songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

なんだこの集団圧力の幼稚さ? 達郎さんの名前出せばみんな見に来るもんなあ

2023-07-15 01:09:08 | マスコミ関係
死ぬほど達郎さん関連のレス、記事が林立し、みんな幼稚な正義感と音楽をごっちゃまぜにして騒いでいます

まあ正直非常に気分が悪いのです
味方か敵かで牙向き合ってんじゃねえよってやつ

それじゃ私たちは今後一切ドガの美術品など見てはいけませんし、全部燃やしてしまわなければいけません
モーツアルトの音楽なんか聴いてはいけません 捨てなさい
マイケルジャクソンなんて未来永劫許してはいけません
大瀧さんが尊敬していた以上フィル・スペクターサウンドなど絶対に聞くべきではない。

達郎さんの語りで十分でないところもあったでしょうし、ある程度知っていたけど踏み込んでいなかったことは事実でしょうし、古い体制を引きずっている権威であることは否定しません。
達郎さん本人もある程度わかっていらっしゃると思います。

じゃあどうしろと?

達郎さんの口から、芸能界の性被害を撲滅するように声を上げてジャニーズ事務所を訴え、世間に広める運動をすべきだと?
それはどうかと思うのですけどね

批判的な意見の中でも、理性的な人達の意見の大半は、「やっぱりジャニーズ関係の仕事は今後、しばらく控えていただきたい」でしょうし、そうであってほしいとは思います
でも達郎さんと言う人は、「馬鹿言ってんじゃねえよ、作る縁があったらやるよ」でしょうけどね
ある程度彼のファンであった人ならば、そこまでわかっているはずです。これが山下達郎さんと言う人だと
美化するわけでもないし、普遍的な価値観とも思いませんし、私は肯定も否定もしません。いままでだって、購買者の私が気に入れば買い、気に入らなかった時は買っていなかった、それだけです。

ですが決して、「見損なった、もう買わない、捨てる」などの「宣戦布告&ネガキャン」を大声上げて偉そうに言うような愚かさは許すわけにはいきません

私自身若かった時、気に入っていた音楽家とか、ミュージシャンはたくさんいました。
そして、「よい音楽を作る人に悪い人はいない」とよく言われる言葉に薫陶を受け、そういうものだと信じていました。
ですからその分、尊敬していた音楽家の方にスキャンダル、犯罪があったりすると、自分のアイデンティティーは激しく揺さぶられ、ひどく裏切られた気分になったものです。1度や2度ではありません。
いまだに妻などはお気に入りのミュージシャンが、自信の最も嫌うたぐいの罪を犯したりすると、「もう二度と聴かない」というタイプです。
しかしそれを繰り返す中で私は学んだのです。「違う。」と。
いい音楽と、作ったり表現したりする人物の人格とは、必ずしも一致するばかりではないのです。

現代の芸能界では、その人物の印象というタレント性と売り上げが密接に結びつきがちなので、特に今の40代以下の世代には難しいのかもしれません
だが我々の世代、音楽はもう少し独立性があり、「偉い」ものだったんです。
それはそれ、これはこれ、が、当たり前のものとして、音楽の価値は尊重されていたのです

私見を述べます

私の世代は達郎さんの音楽、サウンドに感銘を受け的人が多い世代です。
でもそのファンの中でも好みはいろいろ分かれているようです。私はアナログ最終期の録音が一番好きなので、特に2010年代以降では正直新曲はあまり聴いておりません。
かといって全然「見限った」「ファンをやめた」「もう聴かない」なんて気持ちにはなりません


現在問題で、犯罪級に悪質なのは、そういう宣言をする「壊し屋」がヒャッハー状態で荒らしまくっていることです。
これを達郎さんのせいにしてはいけません。彼の責任ではありません。「壊し行為」をすることに対して、責任を持っているのでしょうか?
私は聴きたいと思っています。でもこういう執拗な壊し行為により、聴くことが憚れるような風潮が作り出されたとしたら、これは達郎さん本人の責任範疇を超えたところまでの影響に思われます。
要するに、誹謗中傷、名誉棄損です。


次に、性犯罪について

今回は、日本一の権力を握っているジャニーズ事務所の創始者が起こしたとされる性犯罪です。30年以上前から騒がれていました。日本中のマスコミでかん口令が敷かれていたかのごとく、触れてきませんでした。
もう亡くなった方ではありますが、功績は功績、罪は罪。被害者の方の二次被害にならないことに慎重に配慮し、今度こそ「報道すべきところ、報道せずに守るところ」のガイドラインを明言し、
補償と再発防止に努めてほしいと願います。

今回は性的な嗜好がやや特殊に近かったこと、かかわった人物の知名度、影響力など重なり世間から注目を浴びました。

しかし、女性はどうですか?
年端もいかない少女たちが芸能活動のために性的被害にあっている事例をなんとなく想像するに、これは歴史も含めると天文学的な数の例が出てくるに違いありません
もう、今テレビで活躍していらっしゃる人のうち、ベテラン含めほとんどの方になにがしかあったと考えたほうが自然なぐらいの実態が疑われます
広告代理店の過去のいろんな話を聞くにつけ、そう思わざるを得ません。もちろんこれは憶測の域を出ません。
憶測ついでに。日本含め芸能界は、太古の昔から、そういう関係で結構な割合の芸能人が活動してきたと思われます。罪と言えば罪です。現在の価値観だと、許しがたいことは、絶対たくさんあったはずです。
先ほども少し書きましたが、美しいドガの絵など、舞台裏を知ったら悪寒でどうかなりそうな世界です。でも、当時はそれで成り立っていた。

「そういうご褒美でもなけりゃ、こんな仕事やってられっかよ!!」というぐらい理不尽な仕事である可能性も想像してしまいますが、繰り返しますがこれは悪しき昔の価値観
結局ジャニー氏も性的嗜好こそ違えど、そういうところがあったのかもしれません

で、それらを何百年にもわたって調べつくしていく、その覚悟はありますか?? まあ無理ですので、今は少なくとも現在芸能活動に携わっている人の中で、そういう方面のつらい思いで心に傷を負って、誰にも言えずにいる人たちの心の救済が大事かと思われます。
ここで厄介になってくるのが、いわゆる「枕営業」ですね。
チャンスのためならば自らを犯罪レベルの行為にさせてでも、つかみに行っている子たち。それと「泣き寝入り」のことの区別は難しい
かといって罪を「それに乗って手に賭けた大人」ばかりに着せていくのは、まったく根本的解決になりません

芸能関係の各社が、調査には真摯に応じ、予防対策をしっかりと示していく以外ないのかもしれません。広告代理店は、少しは健全になったのでしょうか?

