神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

恩賜林:御料林下賜 

2024-01-07 00:29:55 | 御料地

   松姫峠にあった掲示板

 昨日の写真の説明を訂正しました。間違いを防ぐために、峠付近にあった掲示板を挙げておきます。

 じつは、私が写真を撮った場所は、峠から少し下に移動した場所でした。
 松姫峠付近から、道路はすぐにジグザグが始まります。日光のいろは坂をご存じでしょうか。それと同様です。
 私が撮影した場所は、峠から2段ほど下付近からでした。

 その様子がわかる写真がありましたから、念のために挙げておきます。
 こんな急峻な所によく道を作ったものだと驚かれることでしょう。この写真の右すぐ上が峠になります。

   松姫峠の道路2段下付近:この下の一帯は恩賜林(旧御料林)です。

 明治20年代、山梨県の山林はほとんどが御料林に編入されました。それがのちに山梨県に払い下げられて「恩賜林」として管理・運営されますが、この松姫峠の下も恩賜林です。
 皇室財産として設定された御料林がなぜ県に払い下げられて恩賜林になったのかというと、その経緯は、通常、次の看板の説明のようになされています。
 
 県道沿いにあった看板

 どうでしょうか。お分かりになりましたか?

 山梨県内の山を歩くと、このような「恩賜林の由来」についての看板や文書などを目にすることがあるかと思われますが、私がこれまで見た限りでは、概ねこのような内容です。ですから、これがいわば「正解」なのですが、私は少し疑問に思っています。 

 どこが疑問かというと、説明文中の「山梨県下が累年の水害により、県民が疲弊の極に達し、地方の民力、その救治に堪えざる趣憫然に思召され・・・御下賜になった」というところです。
 
 この意味は「水害で疲弊して気の毒に思ったから下賜された」ということです。私もこれはそうだと思います。
 確認しますと、まず「山梨県下が累年の水害により、県民が疲弊の極に達し、地方の民力、その救治に堪えざる趣」はその通り、そして「憫然に思召され・・・御下賜」というのもその通りと思います。

 では、何が疑問なのかというと、「水害で疲弊して気の毒に思ったから」といって山梨県の御料地のほぼ全部を「下賜(払い下げ)」できるだろうかということです。
 これは、かりに御料地が山梨県にしか存在しなかったとして、それでも「水害で疲弊して気の毒に思ったから」といってほぼ全部を払い下げるだろうかと考えてみるとよくわかるのではないでしょうか?
 
 もちろん、そんなことはできない相談です。現に、山梨県の御料地の全部を払い下げたわけではありません。甲府の北にはかなり面積を残してます。
 要するに、山梨県の御料地の大半を払い下げても困らない目途が立てられていたこと、これが背景にあっての判断だったのだろうということです。

 では、それは何かというと、御料局の測量事業が内地(本州)については明治40年ころに終わり、皇位と共に伝える世伝御料(木曽・天城・丹澤など)の確定に目途が立ったということ、これが背景にあると見られるわけです。

 その意味で、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)に見られる測量事業の進展は注目されるところなのです。
 

 
 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする