朴には、白・飴色・赤・・・いろいろがあります。
どの色でも、ときどき来客があってにぎやかでした。
さて、今日は『価値形態論と交換過程論』で思い出すことを書きます。
といっても、本の解説や解釈をするわけではありません。結論を先に言えば、難解な本なので一生懸命に読んでいったところ、突然、意味が分からなくなったということです。
この本は、大きさA5判で、全体118ページのものです。ですから、本というより小冊子といった方がよいかもしれません。
内容はマルクスの『資本論』第1巻冒頭の商品・貨幣論に関するものです。
著者は久留間鮫造〔くるまさめぞう〕、出版社は岩波書店、昭和32(1957)年7月に第1刷、手元のものは昭和48(1973)年9月の刊行の13刷りです。定価は400円(私のこのころのアルバイト時給250円だったことは昨日も書きました)。
いま、この本がどういう読まれ方をしているかはわかりませんが、私が学部の3年生になって宇佐美誠次郎先生のゼミで『資本論』を学び始めたころ(1972年4月)、先生が「みとおしをもち、古典をすなおに学ぶこと」(『経済』1969年5月)という論文を発表されていて、「20年先をみとおす」、「利己的な自己満足でなく」、「勝手な解釈をしない」、「わからないものはわからないとしてとりあえず先に進む」ということを厳しく言われていましたから、私などは、『資本論』にとっかかっていきなり「素直に理解しなければならない」例として、『価値形態論と交換過程論』を読んだものです。
本の内容は、細かいことは避けて、要するに「価値形態論」と「交換過程論」の相違がどこにあるかということ、「価値形態論」では商品所有者の「欲望」がなぜ捨象される〔とりあえず除けて考えられる〕のかということなどがまとめられています。
来訪者:一見さん
ゼミには、宇佐美先生を慕ってやってきたモグリの学生や、『資本論』を何回も読んできたというOBが参加されていて、初学者である私などはまったく参加するスキも無く、議論はいつも頭上を飛び交っていました。
毎回20ページほどを目安に議論することになっていて、それに合わせて読み考えましたが、上記の本は、その際の重要参考文献の1冊でした。しかも、初学者の私にはとてつもなく難解なものでした。
ともかく、なんとか理解をしたいと必死で読みました。
おそらく、線を引いたり、朱色の鉛筆で印をつけたり、ペンで枠に囲んだりといろいろやったはずです。(自分のものなのに「はずです」は変だと思われるでしょうけど、あとでわかるように、今はもう手元にないのです。)
本は前篇と後篇に分かれていますが、なんとか前篇の44ページを読み終わって後篇に入ってからと思いますが、はたといくら読んでもわからなったのです。
だいたい、いつもアルバイトをしてきて眠い目をこすりながらやってましたから、そういうことは珍しいことではなかったので驚きませんでしたが、ともかく、この時はからきしわからなかったのです。それで、とうとうあきらめることにしました。
ところが、翌日、見てすぐにわかりました。「乱丁」だったのです。
本を買った生協の書籍部へ行って交渉すると、「岩波から届き次第交換する」と答えました。
それを聞いて安心していると、
「その本をお預かりします。」といいます。
しかし、
「これには自分に必要なメモも入っているし、いまも読んでいるものだから困る。」
というと、
「その本を送らないと、岩波が送ってくれないから、交換できない・・・」
と。結局、「没収」されてしまいました。
自分の交渉力のなさをつくづく思いましたが、いま考えても理不尽、と思います。
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