ただね

もしかしたら今後、つまらない芸能界ができていくようになるのかもしれませんよ。
おそらく今唾棄されるレベルで批判されている「古い体制の」世代のお偉いさんも、その前のさらにとんでもない時代を知っているから、現代でも十分まともになっていると思っているはず
「清らかならば何でも優れていて、そしてすべてが許される」それが本当に良い時代なのかどうか

お気を付けください それがはびこるころには巨大な「闇」が暗躍するはずです
確か、「政府を動かせばいい」とか言っている方々がいらっしゃいましたよね
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どんぐり音楽会出演の思い出 その10 エピローグ CBCからまさかの…

2023-07-02 01:03:14 | 音楽
【出演後、学校では】
 テレビ番組に出られたということは貴重な経験だし、今でも「あの時、思い切って動いてよかった」と思える出来事なのですが、当時の自分にとっては微妙でした。
 私は、会場の多くの人たちに失笑を買うようなことをしてしまった。あれが放送されるのだ、と。
 やはり出演するときは我を忘れてうぬぼれてしまうもので、「自分はあの場で大喝采を受けてチャンピオンになり、ヒーローとして収録を終える」ぐらいの気持ちになってしまいます。もちろんそれを人に事前に宣言などしませんが。
 しかし少なくとも自分は思ってもみない失敗をしていて、全然かっこよくなかったのです。放映までの2週間、なんと言えばよいのかわからない気分でした。

 担任の先生は、社会が専門の先生でした。テレビ局の様子、収録の実際など、何かと詳しくみんなの前で発表させようと声をかけてきました。

 大人になるとわかります。今でも、「マスコミ、テレビ局の仕組み」は、5年生の社会の授業で取り扱う重要な単元。それを自分の学級の児童が生で体験してきたというのだから色めき立ちます。100の資料よりも1の生体験。ぜひ学級で披露してほしかったのでしょう。その気持ちは、今では痛いほどわかります。私が担任だったとしても、絶対にそうします。

 ですが、私はプチ傷心状態。そんな大人の事情など分かるわけがありません。おまけに、今調べてわかったのですが、おそらく当日のCBCは、著作権その他の関係から、放送局に入ったらもう写真の撮影は禁止。我が家には当日撮影した写真が1枚も残っておりません。2回前の歌っている写真は、出演後、CBCから郵送されたものです(後で述べます)。
 当日の出来事も、ここまで延々述べてきたほど複雑で、とても簡単にスピーチできるほどまとめることができません。一応学級で簡単に話しましたが、まったく的を射ない話しかできず、担任の先生も肩透かしだったことだと思います。

【2月19日放映当日とその後】
 我が家には、その頃購入したばかりのカセットテープレコーダー(ラジカセではない)があり、それに録音しようということになりました。全部を録っても仕方がないので(?)、自分の歌った部分など一部にしようとしました。ライン録音の機能はありませんでしたので、「生録」です。ですから、録音中は家族みんな、黙って見ていなくてはならず、ちょっとしたストレスでした。(もう残っていないかな…?この時の録音)
 祖母も見てくれて、喜んでくれたように記憶しております。

 ビデオ録画は、当時は一部のお金持ちだけの道楽でした。まだVHSもベータもない、Uマチックと言われる規格のテープと機械で録っていた時代です。クラスに一人だけ持っていた家庭があって、録画をしてくれていました。
 それを学校で見せてくれたかもしれません(そのあたり覚えていないです)。「あげようか?」と言ってくれたようにも覚えています。ですが、うちに「録画できるような機械」を買う財力もなく、確かテープも高価なはず。そんなこんなで、ありがたい申し出ではありましたがお断りしました。VHSテープが一般的になって、我が家でもビデオの機械が買えたのはその6年後のことでした。
 放映翌日、私は少し気まずい思いで学校に行きました。かっこ悪い姿をひけらかしてしまったな、と。
 でも、クラスメイト達はみんなそんなこと気にせず、「よかった。面白かった。狩人と一緒だったね」と、温かい言葉をかけてくれました。
 考えてみれば、自分たちも小学校卒業間近。お互い少しずつ大人な会話ができるようになりつつありました。みんなのねぎらいや温かさが、本当にありがたく、ほっとしたことを覚えています。


【最後に、CBCからまさかの…】
 賞品で頂いたハンバーグの素やカステラなどは、本当にありがたく、どれも美味しかったため、しばらくの間我が家の食卓やおやつの時間を充実させてくれました。以前の予選の時は記念の鉛筆もいただいたように覚えています。また、出演の時にはめていた「どんぐり音楽会」のバッジもそのままいただきました。

 放映されたころでしたか、CBCから封書が届きました。
 ご出演ありがとうございました、という内容のお礼状でした。律儀でこれもありがたく思いました。2回前のところにある写真はこの時同封されていたものです。当日写真撮影は禁止されていたようで、あの写真は局の方から、記念に、ということで頂いたものです。先日実家でアルバムを見ていたら、その写真が挟んであったので、ブログで使わせていただきました。

 そして、そこに、もう1枚の手紙が…
 45年も昔ですのでうろ覚えですが、このような内容でした。

「どんぐり音楽会、出演おめでとうございます。司会の石川進です。あなたの活躍、素晴らしかったですよ(活字なので全員に同じ文書を出したと思われる)。これからの頑張りにも大いに期待します。
 さて、私、キューピーちゃんこと石川進、実は、タレントや司会もしていますが、実はプロの歌手でもあるんですよ(知ってた)。私も歌手として頑張っていますが、みなさんのような新しい時代を背負っていく子たちを、音楽の面でサポートしていきたいという夢も持っているんです。
 もしも、これからも歌の世界で頑張っていきたい、という夢をお持ちならば、私と一緒に夢をつかんでいきませんか?私は今、名古屋を拠点にスクールを開いていて…(事実この4年後に岡崎市に音楽学校を設立なされます)

以下にある案内状を保護者様と一緒にお読みいただき、よろしければご連絡ください。云々…」


 そうです。これは、石川さんの個人的な「スカウト」なのです。

 私も一瞬ミーハーな夢に揺り動かされそうになりましたが、家族は冷静でしたし、自分も声変わりを控えていたし、そんなことのために名古屋に通う気などさらさらないし、どうせこういう通知は出演者全員に送っているし。
 でも正直罪なことをなされる方だと思いました。中学校進学を控えている子どもの不安定な心情のところに、こういう誘惑をかましてくるのは、いかがなものかと。

今までにも述べてきましたが、自分は猛烈な音楽好きだったと思います。音楽を学ぶような環境はほとんど家にはなかったけれど、「もしも歌って生きていくことができるなら」と思うことさえ、少なからずあった少年時代です。そんなところにこんな通知が来れば、やっぱり心はざわつきます。

でもいろんな現実も分かりかけてきていたこの時期。お誘いはありがたかったですが、返信はせず、どんぐり音楽会を含めたこの件は、幕を引きました。


今だったら、どうなのでしょう?
放送局からの郵便に、出演タレントによる個人的な芸能事務所の入所案内なんて、同封することが許されているのでしょうか?しかも、番組ぐるみでやっている感、ありありでした。
あの番組の提供会社の中に、「石川進音楽学校」でも入っているのならばわからなくもない話ですが…おそらく現在こういうことをやったら、コンプライアンス的にアウトだったのでしょうね。

どんぐり音楽会は、その数年後、司会がマイク真木さんに代わって1983年まで続きました。
小学生が歌謡曲を歌うばかりの番組、メディアへの登竜門っぽい印象がどんどん強くなり、番組としての使命を終えたのでしょう。


長々と、すみませんでした。全く自分の記憶を失わないようにするためだけに書いたようなシリーズですので、客観性を欠き、寄り道だらけの駄文となったことをお詫び申し上げます。
でも、こうやって書き残していると、やはり思い出は甘酸っぱく、温かいものだと感じます。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その9 収録のその他、その後へ

2023-06-24 22:01:58 | 音楽
風がはこぶもの【本田路津子さんの曲を 五十路後半男性だけど歌います】


【本番中あれこれ】
①本番中のおしゃべり
 これは放映後、同級生に言われたことでしたが、
「ねえ、〇〇君(私のことです)、控えの席のところで、他の出番の女の子としゃべっていたじゃん。どうしたの?もう仲良くなっちゃったの?」
普通、出演者が歌っていたり、話していたりする番組の進行中に、私語などもってのほか。自分でもその指摘を受けるまでは覚えていませんでした。が、言われて少し思い出しました。
どの時間帯だったかは忘れましたが、確かに収録中、控えの席で隣の女の子に何かしゃべりかけられました。私も何も考えておらず、気が緩んでいたのでしょう。(とすると歌った後だったのかも)普通に受け答えをしていたのです。そんなことが一瞬あったことは思い出しました。しかしそれが、はっきりと何らかのアングルで映り込んでいたらしい。ビデオがほとんどない時代で録画がないからわかりませんが、多くの子がその場面を見ていたらしく、「仲良くなっちゃった?」とか詮索してきて私も慌てました。話しかけるほうも話しかけるほうですが、受けて答えていた私も大概ですね。

