青い山脈 奈良光枝ソロ 1973年「なつかしの歌声」より
コニー・フランシス 想い出の冬休み(日本語)1963 / I'm Gonna Be Warm This Wint
私は
常に不安と苦悩の人生である。
その原因を考察すると
内向的で社会性が欠落し
社会生活や仕事がうまくいかず
貧乏に陥り
安い糖質食でしのいで
栄養失調となり
体調がわるくなる
という負の循環を
繰り返している。
人生は四苦八苦であるのは
自明だし
メンタリストDaiGo氏の言われるように
マルチタスクをシングルタスクにすれば
不安が低減するのは
頭では理解できる。
しかし
おそらく一般人は
仕事のし過ぎで体調がわるいか
私のように栄養失調で
体調がわるいかで
苦悩しているのではないか。
ならば
仕事を減らして質素に生活するか
栄養のよい食生活をするのが良いと
悟った。
いまの
本会事務所の家賃は
1万2千円である。
都会ではあり得ないだろうし
最近の贅沢な人は
ユニットバスでない所で生活することは
想像できないだろう。
ただ
固定な経費を減らし
かっこつけなライフスタイルを捨て
真のミニマリストになれば
食費や時間に余裕が出る。
そうすれば
米や袋ラーメンやソーメンで
しのぐという生活から抜けて
豆腐やがんもどき
クルミやミックスナッツ
アーモンドチョコレートやピーナッツチョコレートの
健康的な生活が出来る。
つまり
最近の人々は
かっこつけなのだ。
お金持ちや
セレブになる人や
芸能人は
特別であり
一般人が真似をしても
仕方がない。
田舎者に限って
かっこつけに拘り
服や車や家や墓にお金をかけている。
私は
プラントスリーや
トムトムで服を買う(滑川市)。
また
最近の人々は
かっこいい仕事を撰ぶから
仕事がないのだ。
仕事は
人の嫌がる
しんどい
汚い仕事を撰ぶべきなのだ(特別な才能があれば別だが私は無能である)。
何れにせよ
分際をわきまえ
不要な見栄や経費を削減すれば
健康的な食生活が出来るので
苦悩は減ると思うのである。
おわり
高橋記
常に不安と苦悩の人生である。
その原因を考察すると
内向的で社会性が欠落し
社会生活や仕事がうまくいかず
貧乏に陥り
安い糖質食でしのいで
栄養失調となり
体調がわるくなる
という負の循環を
繰り返している。
人生は四苦八苦であるのは
自明だし
メンタリストDaiGo氏の言われるように
マルチタスクをシングルタスクにすれば
不安が低減するのは
頭では理解できる。
しかし
おそらく一般人は
仕事のし過ぎで体調がわるいか
私のように栄養失調で
体調がわるいかで
苦悩しているのではないか。
ならば
仕事を減らして質素に生活するか
栄養のよい食生活をするのが良いと
悟った。
いまの
本会事務所の家賃は
1万2千円である。
都会ではあり得ないだろうし
最近の贅沢な人は
ユニットバスでない所で生活することは
想像できないだろう。
ただ
固定な経費を減らし
かっこつけなライフスタイルを捨て
真のミニマリストになれば
食費や時間に余裕が出る。
そうすれば
米や袋ラーメンやソーメンで
しのぐという生活から抜けて
豆腐やがんもどき
クルミやミックスナッツ
アーモンドチョコレートやピーナッツチョコレートの
健康的な生活が出来る。
つまり
最近の人々は
かっこつけなのだ。
お金持ちや
セレブになる人や
芸能人は
特別であり
一般人が真似をしても
仕方がない。
田舎者に限って
かっこつけに拘り
服や車や家や墓にお金をかけている。
私は
プラントスリーや
トムトムで服を買う(滑川市)。
また
最近の人々は
かっこいい仕事を撰ぶから
仕事がないのだ。
仕事は
人の嫌がる
しんどい
汚い仕事を撰ぶべきなのだ(特別な才能があれば別だが私は無能である)。
何れにせよ
分際をわきまえ
不要な見栄や経費を削減すれば
健康的な食生活が出来るので
苦悩は減ると思うのである。
おわり
高橋記
昔から
日本の浅はかなアカデミズムで唱えられてきた説に
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は
一神論で
不寛容と戦争と自然破壊の源泉だとする
極論の誤謬がある。
ギリシャ、ローマ、日本の神々が
寛容な神学であり
寛容な多様社会のモデルである
等々。
そもそも
日本の神道神学においても
一神論的な傾向に帰着しているし
阿弥陀如来や大日如来の信仰も
一神論的な世界観である。
では
現代において
差別や虐待、事件をもたらしている
同調圧力と不寛容は
どこから来るのか。
実際
宗教的観念、教義と
不寛容とは
何の繋がりもない。
真に宗教的な世界観を
極めた人は
寛容であるし
安易に宗教的同調圧力をかけたり
モラハラする正義の味方
宗教内部で自己満足、自己完結したりする
しょぼくれた幼稚な傾向を示す人々は
大概
三流宗教者
勘違いな宗教的人物である。
つまり
ニューエイジは
多神教な寛容神学だとするような
極端な一般論は
それ自身
多様で属人的な要素を
捨象した
不寛容な一般論である。
日本の宗教社会学は
明治以降
深化していないし
その稚拙さが
近代日本の
愚鈍な外交と大東亜戦争の不寛容に繋がったことを
そろそろ
大悟すべきである。
完
高橋記
日本の浅はかなアカデミズムで唱えられてきた説に
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は
一神論で
不寛容と戦争と自然破壊の源泉だとする
極論の誤謬がある。
ギリシャ、ローマ、日本の神々が
寛容な神学であり
寛容な多様社会のモデルである
等々。
そもそも
日本の神道神学においても
一神論的な傾向に帰着しているし
阿弥陀如来や大日如来の信仰も
一神論的な世界観である。
では
現代において
差別や虐待、事件をもたらしている
同調圧力と不寛容は
どこから来るのか。
実際
宗教的観念、教義と
不寛容とは
何の繋がりもない。
真に宗教的な世界観を
極めた人は
寛容であるし
安易に宗教的同調圧力をかけたり
モラハラする正義の味方
宗教内部で自己満足、自己完結したりする
しょぼくれた幼稚な傾向を示す人々は
大概
三流宗教者
勘違いな宗教的人物である。
つまり
ニューエイジは
多神教な寛容神学だとするような
極端な一般論は
それ自身
多様で属人的な要素を
捨象した
不寛容な一般論である。
日本の宗教社会学は
明治以降
深化していないし
その稚拙さが
近代日本の
愚鈍な外交と大東亜戦争の不寛容に繋がったことを
そろそろ
大悟すべきである。
完
高橋記
Chinese Music_春江花月夜 by 童丽 (A Moonlit Night On The Spring River) with Lyrics