神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.135 『財政学 上巻』のこと

2024-04-10 00:27:51 | 追憶
  昨日は自分でもずいぶん懐かしく思いました。それでついつい力が入ったのですが、だいじなことを一つ略しましたから、今日それを補っておくことにします。

  

(1)日本政府・与党は、戦後の日本の要であるポツダム宣言・日本国憲法・財政法をずたずたに切り裂いてしまい、その延長で改憲も狙っています。これにはアメリカの世界戦略が絡んでいて、一筋縄ではいかないところがあります。しかし、戦後の日本は、軍需産業をなくして平和産業に徹する、軍隊をなくして平和に徹する、というのが基本です。
 主権主権在民・恒久平和、平等互恵、これを「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と前文に書いている憲法を持っている国ですから、守らなければまさに憲法違反なわけです。
 ところが、戦後の日本は、9条を無視し、財政法を無視し、アメリカの圧力に、軍事的にも・経済的にも屈することで活路を見出してきたわけです。その結果、日本全国が様々な危険にさらされてきました。米軍機の墜落などの事故、米軍人の犯罪、米軍基地・自衛隊基地があることによって生じる被害・災害などがそれです。最近はPFASなどの汚染がひどく、従来にも増して日米地位協定の見直しが必要なことがこと言われるようになっています。経済的には、たとえば郵貯資金を欲しがったアメリカの要求で郵政事業を解体・民営化しましたが、これが失敗だったことははっきりしています。
 私は、そういうことの大本がアメリカにあることがはっきりしているので、アメリカから日本を守れ、というのですが、決して言いすぎとは思っていません。政府も与党も、そしてまた時々与党に手を貸す野党も、もっと自国や自国民の利益を優先して考える「愛国者」になってほしいと思ってます。オット、だいぶ熱くなりました。

  

(2)戦後の日本は、平和憲法を持つ国です。この平和憲法を持つというのは、上に書いた憲法前文のほか第9条がまず思い浮かべられますが、これに伴う「第7章 財政」と財政法の諸条項が欠かせません。
 たとえば、財政権限・予算の作成と議決、課税権限(強い意見が出やすい法人税や所得税を下げて、福祉のためといって消費税を3%・5%・8&・10%と引き上げる)、財源(国債に頼らない、借金しない財政)、継続費〔軍艦・戦闘機製造費のためにのみある制度〕、公共事業費(国民生活のためというよりも、ゼネコンやアメリカ資本の要求による大規模事業)と補正予算(公共事業費の上乗せ)などです。
 つまり、憲法を無視して武器輸出できる国にしてきているばかりか、憲法が機能するための経済基盤をゆるがせにしてきたわけです。
 日本国民が稼ぎ出す所得の2倍の借金を持っていて平気でいられるなどどう考えてみ異常というしかありません。阪神淡路・東日本・熊本、そして今度の能登、そういう災害が「順番待ち」のように次々に起こってきましたし、おこることが予測されているわけです。これは、日本だけでなく、世界的のもう言えるはずです。ならば、日本こそが率先して財政をその方向に向けていくことができるのでなければならないはずです。
 それが実際にはそうなっていませんし、パーティー券やキック・バック問題でもわかるように、何も説明できないまま処分が決まり、処分を受けた側が文句を言う事態ですから、それでは、政治はよくなりませんし、財政も機能しないのは当たり前です。

  

(3)実は、日本の戦後経済の復興過程で、財政制度の民主的改革について議論がありました。要するに、上のようなヒドイ財政運営にならないための模索です。
 日本の財政や財政学は、官僚の統治術として発展してきた「正統派といわれたドイツ財政学」の影響を強く受けてきました。戦後もその性格を脱することがなかなかできませんでした。
 その時に、昨日取り上げた宇佐美誠次郎先生が「国民の問題としての財政」に変えていく切っ掛けを作りました。それは『財政学 上巻』(法政大学出版局、1956年、146ページ)として刊行されていますが、これ以降、多くの著書が刊行されることになります。いまその論争史は省略しますが、1970年に20刷、82年に24刷になるというように、教科書としても、財政学方法論としても注目されました。