②あわて床屋
 確か本番前の最後のリハで(この時は全員歌う場面は省略させられました)、番組の最後にみんなで一曲歌うという流れがありました。この週のラストの曲は「あわて床屋」でした。
 しかし、出演者ほぼ全員がまともに歌えないという事態が発覚!私もかすかな記憶しかなかったので、歌いながらおぼろげな記憶を引っ張り出し、「ああ、こういう曲だった」と、でも気持ちよく歌わせていただきました。自分としては、出番で歌った「落ち葉」よりも、こちらのほうが、伸び伸びと気持ちよく歌えていた記憶があります。
 でも、私の世代でも、もう誰も知らない曲になっているということも自覚した瞬間でした。父からはずっと言われておりました。「テレビで流れるような流行歌ばかり歌うような人間になるな。日本には、唱歌、童謡という立派な文化がある。そこに歌の基礎があるのだから」と、
 だからと言ってエリート教育的に童謡ばかりを子どもに聴かせるようなことをされた覚えはないのですが、身の回りで歌われていた童謡は普通に聴いていたし、まだ私の世代では、ぎりぎり、子どもたちの遊びの中で自然に童謡を口ずさみ合うような生活、文化が残っていました。ですから「あわて床屋」もすぐに記憶のかけらを呼び出して歌うことができたのですが、ほかの出演者たちにとってはさっぱりだったようです。

 おそらく審査員に水谷俊二先生がいらっしゃったこともあり、あの「最後の歌」のコーナーは、子どもたちに、唱歌や童謡を大切にしてほしいという願いで設けられた時間枠だったのではないかと、あの時にも思っていたし、今もそう信じております。石川進:キューピーちゃんの歌もお見事でした。

③狩人「若き旅人」
 狩人のお二人にとっては凱旋出演だったのかもしれませんね。国民的大ヒット曲「あずさ2号」から、「コスモス街道」、そして1977年末に発売した3枚目のシングル「若き旅人」と、ヒット曲を連発していらっしゃいました。
 「どんぐり音楽会」では、この「若き旅人」を歌われておりました。そしてその時初めて、私は「カラオケ」という言葉が業界にあることを知ったのです。
 
私たち出演者は、みんな、生のバンドをバックに歌いましたが、ゲストの狩人さんが歌うときには、そのバンドの皆さんは演奏されていませんでした。その代わり、モニタースピーカーから、豪華な演奏が聴こえ、それをバックに狩人さんは歌っていらっしゃいました。世に言う「カラオケ」です。

そんな仕組みがあるとは知らず、少なからず私はカルチャーショックを覚えました。1970年代は、まだそういう時代だったのです。その「カラオケ」という言葉が世の中で普通に使われるようになり、国民がみんなマイク片手に歌うようになったのは、その数年後のことでした。

私たち出演者は残念ながら狩人のお二人と直接会話やコンタクトを取ることはできませんでしたが、以前述べさせていただいたような経緯で、私は(おそらく)特別に、狩人さんのサイン色紙をいただくことができました。
収録終了後、提供各社からの参加賞としていろいろお土産をいただいて両親のいる客席に戻っていく私は、どうやっていただいたのか覚えておりませんが、こっそり狩人さんのサイン色紙も持っておりました(おそらくほかの出場者の方は頂いていないと思います)。
すると、目ざとい狩人ファンのお姉さんたちがそれを見つけたようで、私に話しかけてきました。

「あー、サイン持ってる!いいなー!」「ねえ、お願いだから譲ってくれないかなー…
なーんて嘘だよ。おめでとう。大事にしてね。」と、本気とも冗談とも取れない言葉をかけられました。私はいきなり話しかけられて思わず身構えてしまいましたが、この言葉に、「ああ、狩人さんはいいファンをたくさん獲得しているんだな」と(今の私の言葉でいうと)、やけに心が温かくなった記憶があります。

前回の写真にも少し載っていますが、この時の出演者に送られた参加賞は、
・(例の)オリエンタルハンバーグの素、マースカレーもあったと思う
・ハワイの飲み物、グアバ
・長崎堂のカステーラ
・サンビシ醤油詰め合わせ
・納谷橋饅頭  だったと思うのですが、写真を見るに、すでに納谷橋饅頭は提供を撤退していたのかもしれません。私はことのほかあの納谷橋饅頭が大好きだったので、親が遠出した時は必ずお土産にお願いしていたぐらいでした。ですからこの時ももらっていたような気もするのですが…わかりません。

「どんぐり賞」(その週のチャンピオン)は取れませんでした。もしもとっていたとしたら、それこそ中学生になって、チャンピオン大会に出なくてはならなかったのかもしれませんが、まあ、そこまで上手ではなかったということだったのだろうと思います。

かくして収録は終わりました。この夜は親子3人で名古屋駅の飲食店エリア「廣寿司」に行き、食べた「江戸」というメニュー(まぐろと鉄火だけ)のおいしさに驚いたことを覚えています。ねぎらいの言葉ももらいました。今でも名店ですが、「廣寿司」は当時テレビCMも流していたほど有名で、父母も昔名古屋住まいだったこともあり、きっと精いっぱいのご馳走を考えてくれたのだろう、と、今更ながら有難い思いです。父母亡き今、あの夜の食事の時間を思うとぐっと胸に来るものがあります。

④おまけ
で… この日の「どんぐり賞」を取った人
後々じわじわ来た名前の人なので覚えています。「中島美雪」さんと言いました。ただしこちらの地方ですので、「なかしま みゆき」と読みます。シンガーソングライター中島みゆきさんの名前を耳にしたとき、どこかで聞いたことのある名前だよな…と考えていた時に、思い出したのです。「あ、あの時のどんぐり賞の人だ」

そして彼女が歌っていた歌が、本田路津子さんの「風がはこぶもの」


今回動画投稿させていただいたいきさつは、ここからなのです。もちろん大好きな曲です。歌いながら、ずっとどんぐり音楽会のことを思い出していたので、自分の記憶、記録用に、連続して投稿させていただきました。


で、あと少しだけ追記させていただきます。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その8 それなりに頑張ったけど、不完全燃焼だった本番

2023-06-19 20:35:49 | Weblog
実は出演前、局から事前アンケート用紙がきておりました。そこには次のような2点のことを書いておりました。
「思っていること…出演者が女の子ばかりになってきている。男の子がどんどん出てくれるといいと思います」
「得意なこと…ハーモニカが大好きです。2台持っています。1台は学校で使うヤマハツーライン。もう1台は個人的に持っているハーモニカ。学校のやつは表と裏で、ハ長調とヘ長調の二つの音階でできているから便利です。でも、家のやつは、音がよく響くのです。(※これは複音ハーモニカと呼ばれる、一つの音に対し2枚のリードが使われるハーモニカのことです。2枚のリードはわざと微妙にピッチをずらしてあるため、吹くとそのうなりがビブラートのようになって、豊かな音色となるのです)ぼくは、ツーラインで、よく音の響くハーモニカが出ればいいな、と思っています」

その事前の情報を、番組内で話してもらえるようなことを本番前に聞きました。
今考えると、贅沢な話です。一介の小学生のたわごとを、テレビ番組内で拾ってもらって採用してくれるというのですから。

【本番収録で覚えていること】
 自分では意識していなかったのですが、けっこう必死の30分間だったのだと思います。のちに本放送、1978年2月19日のものを見たのですが、あまりしっかりと様子を覚えていないんです。「どんぐり音楽会」は収録番組でありながら、時間的な編集作業は一切なく、一発撮りをそのまま放送していました。
・ディレクターの合図待ちで本番スタート。おそらく出演者全員でステージに立ち、顔見せをしたのでしょう。その後待機の席に戻って、出演時以外は進行を見て楽しんでいました。もちろんかなり緊張はしていたはずですが。

・3人の審査員の先生がいらっしゃって(そのうち一組は狩人のお二人)、ひとり持ち点が10点、30点満点で審査されていました。この中に水谷俊二先生がいらっしゃったことを覚えています。

名古屋少年少女合唱団の主宰としても知られる水谷俊二先生。ご自身も声楽家。愛知教育大学名誉教授でいらっしゃることは、ネットで検索した今、初めて知りました。とすれば、そこに通っていたうちの子もどこかで水谷先生のお世話、薫陶にあずかっていたかもしれません。親子二世代で。ありがたいことです。

というのは、私の両親が水谷先生のファンで、自然私も水谷先生に勝手に親しみをもっていたのです。
・この方の歌に対する評価が大変適切であること。
・基本の歌い方を大切にされていらっしゃること。
・(我が家と同じで)歌謡曲のちゃらちゃらとしたものを子どもが歌ってテレビで披露する姿は若干苦手。童謡など、純粋な歌唱力で(今言うと語弊があるのだろうけどね)勝負してほしいというスタンス、芸能界への道具として手を貸すような真似だけはしたくない

そういう匂いがプンプン感じられる先生だったのです。

さて収録に話を戻します。

【オープニングの石川進さん】
これは収録直後に父が言った言葉ですが、
「石川進はやっぱりすごいな」と。
オープニングトーク第一声が、例のアシスタントさんの
「いやー寒いですねーー!」だったのです。(私は覚えていませんでしたが)
ですが、そうです。これは収録。
収録日の2月1日は本当に寒い日だったのです。おそらくこの第一声は、アシスタントさんの、思わず漏れてしまった「リアルタイム」での感想。帰り際に父が言ったのです。「だって、19日が本当に寒いかどうかわからないじゃないか。未来の予測できないときの時候の挨拶というのは、怖いから普通しちゃいけないんだ」と。
そういう「テレビ的な事情」が、あの時代にしてわかっていた父もすごいと思ったのですが、石川進さんは、次のように返したのです。
「そうですね、寒い日が続いてます、でもね、今日は19日で、暦の上では『雨水』っていうんです。どんなに寒い冬も、今日あたりから、温まり始まる…っていうことで、春を待ちましょう。」
こう返してくれれば、この日がどのような気候であっても、違和感なく聞こえるわけです。さりげないフォローができる石川さんに、父は「プロだなあ」と感服したそうです。

【シンプルな伴奏】
自分は確か4番目ぐらいの出演だったと思います(違ったかも)。
紹介の時の石川さんの声が、「それでは、本日の『黒一点』です。」でした。
上記の資料の「出場者が女の子ばかり」を読んでくださったのだと思います。実際この頃から、出場者が女の子ばかりの週がざらにありました。
読んでくれていて、ありがたいな、と思うと同時に、なんだか妙な注目を感じてしまい、緊張が増したことも覚えています。

歌唱については、まあまあの出来だったと思います。

なんと言っても一度も事前に合わせていない伴奏で歌うのですから、しかもリハーサル時に「歌い出せない」というパニックを経験しているのですから、行けるのかどうか、いろんなことが気になっていました。
実際の演奏は、例の打ち合わせたバンドリーダーさんのギターがほとんどで、ベースとドラムが一部で申し訳程度についたものだったのではなかったかと記憶しています。まあ、問題なく歌えました。もちろんほかの出場者の子たちのような、演奏の派手さも、ドラマティックさもありませんでした。

でも、それで、私には十分でした。その日たった1回の歌唱がそこでやり切れたのですから。


【テンパって、痛い場面を作る、しかも2回】
歌い終わったところで、プレッシャーから解放されました。同時に頭の中は何もありません。
石川さんが、「どうですか?あがっちゃったかな?」と質問されて、思わず、「あ、あがっちまった」
と言いかけ、「あがっち…ました」で会場の笑いを誘ってしまいました。

自分自身は、そういうことで失笑を買うことを想定もしておりませんでした。今ならば、「あ、おいしいところもらった」とみんなに笑ってもらえるようにふるまうのでしょうが、当時の自分は、繕い笑いしかできませんでした。
そして、例の「ハーモニカ」のことを尋ねられたのです。石川さんは、「君はハーモニカが好きなんだって?」と尋ねただけだったのですが、私は、先ほどの失敗を挽回しようと、こともあろうに、応募票に書いた通りのことを一生懸命説明しようとしました。
思い出しても、痛い、痛い。まるで自分に音楽の知識があることをひけらかすかのような言い方で。
石川さんは、それをうまく受け流して笑いに変えてくれるリアクションをしてくれました。あちらのほうが音楽のスペシャリストだというのに。

会場は大いに盛り上がりましたが、私は、自分がおもちゃにされたことのありがたみを少しも理解できていなかったのです。
「わかってもらえなかった、バカにされた、恥をかいた」
この思いが後を引きました。

さらに、例の番組終了時のインタビューでも、考えていた通り一生懸命アピールしようとして空回り。やはり会場の失笑を買う結果に。思い出すたび心がズキズキ痛みます。

45年経った今でも、この時の経験は、ほろ苦い教訓を残す思い出です。

得点は、30点をいただきました。
講評が水谷先生だったことはうれしかったです。「上手に歌ったね。でもね、声がもっとお腹から出せるようになるよ。呼吸の仕方を勉強していってください」というありがたいお言葉でした。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その7 本番直前ってこんな感じ

2023-06-11 17:27:26 | ライフ
【とにもかくにも一発本番】
 前回のトラブルがあったことで、私は番組の進行についてほとんど何も練習、リハーサルをすることもなく、本番の収録に臨むことになってしまいました。私のような出演者のトラブルのために、時間を作り直すことなど無理だったのです。出演者の皆様や観客のタイムスケジュールもあります。
 他のみんなはばっちり本番通りの流れを一通りやっているのに、自分だけは3分の1ほどの情報しか得ていないままの、文字通りの一発本番の収録が始まろうとしていました。

 何が不安って、バックのバンドの皆さんと、一度も音合わせをしていないのです。前奏も分からない、どんなアレンジで来るのかもわからない。もちろん音量や、自分の出す声がどのように会場に響くのかも、とにかく何もわからない状態。今考えても、よく平気な顔して出演していたものだと思います。

 幸いだったのは、私は幼少期からこの番組をテレビでとことん見てきていたので、ほとんどの進行を自分でつかんでいたことでした。

 本番直前のホール。
…とにかく、すごい観客数に驚きました。超満員です。
 狩人のお二人さんは、やはり飛ぶ鳥落とす勢いのアイドル。しかも地元出身。あと、本番中にもお二人が語っていらっしゃいましたが、どちらか、または二人でこの「どんぐり音楽会」に出演されたこともあったらしい。石川進さんの「何点だったの?」の質問に「29点です。(30点満点)」と発言されて笑いを取っていましたが、あれは場を和ませるサービスで、実際には30点満点を取っていらっしゃったのだろうと、今になると思います。

