(1)昨日、私が越えた尾根は「肝要峠」という名前でした。トンネルはこの真下を通っています。「肝要峠」の真下を通るトンネルだから、「肝要トンネル」というのかと思いきや、「梅ヶ谷〔うめがた〕トンネル」でした。本来の「梅ケ谷」峠は右下の方のはずです。紛らわしいですね。
もういちど写真を載せておきましょう。
1.肝要峠は、尾根の少し陰のある付近。
私は手前の尾根を降りましたが、降りた尾根の右に、本来の道が九十九折になってあるそうです。確かに、次の写真を見るとそうも見えます。
2.上に行く左の道と、下へ下る右の道がありました。しかし、標識が倒れていましたから、下る方を選んでしまいました。こちらは山仕事でできた道だったようです。
(2)肝要に下りると折よく通る人がいて、「報徳会館」の場所を聴くことができました。
報徳会館の道を挟んだ向かいは慶福寺です。
しかし、報徳会館は鍵がかかっていて不在でした。立派な建物です。
実は、この間毎日10回くらい電話をかけましたがまったく通じませんでした。ですから、特定の日にだけ開館するのだろうと思っていましたから、ある意味では予想通りでした。
そこで、慶福寺の近くで報徳会館の管理者のことを伺うと、「報徳会館」という名前ですが、建物は自治会の建物らしいこと、また管理者はその自治会の会長であることがすぐにわかりました。
(3)自治会の会長は清水氏といい、「梅ケ谷〔うめがた〕トンネル」脇のお宅でした。
清水氏らは「伊奈石の会」という会を結成されていて、会誌も年1回発行されてきて、活発な活動をされていました。
1.頂戴した『第27号』
このあと、ザックに入れて白岩滝や麻生山などを歩いたので、下半分が擦れてしまいました。申し訳ないことでした。しかし、幸い中は無事でした。
2.会誌は、会員の高齢化が進んだことが原因で、次の第28号で廃刊だそうです。
(4)清水氏に、三ツ沢の「改修記念」碑に「報徳部落」とあったこと、その後ネット検索をして肝要に「報徳会館」があることを知ったこと、『日の出町史』や手許の報徳関係の資料を見ても手掛かりが得られなかったことをお話しして、この地域の「報徳運動」について伺ったところ、残念なことに、すでに記憶すら残っていないらしいことがわかりました。
(5)清水氏は、ご親切にも上記の冊子「第27号」をくださり、あわせて、ほかの会員に照会して後日ご連絡をいただける旨を申し出てくださいました。
帰りに家の前にある次の「道標」を紹介してくださいました。
1.正面
この道標は、下に載せますが、「大正13年1月25日」に後の昭和天皇の結婚を祝して建てられたものですが、注目すべきところがいくつかあります。
一つは「右岩井停車場」とあるところです。今の武蔵五日市線にあたる路線ができて、そのころ石灰石の搬出駅だった「岩井駅」の名が記されています。岩井駅は昭和46年に廃止になりました。
もう一つは、「左御嶽神社」とあるところです。上記「第27号」によると、現在の青梅線のもとになる青梅鉄道御嶽駅が昭和4年に開業して、同9年に御嶽登山鉄道が開業するまでは、肝要からの道が御嶽神社の表参道で、青梅からなら肝要峠を越えて来るとか、あるいは、当時の最寄り駅である岩井駅まで来てここから歩くのが、当時の採るべきルートでした。その記憶をこの碑が証言しています。
2.さらに、この道標の珍しいところは、下部にローマ字で道案内がついていることです。見えにくいですから、下に拡大して載せます。
読めましたか?「THE」、「LEFT」、「RIGHT」、「SHRINE」、「ABOUT」、「STATION」、「KILOMETER」と英語が使われています。これは、日本語の地名を「ローマ字」表記したものではなく、本来の英単語で表記したものですから、「英字道標」といった方がよいかもしれません。
こういう表記が必要と意識されるほどまでに外国人の参拝者や観光客が来ていたということですね。その意味では、現在の御岳神社の門下に並ぶ商店街のような楽しい雰囲気があったかもしれません。
3.そして、今回の調査で注目されるのは、右側面です。上に書いたように、建設日は「大正13年1月25日」で、建設者は「大久野青年会報徳支部」です。言い直すと、大久野に青年会があって、その中に「報徳支部」があったことを記しているわけです。
これはまだ推測ですが、外国人の来訪者が来るような雰囲気の中で、その前に、近世に御嶽神社の参拝客が往来する中で、「報徳運動」を知る人がいて、あるいは入ってきて広まった・・・。御嶽神社参りの「人の動き」と五日市憲法や報徳がどうかかわるのか、興味が尽きないですね。
わかったのはここまでです。なにかわかればまた書きます。心掛けていれば、なにかに気が付くでしょう。
おっと、この日の結果はまだ続きます。しかし、今日はここで。