神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

朴:揺れて高みに咲く

2024-01-10 18:46:47 | 近況
 2000年代に入った頃の春先のことだったと記憶していますが、奥多摩行きの古里駅で下車して、丹三郎から大岳を目指して入り、尾根筋をたどって大塚山を通過して、御岳の集落に着きました。しかし、どうも気力が続かず、下山することにしました。

 気が乗らなければ下山する方がよいので、大楢峠の分岐点を城山方向に進み、かなり里の方に来てました。見ると、朴の幼木が1本見えました。
 「欲しいな」と思いながら、いくらか右へ回り込むように歩いて行くと、山仕事をしている人が見えました。
 向こうも気が付いて、互いに「こんにちは」と文字通り「山での挨拶」をして通り過ぎました。

 ほんの少し歩いてから思いついて、聞いてみました。
 「この山はお宅の山ですか。」と。
 「そうだ」というので、
 「あそこにある朴の木の小さいのを分けてもらえませんか」と聞くと、
 「いいよ」という。それで、
 「いくらですか」と聞くと、
 「持って行っていいよ」と返ってきました。
 「もらっていってもいいんですか」と確かめると、
 「いいよ」と。

 それから写真のように成長し、根回り100㎝くらいになりました。


    庭にあった朴

 私はうれしくてうれしくて、なにせ40年以上も思い続けてきたのですから。
 もう何万枚写真を撮ったかわかりません。
   
 どの花も、花は、自分の居場所で、自分が主役だといって咲いています。
 ですから、これは見る側の好みの問題なのですけど、
 「私の一推しは朴です」。
 
 その理由はたいしたことではありません。
  風誘う朴 泰然として 揺れて高みに咲く
 これです。
 
 しかし、15年くらいたったとき問題が起こりました。


 
 冬、風が北から吹くのです。
 南から吹けば、葉がわが庭に集まるものを、北から吹くために、周辺の住宅や道路に飛び散っていき、辺りは「大澤」の「名入れの葉」で溢れ、それを拾い集めると腰痛を覚えるようになり、それが年々募り、いよいよ限界に達したのです。

 それだけではありません。根が成長して側溝も持ち上げ始め、舗装路まで及ぶことが見えてきました。こうなると個人の努力だけでは限界でした。
 
 朴のことや続きは折々に書くことにしましょう。
 なにせ、私の写真の大半は朴なのです。

 そのうちにこのブログのタイトルを「朴を追って」と改訂するかもしれません。
 ではこの辺で。

 
 
 

  


 

   
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笹子雁ヶ腹摺山

2024-01-10 00:09:43 | 勝記日記
 先日の「雁ヶ腹摺山」の続きになります。

 まず、明治17年10月14日から19日の神足勝記の行動を略記します。
 14日、「雁ヶ腹摺山」の付近から大月に出て、猿橋の大黒屋に泊まる。
 15日、百蔵山〔桃栗山:もくりやま〕に登る。
 16日、谷村〔やむら〕の高川山などに登る。
 17日、谷村の南の道端嶺・道志村・相州界を測定し、谷村に戻る。
 18日、谷村から桂川を越えて初狩に出て、笹子村黒野田三吉屋に泊まる。
 19日、峠の東北に位する「雁ヶ腹摺山」に上る。

 この様子から、神足は「郡内地方」といわれる大月や谷村辺を調査していたことがわかります。そして、19日は郡内の西の端を調べるために、「雁ヶ腹摺山」に上ります。
 なお、この「雁ヶ腹摺山」は、「峠の東北」とあり、翌日に笹子峠を越えますから、その行程から判断して「笹子雁ヶ腹摺山」に間違いありません。

 神足は、19日に「〔笹子〕峠の東北に位する〔笹子〕雁ヶ腹摺山」に上がった時のことを次のように書いています。
 「時に雲霧諸山を蔽ひ、晴るゝを待ちて午時に及ふ。或は晴れ、或は曇り、 
 未た全く志を達する能はさるも、快晴の色なきを以て、下りて一茶店に憩
 ひ、午食。笹子嶺を越へ、駒飼野〔初鹿野・甲斐大和〕を過き、4時頃、勝
 沼駅池田屋に着す。」

 さて、私もこの跡を大体たどりました。その全部をここで書くわけにはいきませんから、2つだけ。

 一つは「笹子村黒野田三吉屋」についてです。


   松のある一帯が三吉屋跡。正面笹子駅。左は旧道。正面が大月方面。

 笹子駅を出ると、すぐに60歳くらいの女性が見えました。そこで、
 「明治の人の日記に、この辺で三吉屋という旅館に泊まったと書いてあるの
 ですけど、どこだかわからないでしょうか」と聞くと、すぐさま、
 「そこの、松の木のある家のところです」と指差してくれました。それに驚いて、
 「今でも屋号が通じるんですか」と聞くと、無言で頷いて、
 「昭和の頃まで営業していた・・・・」と懐かしそうに教えてくれました。。

 もう一つ、「笹子雁ヶ腹摺山」です。
 笹子駅から西へ進み、笹子トンネルの少し手前から上がれます。急登ですが、それほど手間はかかりません。

 
 
 あまり良い写真が撮れませんでしたが、1枚だけ。

 
   「笹子雁ヶ腹摺山」より。正面が大月方面。駅はほぼ右下。

 上に引用したように、神足は、
 「時に雲霧諸山を蔽ひ、晴るゝを待ちて午時に及ふ。或は晴れ、或は曇り、 
 未た全く志を達する能はさるも、快晴の色なき・・・」
 と書いていましたから、この景色を見られたのかどうかわかりませんが、ずいぶん山深いところであることがわかります。
 この後、神足はここを一度笹子に下ってから笹子峠を越えて勝沼に入ったわけです。

 私は、ここから奥へと向かい、米沢山、お坊山と歩き、大鹿峠から北西にある武田氏ゆかりの景徳院に降りて、甲斐大和駅から帰りました。
 大鹿峠を下るとき、地名は鹿なのに猿の家族(10頭くらい)の大歓迎を受け、道案内をしてもらいました。ふだん訪れる人が少ないのか、だいぶ嬉んでくれてました。初めてのことでした。

 今日はここまで。 










 

 

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