学級の友達の、「ゲストが狩人でよかったね」の意味が、ようやく分かった気がしました。こんなところで歌うんだ。と。ありがたいことではありましたが、緊張も高まりました。

「前説」と言われる本番前の、ディレクターさん?の話の中で、
「CBCには、よく要望が来るんですよ。毎週人気のある歌手を呼べって。でもね、こればっかはなかなか難しいんですよ。こちらも努力しているんです。」というような内容のことをしゃべっていらっしゃったことを覚えています。そのうち、私も番組中の立ち位置を教えてもらい、流れを一生懸命覚えていると、アシスタントのお姉さん(すみません、名前は失念しました)が言いました。

「あなた、番組終わりの生CMのインタビューに答えてね。」

番組の流れを知っている自分でしたので、何を要求されたのかは即座に理解しました。この「どんぐり音楽会」では、一通り番組が終わるときに、お姉さんが出演者の一人にインタビューをして、放送上のCMをするのです。

「君は、ハンバーグは好きかな?」
「はい、大好きです。」
「家で、お母さんにハンバーグ作ってもらってる?」
「はい、作ってもらっています。」
「…はい。会場に来ている出演者の子も、家で作ってもらうハンバーグが大好きです。この、オリエンタルハンバーグの素を使えば、ひき肉と混ぜるだけで云々…」という流れ。
毎週テレビでやっていたので、どう答えればよいかは十分わかっていました。実際に我が家では、このCMに影響されて、この提供社、「オリエンタル」のハンバーグの素でよくハンバーグを作ってもらっていました。

まだ本番前なので気楽だった私は、お姉さんに、「うちでは本当によくこれでハンバーグ作ってます。」とぽつんと言ったら、思ったよりも反応してくださって、「えっ!?そうなの?じゃあさ、本番のインタビューでもそのこと言ってみてよ。頼んだよ。」と。

お姉さんは純粋にうれしくて、何気なくお愛想も含めて私に振ってきたのでしょう。しかし、私は違いました。「え……。これは何とかしなくては」

【生意気な出しゃばり】
傲慢にも自分は、それまでずっとテレビでその「スタジオCM(?ホールか?)」見ていて、若干イライラしているところがありました。「インタビュー受ける子たち、みんななんて下手なんだ」
歌はうまいのに、こういうインタビューを振られると、ぼそぼそと、言わされた感満載の答え方しかできない子ばっかじゃん。CMとして全然生き生きしてないじゃん。自分だったら…

小学生にしてそんなことで不満持っていたなんて、身の程知らずの傲慢も甚だしく、顔から火が出てしまいますが、確かにそういうことは思っていたのです。
客観的に見れば、本番のリハをたった一人やっていない大ピンチの場なのに、
「よし、最高に効果的なインタビューの受け方にしてやろう」なんてことで「とらぬ狸の皮算用」でほくそえんでいました。

悪いフラグ、立ちまくりですよね。新しいハードルができただけなのに。

そして、本番収録が始まりました。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その6 本番前

2023-05-29 01:20:06 | ライフ
【スタジオリハーサルへ】
2回目のCBCホール。同じように客席へ行くのかと思ったら、受付後、出演者のみ別の場所に案内されて、もうそこで父母とは別行動になっていきました。予備知識が何もなかったものでしたから、さすがに不安になりましたね。あれから半世紀近くたった今、思います。あの時間帯、父母はどうしていたのだろう?と。多少リラックスして新栄あたりで過ごしていたのか?父母亡き今となっては、もうわかりません。
出演者用の通路沿いだったか、目立たないところに、CBCがテレビを始めた当初のテレビカメラが資料として置かれていました。大掛かりで古めかしいカメラに驚き、生意気にも、「こういう昔の機材なんかが一般公開されてみんなで見学できるような施設があるといいなあ」なんて考えていました。
今のCBCホールはどうなのでしょう?もう15年近くあのあたりには足を運んでいません。
話はそれますが、うちの子が小学生時代、何かの絵のコンクールに入賞して、展示施設がCBCのギャラリーだったので、懐かしくて足を運んだことがあります。でも、少なくともその時は、そのような施設はなかったように覚えています。歴史ある放送局なのですから、そういう施設も作ってほしいと願ってしまいます。

話がそれました。ホールに連れて行かれ、いろいろ担当の方が進行を説明されました。私は、もうこの時から、司会の石川さんとか、水谷先生はじめとする審査員さん、ゲストの狩人のお二人がいらっしゃるものだと思っていたのですが、そうではありませんでした。


【事件発生・曲が違う!!】
「とりあえず、皆さん、バックのバンドさんと一緒に音合わせをしておきましょう」
ということで、マイク前での立ち位置などを教えてもらいながら、一組ずつ歌っていきました。
私は、4番目当たりの出演順だったのでは?という記憶です。ところが…

なんだかさっぱりわからない前奏が流れます。曲調が明らかに違います。どこでどう歌い出せばいいのか、さっぱりわかりません。パニックになっていると、当然担当者が怒ってきます。
「何やってるんだ!?練習してきたんでしょ?」
もう1回前奏からやってもらうのですが、やはり何ともつかめません。自分が悪いのか、自分は音痴になってしまったのか?…でもしばらくして落ち着き、ようやく自分にも、「間違えているのは楽団側だ」と気づいてきます。
「『落ち葉』はそういう曲ではありません。」
楽団やディレクター側はそんなはずはない、という態度でしたが、これもしばらくして、本当に何らかの手違いで、まったく違う楽譜がバンド側に渡っていたということが分かってきたようです。
もちろん現場はプチパニックです。

「じゃあ、君はちょっと別室に来て。あとの子は音合わせとリハーサルを続けるよ!」
私は別室(と言ってもおそらくホール横の薄暗い空間)に連れられて行きました。
本番を前にして、私はどうなってしまうのだろう?出演させてもらえなかったら???など、何とも言えない不安な時間でした。

ギターを持った、バンドの方と思われる方が私のところにやってきました。
「で、本当はどういう曲だったの?」と、やさしく聞いてくれました。もうこの時の私は、「自分がしっかりしていれば、何ら臆することはない」の境地でした。
楽譜は、持ってきていなかったと思います。「小学校の教科書に載っている曲で」と説明しても、あちら様が持っているわけがありません。一般的にはほとんど知られていない曲なのです。「どんぐり音楽会の思い出 その3 たった一度の予選会」の時に述べた、コピーという言葉が頭をよぎります。おそらくその予選のあと、何らかの手違いが生じたのでしょう。

偉そうなこと言いますが、この時、自分に多少の楽譜の心得があったことが幸いしました。
この時私は一生懸命その方に歌って聴かせ、楽譜上どういう音の動きなのか、速さやリズムはどうなのか、などを楽譜用語を交えて伝え、何とか曲の流れを理解していただきました。
あの時、自分に楽譜の心得がなかったら、私は本当に出場できなかっただろうと思います。私は当時ピアノも何も音楽の習い事をしていなかったので、私の音楽のお手本は学校の音楽の授業だけでした。
音楽が本当に好きだったので、習ったことをもとにして楽譜を読んだり、知識を付けたりしていました。それを家でハーモニカで吹いたり、リコーダーで吹いたり。鍵盤楽器は家にありませんでしたが、高学年になって、その頃世に出始めたばかりの「鍵盤ハーモニカ」なるもの(当時4000円)で楽しんだり。
それが、窮地を、とりあえずは救ってくれたのです。

ギターを持った方は言ってくれました。
「ありがとう。ごめんね、こちらの手違いだったみたいで。お詫びに、何かできることある?」
とのことですので、
「あの、狩人さんのサインいただくこと、できますか?」と、ダメ元で聞いてみました。すると、
「わかった。本番後、特別にプレゼントするね」

