小沢さん(仮称)は、先日、お亡くなりになりました。
小沢さんは、心から尊敬する人の一人になりました。
小沢さんの心の痛みは毎日、言葉になって溢れていました。
溢れる…、うーん、この表現だけじゃ足りないくらい。
気持ちが体中に充満して、行き場がなくなって、体のあちこちから漏れだして、お部屋中に漂っているような感じ。
小沢さんはいつもいつも、それこそ、毎日毎日、
「こんな姿で生きていても意味がない」「こんな状態で生きているのは地獄だ」「早く死にたいです」と話しておられました。
涙もよく流されていました。
小沢さんはご親族の複雑な問題を抱えておられました。
思い出を語ろうものなら、ご親族に対する恨み節が炸裂して、かえって心が痛んでしまう、そんな状態でした。
小沢さんの話をみんなで繰り返し、聴きました。
奥さんも毎日、毎日面会に来てくださっていました。
私は小沢さんの話を聴きながら、いつも思っていました。
「神様、早く、小沢さんをお迎えに来て…」
残酷なことを考えていると思われるかもしれません。
けれど、これに関しては奥さんも同じ気持ちでした。
もちろん、できるだけ長く生きてもらいたいという気持ちと、苦しいなら長く続かないでもらいたい…、そんなアンビバレントな気持ちです。
人間は、自分のことが自分出来なくなると、この上ないつらさを抱えて生きていくことになります。
自分のことが自分でできなくなると、自分の生きている価値を見いだせなくなります。
まさに、小沢さんはそんな状態でした。
そんな時、私たちは患者さんのこころの痛みをできるだけありのままに受け止め、「それでも、あなたは生きているだけで、そこに存在していることに価値があるのですよ」というメッセージを送ります。
小沢さんのご家族をはじめ、スタッフみんなであれやこれやとケアをしているうちに、小沢さんは憎しみを抱いていたご親族の「痛みがわかった気がする」と話されたり、ご家族やスタッフに出会えたことに心から感謝しておられました。
私は、「死にたい、死にたい」とおっしゃっていた患者さんが、死にたいと思うくらいつらい状況にある患者さんが、こんなことをおっしゃるなんて…とその変化に感心しました。
あらためて、びっくりしました。
やっぱり、人を支えるのは人なのだ、と。
いえいえ、それ以上に感心したのは、小沢さんを支えた人々だけではなく、小沢さんの生き様でした。
小沢さんの話を聴いていると、小沢さんの生きていることのつらさを感じて、一緒に泣いたものです。
つらい、つらい。つらいって言葉じゃ語りきれないくらい。そんな状況の中にある小沢さん。
それでも、小沢さんは生きている。
自分の命を放棄することなく、生きている。
「死にたい」とはおっしゃるものの、死のうとすることもなく、生きている。
その姿に私は、月並みな言葉ですが「すごいなぁ」と感じていました。
「小沢さんは、ここ最近出会った、私の中で尊敬する人なんですよ」
私は言葉で、小沢さんにお伝えしました。
こんなにもがんばっている。
だから。
神様、早くお迎えに来て…。
実は、神様に真剣に「早くお迎えに来て」とお祈りしたのは初めてでした。
いつものお祈りの内容は、早くお迎えに来てほしいというよりも、「どうぞ、この苦しみを少しでも楽にしてあげてください」なのです…。
小沢さんに出会って、
生きているということは、どんな状況であっても、とてもすごいことなんだと、教えてもらいました。
ベッドで寝たままになっても、生きていることだけでもすごい…。
「生きていくって、大変やなぁ」
「自分の体とおつきあいするって、とっても大変やなぁ」
小沢さんとよく、こんな会話をしていました。
そうそう。生きるってとっても大変なこと。
だから、生きているってすごいんだよね…、
ねぇ、小沢さん。