   

(4)先生に「下巻はいつ出ますか」と伺いました。初めて会うような人は、重要な関心事ですから、必ず伺ったと思ってよいでしょう。すると、先生は、
 「下巻を書くよりも、上巻を書き直す方が先・・・」
 というのが常でした。
 失礼ながら、書けなかったようです。何回か伺ったことがありましが、いつも同じ返事でしたから、そう見えます。
 ともかく、昨日取り上げた宇佐美誠次郎『財政学』は、先生が「普段どのような構成で「財政学総論」を講義されているのかという観点からも多くの方から関心をもって迎えられました。先生としても、責任を果たせたと思われたのかもしれません。

  

(5)ついでに書いておきます。
 相澤秀一『財政学』(三笠書房現代学芸全書87、昭和16年5月、211ページ)という本があります。財政学の勉強を始めたころ、財政学とか財政論というタイトルのものがあれば買って読んだものですが、この本は、書名は『財政学』ですが、奥付は『財政論』となっているので興味を持って読んで、後ろの方の刊行予定のところに、宇佐美誠次郎『支那近代経済論』というのがあり、図書館で検索しても見つからないので、そのことをお話ししたところ、「よく気が付いたね」というふうにニヤリとして、
 「あれは、あれだけ・・・」
 とのことでした。
 
 これにて。
T



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No.134 思い出すこと 10

2024-04-09 00:35:51 | 追憶
   
  〽あっかいはなつ~んで~ あ~のひとにあげよ

(1)私は、理由はいろいろあるのですが、財政学の講義をまともに受けたことがありませんでした。最初は、ゼミの宇佐美誠次郎先生を日本経済論や経済原論が専門と思っていました。しばらくたってから、財政学総論を担当されていること、大内兵衛先生のお弟子さんであること、昭和財政史、とくに「臨時軍事費特別会計」や「金融」などなどを執筆されていたと知って、モグリで聴講に行こうかと思ったこともないではなかったですが、なかなかその機会がありませんでした。
 法政大学の大学院に入った1979年と思いますが、先生があと2年で停年となるために財政学総論の講義もなくなることを知りました。そこで、記録に取る許可をいただいて、大教室のまん前に陣取って、テープに取りながら聴講しました。毎回、やや大きめのラジカセをかついでいって無事取り終えました。一度の休講もなく15回採録できました。

(2)細かいことは端折りますが、テープは自分が3分の1を、残りの3分の2は学部のゼミ生が起こし、しばらくして先生が心筋梗塞で倒れてしまわれたので、OBの諸先生が集まって文章を整え、1982年にこれが法政大学通信教育部のテキストになりました。
 
  

 留学から帰って、また前と同じように先生宅へお伺いしたとき、上の写真のものができてきていて、先生から直接にいただきました。そして、これに私が見入っていると、先生が遠慮がちに
「献辞を書こうか」
といわれ、つぎのように書いてくださいました。

  

 この時から、もう40年以上がたちました。
 『財政学』と題する本や教科書はたいへん多いですし、いまでもしばしば出版されるのを見ます。しかし、その中でもこの本はたいへんわかりやすい。とくに、財政学がどういう学問か、どういう発展をしてきた学問なのかを学ぶには、いまでもこれに代わるものはないといってよいでしょう。
 前にも書きましたが、財政学は用語が面倒なのと金額が大きいのでとっつきにくい学問ですが、この本は、先生の生の講義の声が聞こえてくるような本で、わかりやすいです。この本と講義のテープは私の財産です。

(3)その後、先生は病気から回復されて、この本に手を入れて、1986年に青木書店より出版されました。

  