何ともありがたい話でした。当時人気絶頂の狩人さんのサイン。
引っ越しを重ねた我が家で、今、どこにあるのかわからないのでお見せできなくて恐縮ですが…もし見つかることがあったらアップさせていただきますね。

浮かれていた私でしたが、そうです。本番撮影は、すぐそこまで迫っていました。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その5 本番までの日々

2023-05-08 00:48:11 | ライフ
【レコード盤で練習】
予選を通ったことについて、学校の先生も喜んでくれたのだと思います。音楽を教えてくださった先生が、「レコードシングル盤」を貸してくださいました。「これで練習しておきなさい。」
私の家にはピアノはありませんでしたしもちろん弾けません(ピアノが入って練習することになったのは高校生になってからのことです)。

カセットテープレコーダーの普及率もこれから、音源はレコード盤だけ、という時代でした。
本番に向けて、より良い歌を歌いたいと思っていた自分にとって、ありがたい話でした。ちなみに両親が働いていて私はかぎっ子、一人っ子だったので、留守番していてちょっと暇があれば、気が向いたときにレコードをかけて一人で練習する、と言ったのん気なものでした。
学校の放送室では一人で歌えても、両親の前で一人で歌うことには抵抗があったのです。こう言ってはなんですが、あまり褒めてくれる両親ではなかったので、いい気持ちで歌えなかったですね。親の前で歌った経験はあまりありません。
自分で気持ちよく歌っていられればいい、人に文句を言われたくない、という、かなりわがままな態度でしたので(今でもそうかもしれません)、人前で歌って、何か指導してもらうなどという気分の悪いことなどしたくありませんでした。
祖母もよく出かけていたので、一人きりの時を中心に歌っていました。それが私にとってのレッスンすべてでした。
学校の先生も、そのレコード盤を貸してくれただけで、特に「レッスンするか?」という声がかかってきたこともありませんでしたし(先生の立場上も、それがベストだったのでしょうね)
両親も、予選が通ったからと言って何か態度を変えるわけでもなく、「どれ、お前の歌を聴かせてみろ」もありませんでした。まあ、私にはそれが一番気楽でよかったです。

レコードで練習している中で、自分なりに課題が見えてきました。「伴奏のテンポに合わせていると、息が続かないこと。」「変声期とは言わないまでも、声の高さが落ちかけていて、高音を体で支えにくくなっていること」等
どうすれば解決できるのか、わかりませんでした。でも、こういう性格でしたから誰かに教えを乞うこともせず、何とか頑張ればいいか、ぐらいでした。お世辞にも練習熱心ではなかったですね。その時の気分がいいかどうか、だけが、練習する、しないの基準でしたから。でも、音楽は大好きでしたのでいやになること、飽きることは全くなかったです。


【連絡待ちの日々 ずる休み??】
予選が11月だったので、遅くとも年内には収録に関する連絡が来るだろうと待っていたのですが、なかなか連絡が来ないのです。ついに、年を越してしまいました。
今だったらメールやらホームページやら、いろんな方法で気軽に問い合わせができるのですが、この時代の方法は二つ。郵便か電話です。
「それでも予選を通ったのだから、まさか忘れられていることはないでしょう、わざわざ問い合わせしなくても」と、やきもきした正月をむかえました。
でも、下手したら自分は小学校卒業しちゃって、出場資格を失ってしまうのでは、と、いらぬ心配ばかりしていました。無用なストレスが溜まります。友達にもまだ何も言えないでいるし。
(実際卒業してしまった子もいたのではなかったかと思います。そういう場合は特例で、応募時小6、という断りで出ていた子がいたような記憶があります)

これ以上待てない、いよいよ局に電話か、と思っていた1月も冬休み明け、ようやく通知が届きました。本番収録は2月1日水曜日の午後から。

ほっとしたと同時に、次の心配が浮かびます。
水曜日??

どう考えても、通常の学校の授業日です。早退しなければならない。でも、なんと言って??
「家の都合で早退します」
今ならば、周りの子もそれほど気にしないことですが、この時代の田舎です。病気でもなく学校から去ることは、「ずる休み」以外の選択がなかったのです。
そんな悪評を広められたくない。

…まあ収録の段階まで行ってしまえば隠しようがないのですから、そこまでのサプライズをねらっているわけでもないし、この段階で学級の仲間には事情を話すのがベストタイミングと考え、
「どんぐり音楽会に出演するので早退」を学級で公表しました。収録1週間前だったかもしれません。

思っていた以上に、驚かれました。
以前の「化石のトンネル」みたいな偶然ではなく、割と知られているテレビ番組に出る 結構な衝撃だったようです。うちの学校で、そういう形でテレビに出る子などいませんでしたから。
仲間の食いつき方が、「化石のトンネル」とは段違いでした。でも、まだ収録前だったし、照れもあるので、あまり語らなかったと思います。

2月1日の収録は2本立て(2週間分の録画)、とテレビではすでに放映されていました。
ゲストは、それぞれの回で、芹洋子さん、狩人のお二人、とテロップに出ていました。
早速学級の友達に聞かれました。
「ねえ、どっちのゲストの回に出るの?」
「狩人のお二人の回だよ。」
「えーーー!!いいなあーー。よかったよね、狩人の回で!」「サインもらってよ」
「いや、それは確かできないはずだから…」

ずいぶん失礼な子だな、とその時の私は思っていました。私にとっては、芹さんも、狩人さんも、とっても素敵な歌手だったので、全く同等に思っていたのです。
でも、同級生の女の子たち、ちょっとませてきた仲間たちにとっては、狩人さんたちは前年「あずさ2号」の大ヒットで、当時トップクラスのアイドル扱いを受けていたのです(収録時に私はそれを思い知ります)。
芹さんも大好きな歌手でしたが、当時の狩人さんほどの勢いには、世間的には及んでいなかったようなんですね。その時は。


そして2月1日水曜日。寒い日でした。
この日のために、両親も服を買いそろえてくれました。おそらく会社にも休みを取ったのでしょう。
なんだかんだ言って、私にとってはちょうどよい距離で気にかけてくれた両親には感謝しています。私もこの歳になるとわかります。恥ずかしいとはいえ、予選を通ったわが子の晴れ姿。嬉しく、誇らしかったのだと思います。
私はそれどころではなかったのですけどね。

学級のみんなに送られて、中央線で名古屋に向けて出発しました。祖母が留守番でした。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その4 予選とその後

2023-05-06 15:01:29 | ライフ
予選の時に進行のかたがどのような指示をしていたのかは記憶にありません。ただ、ほとんどを客席で聴いていたということは、番号順にステージに呼ばれて歌っていたのだろうと思われます。
カラオケがない時代。後ろにはピアノが1台あっただけでした。事前に渡していた楽譜ですべての曲を伴奏されていたのであろうと思うと、まったくもって恐れ入ります。
真ん中にマイクが1本立っています。二人組で出るときは2本立ててくれていたかもしれません。

「マイクの前に立ち位置のテープが貼ってありますから、そこで歌ってください。間違ってもマイクスタンドを持つようなことはしないでくださいね。」
まだ世良公則さんもデビューするかどうかの時期だったから、マイクスタンドを持って歌うパフォーマンスをするミュージシャンもあまり多くなかったような気がしますが、多少はいたのでしょうね。音響の方々からすれば、マイクを触られる、マイクスタンドごと持たれるというのは、最悪の破壊行為でしかありません。もちろん安全性もあります。けがなどされたら大問題です。
それほど言われたにもかかわらず、1,2名の男の子がマイクスタンドをもってかっこつけていました。後ほど叱られていました。

