても、私たちも同じことだと思います。


終末期のがん患者さんは、さまざまな理由から食べる喜びを味わうことができなくなります。
ここ数ヶ月でお会いした患者さんで、食べることを望みつつも、うまく食べられなかった原因としては、消化管のがんや婦人科系のがんで、手術の既往があり、がん性腹膜炎になっているというものが多かったように思います。


食べたい…。


そのご希望にはできるだけ沿うようにケアさせていただくのですが、何の症状もなく、食べていただくということは不可能に近い技です。
多くの患者さんは腸閉塞を繰り返し、痛みや吐き気と闘いながら食べ続けておられました。


どうして、
どうして、
そんなにまでして食べるの?


腸閉塞なら、絶食にして腸管を安静にするほうが、体は楽じゃないのか…。
痛みがでるとわかっていて、どうして、絶食期間中に隠れてでも食べちゃうのか…。


それは、
食べることが生きている証だから、です。


患者さんの話をうかがったり、食べることへの行動をみていると、どれほど、その方とって、食べることが大切なのかということを知らされます。

本来なら、腸閉塞になれば、絶食にして点滴で様子を見ることが治療としては本筋なのでしょう。
でも、私たち専門家がよいと思う治療は、患者さんにとっては必ずしもよいものとは限りません。

うまく食べることができない病状にあっても、食べることを選んだ患者さんにはできるだけ食べていただくようにさせていただいています。
腸閉塞を繰り返すと、患者さんもご家族もつらいですが、一緒に過ごさせてもらっている私たちもとてもつらいものです。


患者さんも必死に「食べること」「食べたいと願うこと」で生きていらっしゃる。


食べたい、でも、つらい症状はいやだ…。


両方を叶えることはとても難しいのですが、病状を考えながら、なんとか、いい方法はないのか、なんとか折り合いをつけることはできないのか…。
私たち医療者で考えただけでは、そのときの最善の答えを見出すことはできません。

患者さんと常に対話しながら…、ああでもない…、こうでもない…と頭を抱えながら、日々、奮闘しています。

患者さんが、せめて少しでも食べることのできる状態なら、できるだけ、患者さんの食べたいものを食べてもらいたい。ほんの少しであっても、食べることの喜びを体で、気持ちで味わってもらいたい…。
そう願わんばかりです。


生きることは、食べること。

そういいきっても、過言ではないかもしれません。