 この本には、「人名索引」と「事項索引」がつけられ、講義調ではなく、読み物としてスッキリとしたよい本になりました。しかし、この本も今では絶版になってしまいました。運が良ければ古書店で手に入ることがあるかもしれません。あったら「買い」です。
 とはいえ、先生には申し訳ない言い方ですが、私は法政大学通信教育部のテキストの方が好きです。理由は、先生の生の声が聞こえてくるように思うからです。寡黙な先生が、マイクを使っていたとはいえ、朗々と講義をされる姿が今でも思い出されるからです。

   

(4)上に書きましたが、私の恩師は宇佐美先生、その恩師は大内先生・・・、ですから、ちょっと言葉にしにくいですが、つまり、私は大内先生の孫弟子です。まあ「不肖の」です。大内先生も迷惑と思われていることでしょう。
 ということは別にして、『大内兵衛著作集』(全15巻、岩波書店、1975年頃刊)があります。このごろは読む人がどれほどいるのかわかりませんが、古書目録によく出ます。しかも、どういうわけか、注意して見てると、1冊ずつだと3000~5000円するものが、15冊全巻まとめて買うと1500円くらいで買えます。経済学をやるなら「買い」です。まずこれからといってもよいでしょう。
 この中には面白いものがたくさんありますが、第8巻に「経済学」が入っていま。これが実にわかりやすく、中身が濃い。
 また、見ると「序」に、「もと、法政大学の通信教育の経済学のテキストとして書かれた」こと、また「これを使って、私は、東京大学の教養学部で経済学の講義をやって見た」と書かれています。

 確かめたわけではありませんが、宇佐美先生が私に書いてくださったの献辞の意味には、この大内先生のテキストに対する感慨も含まれていたのかもしれません。いまではそう思っています。

   
    山椿



 


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No.133 思い出すこと 9

2024-04-07 19:58:46 | 追憶
  

(1)昨日の「ファンタージア」は「ファンタジー」の誤りでした。
 今日はユー・チューブで6人の「ファンタジー」の演奏を視聴しました。視点はどんな解釈をして演奏しているかですが、注目したのは、リュートによる演奏と、それに近いギター演奏をする人のものでした。
 なお、演奏会用?などは、演奏としては華やかだったり、個性があってよいかもしれませんが、練習者としては興味を引かれませんでした。これは、みなさんもぜひどうぞ。

  
  
(2)さて、たとえば、およその日本の地図を描いてみてください、といわれたとします。その場合、皆さんはどうされますか。たいがい、まず4つの島を描くでしょう。
 では、佐渡島はどうしますか。佐渡の人なら入れるでしょう。
 淡路島や種子島、沖縄はどうですか。
 いちばん西の与那国の人は与那国島を描くでしょうか。南の小笠原の人はどうでしょうか。
 日本の地図としてどこまでが表象に浮かべられるかは、その人の国土理解に、あるいは、ふだんの教育などに左右されるでしょう。
 ちなみに、よく政府が「北方領土4島返還」だとかいっていますけど、あれは間違いですね。北は、カムチャツカの南にある占守〔シュムシュ〕島からが、正式な条約に基づいた日本の領土です。不正な戦後処理で占拠されたものを甘受しては国際社会では恥ずかしい行為と思います。

 たいしたことではありませんが、ドイツ留学の帰りのシベリア鉄道の車中でのことです。
 安いコンパートメント〔4人部屋〕でロシア人の老婦人と話していた時、モスクワからハバロフスクまでの日程を示すためにざっと路線図を描きました。その際、中央にバイカル湖を描いて、その西にイルクーツク、東にモンゴルへの分岐点になっているウラン・ウデを記入して、その間をかまわず直線で結びました。すると、それを見ていた老婦人は、私の手からボールペンを取って、イルクーツクからウランウデの間をバイカル湖の南に迂回する経路に描き直しました。
 もちろん、私もそれを知っていましたが、日程の方に関心があったので略して結んだわけです。しかし、その人の意識からすると訂正が必要だったわけです。
 些細なことですが、意識の差というものをおもしろいと思った瞬間でした。