そう、いろいろな面で私は面食らっていたのです。
今までにも述べてきたように、私は、小学校で行われていたあの奇妙な「お昼の放送のア・カペラのど自慢」の延長線上ぐらいの気持ちで歌いに来ていました。だから歌う曲も、教科書の曲や童謡、唱歌レベルで考えていました。
しかし考えてみると、それ以前から「どんぐり音楽会」では、歌謡曲を歌う子が増えていたなあ…と。そして、私が予選に臨んだ1977年あたりでは、出演者の8割が女の子で。特に自分が出演するなら…と考えていた頃には、女の子の出演率がぐんぐん上がっていたのです。
そして、歌のジャンルでも、唱歌童謡、教科書の曲を歌う子はかなり少なくなっていました。ほとんどの子が歌謡曲を歌っていたのです。私だって歌番組は見ますし、歌謡曲も歌っていましたが、それを歌ってテレビに出るという発想はありませんでした。

つまり、予選に出る構えが、根本から違ういろんな子が会場には集まっていたのです。


【予選開始】
いよいよ予選が始まり、いろんな子が歌い始めました。

生意気言うようですが、まったくの素人の自分が聴いても「箸にも棒にも…」のレベルの歌が結構ありました。
歌の最中に、昔の黒電話の呼び出し音のようなベルが鳴るのです。そのベルが1回しか鳴らなかったら不合格、2回鳴ったら合格、予選通過、というシステムでした。(記憶違いだったらごめんなさい)
予想通りというか予想以上というか、9割近い子たちがベル一つで、どんどん敗退していきます。
まるで他人事のように「ずいぶん残酷だなあ」と感じていました。でも思っているより、落ちた子たちも割とサバサバとしています。

近くの席で、女の子が家族や友達と、「また落ちちゃった」なんて言っているのが聞こえました。それで分かりました。
何度もチャレンジしている子たちがいるんだ、と。私が恐る恐る家族と出演の相談をするレベルとは全く違うのです。落とされてもくじけず、メディアに出るチャンスを何度も、したたかにねらっている子たちが、本当に多いのだと感じました。(もちろんそんな子たちばかりではなかったのですが)
ただの度胸試しで遊びに来たぐらいの子たちもいました。実に、いろんな子がいるものだと思いましたね。

その中で、ひときわ目を引く女の子がいました。

見かけは3,4年生ぐらい。予選だというのにドレスを着ています。今思えば、顔もうっすらとメイクしていたと思います。
お人形さんのようにかわいい子。明らかにまわりとオーラが違います。どんなかわいらしい歌を歌うのかと思いきや、歌いだしたのは八代亜紀さんのド演歌。「おんな港町」だったか「愛の終着駅」だったか…どっちにしても超絶難易度の高い曲。声色は全然ハスキーじゃなくて、むしろ「この声なら石川さゆりさん歌ってほしい」と言いたくなるような芯の通った声でした。ごめんなさい、名前は忘れました。
もちろん合格しました。
ところがこの子、自分の席に戻ると、お母さんと思しき方から何やらお叱りを受けているようなのです。きっと細かい表現についてのダメ出しだったのでしょう。
そう。この女の子は素人ではない。おそらく個人レッスン、または芸能事務所所属でプロ歌手を目指している子だったのだと思います。
その後彼女は私の出演した回ではないときに「どんぐり音楽会」に出演して、その週のチャンピオンになっていましたし、前回述べた東海テレビの番組にも出ていました。ちょっとした賞荒らし、有名人だったのだろうと思います。どこに出演するときも八代亜紀さんの歌を歌っていました。
あのルックスと歌唱力なら、おそらく芸能界入りしたと思うのですが、残念ながらその後のことは知りません。

私は当時から「歌」にしか興味がなかったのでわからなかったのですが、その頃にはもう「どんぐり音楽会」のような番組は、ただののど自慢番組から、芸能界への登竜門のような気持で出演している子が多くなっていた、ということになります。ですから今記した八代亜紀を歌うような子は極端だとしても、名古屋にもすでに巣山プロや劇団ひまわりのような事務所に所属していた子は多くいたでしょうし、世に出るための一つの手段、ステップとしてどんぐり音楽会の予選に出ていた子が非常に多かったのだ、と思われます。

むしろ私に対して、「じゃあ、お前はなんでこの番組に出ようとしてるんだよ?」と目的を質問されるほど。

私は歌が好きだし、いい歌披露したいし、歌って褒めてもらえば嬉しいし。本当にそれだけでした。今でも基本それは変わっていません。

さて、私が歌う番になりました。不思議とそれほどは緊張しませんでした。ベルが2回鳴った時は、もちろんうれしかったです。ですが、大した記憶がないんですね。それほど、この予選会で見たいろんな人々や光景が衝撃的だったのです。
両親も喜び、励ましてくれました。がこれも不思議なもので、私と同じくそれほど興奮したわけでもなく、「よかったな。今度は本番だな。」ぐらいの会話でした。

この時何人ぐらいの子が合格していたのかは覚えていません。が、20人はいなかったと思います。私はこの日に合格したメンバーで、本番1回分の収録を行うのだと思っていましたが、そうではなかったのです。他の回の予選通過の子たちもごちゃ混ぜにして、それぞれの収録に振り分けていたようです。


長い長い1日が終わりました。中央線の、遅い電車で家族で帰ったことを覚えています。

予選通過の結果は祖母も喜んでくれ、学校にも、「まだクラスメイトには内緒」ということで通過の報告をしました。

予選を通過すれば、あとは局からの連絡を待って、本番収録に臨むだけなのですが…
次回述べます…
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どんぐり音楽会の思い出 その3 たった一度の予選会

2023-05-04 12:23:38 | ライフ
【祖母の立場】
祖母は静岡県磐田市で生まれ育った苦労人でした。身を持ち崩してしまった祖父に成り代わるも主婦以外やったことがなく、家計は火の車、土地も財産も差し押さえられ、
叔父、叔母さんたち口をそろえて「あの時代のことは思い出したくない」といまだに詳しい話は聞かせてくれません。
父をはじめきょうだい達が就職して自立し、ようやく安定して暮らせるようになった頃に私は生まれたので、私はその時代を知りません。すでにその祖父は亡くなっていました。
私は、兄弟仲の良い叔父さんたちと祖母しか見ておりませんが、その頃の無理が祟ったか、祖母は大病を患い、手術後はその磐田の借家も引き払って、私が小学6年生になる直前にこの岐阜県東濃地方にやって来ました。
嫁、姑同居というやつです。その後3年ほど我が家で暮らしましたが病気が再発し、帰らぬ人となりました。

祖母は、基本私をかわいがってくれました。ちびまる子ちゃんの友蔵じいさん…ほどではありませんが、苦労された割には、楽天的な方だったと記憶しています。
どんぐり音楽会の話が出た時、祖母は開口一番、「出たいって言うんだから、やらしてみりゃいいじゃん」
家に来て間もないころで嫁姑の関係性も微妙だったためか、父母は大きく反対することもできず、予選へのはがき応募へと段階が進むこととなりました。

今、当時の祖母の年齢になって思うのですが、おそらく祖母は、たいして何も深く考えていなかった。
祖母は、この結果私がどうなろうと、一切責任がありません。陰口をたたかれることも、恥をかくこともありません。失うものは何もないのですから、「楽しそうだと思うなら何でもやってみな」ぐらいの気持ちだったと思います。

私は、積年の望みがかなったかと勘違いして小躍りしました。
そうです。話はまだ、「応募はがきを出す」段階にしか来ていないのです。当時の私は、「予選っていうのがあるんだな」ぐらいの認識しかありませんでした。


【予選の時に気づく コピーって何?】
考えていなかった最初の壁は、すぐにやってきました。
予選会実施要項が届いたのです。
歌う曲の楽譜を持参すること。曲名を記してCBCに事前に送ること…のようなことだったと思います。
曲はもう決めてありました。前回記した「落ち葉」(チャイコフスキー、古いフランスの歌)です。私は、自分の学校放送の「のど自慢の時間」ぐらいの認識しか持っていませんでした。
覚えていないのは、「楽譜をどうやって送っていたのだろう?」ということ。この時代私の町には、コピー機というものが存在しませんでした。
父母が印刷屋さんで頼んでいたのか、学校の青焼きコピーだったのか…これが実は後々(だいぶ後で)トラブルの原因となります。

予選は、1977(昭和52)年11月初旬ぐらいだったのではないかと思っております。
日曜日だったのではないかと思います。だから級友たち、誰にも知られずに出ることができました。学校の先生にだけは、知らせてあったと思います。(楽譜のこともありましたし)
もう本当に、このあたりの記憶はあいまいです。
場所は、CBCホールでした。受付をすますと、客席にそのまま通されたと思います。
例の青い椅子。今でこそリニューアルしてきれいですが、1977年当時、すでにシートの色はすすぼけていて、(うわぁ…)と思ったことを覚えています。テレビカメラに映る色と、現実との違いを初めて感じた一瞬でした。

何より驚いたのは、参加者の多さです。田舎者の私は、「出たい子がこんなにもいるのか!!」と驚いたものです。だって6年間通った自分の学校で、この番組に出ようとした人など一人もいませんでしたから。
予選があっても、せいぜい2人に一人ぐらいの合格率で、テレビに出られるだろうと、ホールに来るまでは本気で考えていました。
ざっと数えただけでも、ゆうに100人は超えています。「この中から選ぶのか?」
自分が選ばれるかどうか、よりも、この人の多さに、めまいにも似た感覚を覚えました。しかし、同時に自覚しました。
「この予選が通らなかったら、学年的に、もう二度とチャンスはない。この1回にかけるしかない。」

自分にとって、たった1回の予選会が始まりました。


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どんぐり音楽会出演の思い出 その2 膨らんでいった気持ち

2023-04-30 02:05:48 | ライフ
CBCテレビ(名古屋・中部日本放送)「どんぐり音楽会」は、wikipediaさんによれば、1966(昭和41)年から1983(昭和58)年まで続いた長寿番組でした。東海地区在住の小学生たちが参加していたローカル番組で、基本的にはのど自慢番組であり、『天才クイズ』と同様に主にCBCホールで、完全パッケージの公開収録を行っていました。
日曜朝9時から30分の番組で、毎週6,7組ぐらいの小学生が出演していたように思います。バックには生バンドがあって、審査員は3人。それぞれが10点の持ち点を持っていたようで、歌い終わると得点が出るのです。満点は30点。
今一つだと減点されるのですが、まず26点以下になることはありませんでした。

司会は何人関わっていましたが、一番長く勤めていたのが、「キューピーちゃん」こと石川進さん。私が出演させてもらったときも司会は石川さんでした。その後、マイク真木さんに交代し、1983年に番組は終了していました。もうその頃には私も高校生で、番組を見ることもあまりなくなっていました。
すでに1970年代後半にはライバル東海テレビでも似たような番組(こちらは中学生まで出演できた)が同じ日曜日の午前中に放送されるようになり、世の中にカラオケが普及し、子どもによるのど自慢番組の需要がなくなってきていたのかもしれません。

番組についてはまだまだ語りたいこともありますが、それはまたおいおい述べていくとして、

とにかく物心ついたころから、自分はこの番組に出たいと思っていました。小学校に上がったころにはあこがれていたと思います。
自分の好きな歌を歌って、テレビで注目浴びて、褒めてもらう。何ともおいしい話だ、と、幼心に思ったのでしょう。
テレビに出るとはどういうことなのか、何もわかっていなかった私は、その頃何度か、両親に直訴していたように覚えています。
でも両親はそんなたわごとをまともに受け入れるはずがなく、適当にはぐらかされていました。両親としては、(一応東海では視聴率を取っていた番組だったので)こんなところに息子を出して、恥をかかせたくないし両親自体恥をかきたくない。「お前たちは子どもをそうやすやすとテレビにさらさせるような軽薄でミーハーで芸能志望の親か?」と思われたくなかったのではないかと思われます。第一テレビに出演するまでの道のりや、親のすべきことを考えると、とても「少しも自分の得になどならない恥ずかしいことに労力をかける気にはならない」と思うのは至極当然だったように思います。
自分が親の世代になると、その気持ちが非常によくわかります。

そんな親の気持ちや、出演までのいろんなことなど何も考えていない当時の私は、けっこう訴えたような気もしたのですが、親にかわされているうちに、
「いずれチャンスがあれば出たいな」ぐらいの思いに変わっていき、出演への欲求はそれほど高まってはいきませんでした。

「人前で一人で歌うことへの抵抗感」

多くの人は、一人で歌うのを披露する、なんてことはなかなか抵抗のあることだと思います。昔ならばなおさらです。
クラスのみんなが見ている前で、「歌のテストだ」と言われて歌う気分を想像していただければわかるかと思います。

しかし、私が通っていた小学校には、奇妙な伝統がありました。
給食時間、お昼の放送で、毎週1回行われていた「のど自慢の日」

「今日はのど自慢の日です。今日は〇年生の日です。学級から二人、歌いに来てください。」
入学した当初から、これが当たり前に行われていました。歌いに行く人は、当初こそ希望者制だったのが、次第に順番制となり、のど自慢と言いながら、結局全員が放送室で一人で歌うイベントとなっていました。
今から50年近く昔の話です。伴奏など流れず、カラオケもありません。全くのア・カペラで歌い切るのです。

あまりにそれが日常化されていたので、一人で歌うことへのハードルは非常に低い学校となっていました。と言ってもやはり歌の苦手な子もいて、そういう子たちにとっては苦痛なイベントだったろうと思います。

歌う曲はもちろん教科書に載っている曲で、その時に習っている歌を歌うのが通例でした。または、現在学習中でなくても、その教科書に載っていればよかったようにも覚えています。
その中に、上級生の子がよく好んで歌っている曲で、自分も好きなメロディーの歌がありました。
教科書では、「落ち葉」という題名の曲となっていました。
教科書の曲って、ほとんどがメジャー(長調)、能天気で明るい曲が多かったのですが、その「落ち葉」という曲はマイナー(短調)。メロディアスで、ア・カペラで歌われる曲を聴いていると、なんだか誰が歌っても
上手に聴こえていたのです。

「いい曲だな。いつかはあの歌を歌いたいな」と思って聴いていました。
調べたところ、原曲はチャイコフスキー「古いフランスの歌」。このメロディーに日本語の歌詞を付けたものが当時の教科書に載っていたようです。小学校6年生の教科書でした。(音楽教育図書株式会社のもののようです)

そして、気づけば小学6年生の夏。
ふと思い出したのです。「どんぐり音楽会、出てみたいな」
どんぐり音楽会は、小学生しか出演できません。もう残り時間がないのです。いつ来るかわからない変声期。私は当時、変声に対して恐怖に近い恐れを持っていました。
今の声が出るうちに歌声を広く披露したい。その程度の軽い考えで、再び親に声をかけるも、返事はいつもと同じでした。出たい思いとあきらめの気持ちが葛藤する日々でした。
ところが、そこに思わぬ救世主?が現れたのです。静岡の借家を引き払い、この年から我が家で同居するようになった、「祖母」でした。



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