  

(3)私がシベリア鉄道に乗ったのは1981年9月でした。モスクワから来た列車はハバロフスクからウラジオストックへ行きますが、ウラジオストックは軍港なので外国人を入れませんでしたから、我々はハバロフスクで下車、一泊させられて、チーヒーアキアンスカヤ〔太平洋〕という港町行に乗り換え、そこから、フェリーで津軽海峡を通過して横浜に至るという経路たどりました。
 ところが、チーヒーアキアンスカヤでパスポートのチェックがありました。この時、それまで、ポーランドでも、モスクワでも、なにも言われなかったのに、係官が気づいて問題視しました。
 ほかの人は事務的にちらっと見てサッと返却されるのに、私だけ、ほかの係官が一人呼ばれて鳩首相談。それでも終わらず、こちらを見たかと思うと、上官を呼んでまたまた鳩首相談、そしてこっちを見たので、私が「何が問題ですか?」と尋ねました。もちろんロシア語です。すると、上官が「名前が間違っている」と説明しました。
 それで私は言いました。
「それは発行者の初歩的なミスです。私はわかってました。」
 というのは、OSAWAはロシア語表記ではOCABAで問題なかったのですが、SATORUはCATOPYとなるべきところをCATOPИとなっていたのです。UとИ〔イ〕は筆記体にすると同じなので、ドイツ人の発行者がУ〔う〕とすべきところを間違ったわけです。
 そのことを言ったところ、上官が「ハラショ」といって、船中の人となりました。

  

(4)もう一言いいですか?
 船は津軽海峡を通過し、翌朝になりました。
 太平洋側へ出ましたから、少し波が荒くなっていました。それで、船酔いを警戒しましたが、それは思いのほか平気でした。
 海ですから何もありませんが、太平洋の荒波を見ていると、段ボール箱がいくつか漂流しているのが見えました。私は、「誰かが荷物を落とした」・「早く知らせなければ」と思い、落下物を確認するために窓ガラスに額を近づけて左右を見ました。すると、なんと、右の方でロシア人の船員がつぎつぎに投棄しているではありませんか。
 「なんだ、あれはゴミか」と、その時は安心しましたが、よくよく考えると、ああいうことをずっとやってきたことが推測出来ましたから、なんとも複雑な気持ちになりました。
 東北の震災でガレキが問題になりましたが、ロシア・フェリーによる投棄がずっと続いていたとすると、ガレキどっちが多量なのか。
 その後、新聞の記事や投書でその件についてのものを見たことがないので、いまも気になっています。

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No.132 思い出すこと 8

2024-04-07 00:48:32 | 追憶
  

(1)今日、No.130で取り上げた安川加寿子さんの『トルコ行進曲』を、ネット検索したところ聴けました。1960年ころの演奏・録音ですから、時代性も伝わってきましたが、あの頃聴けて良かったと改めて思いました。
 併せて、最近の人の演奏を3曲聴きました。
 録音・再生技術もピアノの性能も向上していて、いまのピアノの音の方が澄んでいます。画像を通じて演奏技術〔テクニック〕もよくなっているのだろうと思われました。でも、洗練されすぎて?感動がないですね。
 まあ、高橋竹山の津軽三味線と最近のコンテストの出演者の演奏の差というようなことです。竹山のは、どんなに忙しいところでも音に丸みというか余裕があります。最近の人のもテクニックはあると思うけれども、あの鉢巻やらタスキやらをして演奏している姿に表れているように、競争している雰囲気なんですね・・・。え!、ますますわかんない?

 では、それはやめにして、一つ、できないかもしれない「自慢話し」をしましょう。 
 なにかというと、「トルコ行進曲」をクラシック・ギターで弾いているのが出てきましたことです。これも3人の演奏を聴きました。じつに鮮やかでしたから、みなさんもぜひご覧ください。といって、ミーハーな私は弾いてみたくなりました。
 え?どのくらいの実力かって?
 そうですね、「ラリアーネ祭」を終えて、いま「ファンタージア」の後半に入っています。
 ブログの時間を少し削って、1年くらい集中すれば、たぶん行けます。ゴー!
 「ファンタージア」が終ったら挑戦してみようと思います。
 もう楽譜は画像で確認できましたし、演奏の雰囲気はいつでも画像で確認できますから、大いに見込みありです。
 今年は暑い夏になること請け合いです。

  

(2)1970年4月6日、大学入学のため、知り合いの車で、当座必要な荷物と一緒に上京しました。場所は池袋西の椎名町です。
 荷物を片付けると、「上京したら、いちばんに連絡する」と約束していたY君に早速に電話連絡しました。すると、Y君は「部屋を見たいから行く」と言いました。
 椎名町駅で待ち合わせて、部屋で話しているうちに、共通の友人のA君のことに話が移り、Yが言いました。
 「Aが〔ある話をして〕大澤に顔が立たないから、会わないようにしているといった」と。
 「この話の中身はじつはウソ」でしたが、その時は驚いてしまい、なによりも自分の不名誉を晴らすことが先だと考えて、Aを尋ねることにしました。Yとは「いったん部屋に戻ってから行く」というので、池袋で別れました。

 なお、これは自分の身に降りかかったことを思い出として記録するまでで、一切はカンバコへ入れて持っていくべきものです。

 Aの家に行くと、「元気だったか、明日上京する所だった」と歓迎してくれました。
 私は「お茶など要らないから」といって、すぐに今日の経過を話しました。すると一言。
 「全部うそだ」と。
 驚いて、彼を見てもう一度話しましたが、返事は同じでした。
 唖然として言葉もないところへYが来ました。すると、Aが言いました。
 「ひどいじゃないか」
 Yは、この時はもう冷静になっていたのでしょう。
 「すまない」
 と言いながら土下座をして、そのまま帰って行きました。
 
 このとき、もう時間は夜の9時を回っていたでしょう。
 地方のことで、もうアシはないと思いました。
 Aは「いま仮免だけど送ろうか」といってくれましたが、
 騒がせにきて、なお迷惑をかけてるのはよくない、と考えて、
 「いいよ」
 といって、歩くことにしました。
 
 大学紛争のためにまともに受験もできず、仕方なく選んだ行き場でスタートしようとした初日、なんとも説明しようのない事態に遭遇することになりました。
 この日、泣くに泣けず、星空を見ながら約4時間歩いて、夜中の2時ごろ実家にトンボ帰りしました。
 母は、「寂しくって帰ってきた」と思ったのか、驚くよりも嬉しそうでした。
 A君とも、Y君とも、もうその後はありません。

  

 中身がわからないように書けてましたか?
 それなら大成功です。
 要するに、わが人生の出発点で、忘れることができない大惨事があったということです。
 では。 


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No.131 思い出すこと 7

2024-04-06 00:24:43 | 追憶
(1)我が家の近くでも桜が頑張って咲いています。といって、桜というともうだいたいがソメイヨシノですが、近くにある某会社の敷地の一角に、珍しく山桜の立派なのが1本あって、それが大きく枝を広げて咲いています。「ソメイヨシノ、なんのその」という感じです。

 かれこれ10年以上前のこと、コトリさんがそれを啄んできて、我が家の庭で暫時休憩、用足しをしていったようです。その結果が下の写真の桜です。
 花の白と葉の緑が青空に映えて実に鮮やかです。
  
  

 最初は、枝に洗濯物や竿をかけたりして便利に使っていましたが、我が家の令夫人が、ある日その成長の速さに驚いて「庭木には不向き」・「後で処理に困る」と騒ぎ立て、ついには召使たる不肖に伐採を命じる事態となり、なんともあわれな結末となりました。これはコロナ蔓延のちょっと前の話です。
 ちなみに、令夫人は「都会のデパート」が大好き、百歩譲っても「スーパー」が大好き方です。一方、不肖は「山こそデパート」、「山こそなんでもある所」という持論の持ち主です。つまり、水と油みたいな・・・関係です。

 そうそう、「新緑と青空に匂う山桜」、いいですねえ! 
 チョットぼやいておきますと、山桜では外国人観光客は来ないでしょう。けど、観光客とはいうものの、おそらく円安が解消すれば、外国人頼みの観光事業はあたふたするに決まってます。一度ごった返した観光名所地には国内の観光客もしばらく離れるでしょうからね。いまの観光名所の騒ぎ、これも「異常気性」と思います。

  
   どこに華を見るか、それが弁証法。

(2)中学の1年の秋10月に富岡へ転校しました。時期が中途なのには訳があるのですが、それはいま措いて、ずいぶん変わり者が転校してきたと見られていたようです。
 たとえば、こんなです。
 ずうたい体が大きい、ガサツ。声も大きい。バスケットシューズを履いて登校する。登校最初は英語の試験だったが、最高点80点台のところを、教科書も見てないのに68点取った。音楽の楽器として皆がハーモニカを使用しているところで、ピーとスペリオパイプを吹いている。などなど。 
 一般に転校生はおとなしいものですが、自分は物怖じしないので目立ったようです。ほかのクラスの生徒が珍しがって見に来ているのがわかりました。よほどひどかったのでしょう。

 それはともかく、1ヶ月ほどすぎたころ、校内放送で音楽の矢島先生から呼び出されました。
 放送で公然と呼び出しを受けるのは初めてのことです。笛をハーモニカに替えるようにと言われるのかなと思いながら、とにかく行くと、
 「ブラスバンド部へ入らない」
 とスカウト〔勧誘〕されました。
 楽器は好きだし、前の学校にはブラスバンド部などはなかったので、少しその気を示すと、
 「大太鼓をやってほしい」と。
 スペリオパイプなら何でも吹けるくらい練習していたので、できればそれに代わる楽器をと思い描いていたところ、「タイコ」とはなんともがっかり。
 太鼓は、村のお祭りの時にドンドンドンと叩くもので、楽器と思っていなかったのです。しかし、「いやだなあ」と思いながらも、授業後に部室へ行きました。すると、
 「今日は、ロングトーンをやるから、先生のタクトに合わせて大太鼓をたたくように」
 と言われて、なんとかやりました。しかし、退屈で退屈で、
 「そんなのメトロノームに合わせてやればいいのではないか」
 と思ったので、次からは行かずにいました。すると、また呼び出されました。
 先生はなお勧誘してくれましたが、
 「ほかの楽器ならやるけど、太鼓はおもしろくない」「それよりも柔道部へ入りたい」
 といったところ、もう呼び出しはなくなりました。
 
 音楽はリズム次第です。リズムがしっかりしていると、それでもう音楽です。そこに音が乗れば色が付きます。
 思うに、矢島先生は、皆がハーモニカを吹く中でも、笛を聴いてくれていたのでしょう。
 私が、リズム楽器の重要さを知るのはずっと後のことで、アフリカの奴隷のことなどを知るようになってからだと思いますが、先生が、私のリズムのとり方を信用してスカウトしてくれたのかと思うと、申し訳なかったと思うばかりです。
 いま、ブラバンだけでなくいろいろな演奏を見ると、かならず大小の打楽器に注目します。自分にはああいう協同作業はむずかしいと思いながらも、もしやっていたら、これも人生の転機だったのかもしれないと思うことしきりです。

  
  すみれ:我が家の庭には3種類咲きます。
 
 なかなか進みませんが、今日はこの辺で。

 そうそう、このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記』を知ってもらうために始めたものです。忘れてません。
 

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