ひどい事件はまだまだ続いています。
聞けば聞くほど暗澹たる気持ちになるものも多い。
だいぶ前に私は、岐阜県で起きた例をもとに、自分のわかる範囲で述べてきました。
今回おもにマスコミをにぎわしているのは、大津市の事例です。
岐阜県の例との違いは、判明した、起こっていた出来事がどう客観的に考えても、あまりに悪質であること。
だから疑問だらけです。
そして、前回のシリーズで自分が書いたことに対し、自責の念も込めて、一つ論を加えなければならないと思い、筆をとりました。
リーダー(校長など)は、軽々しく「いじめがあった、なかった」は、確証が取れるまで言うべきではない
…が、前回の私の論ですが、一つ抜けていたのです。
「だからと言って、いつまでも未来永劫、『調査中』では無責任であろう」
特に今回の大津の場合、証言が多く、内容もひどい。
「いじめはあったものと思われる」は、早期に公表すべきだったと思います。
ただし、確かに大津側の、一理あると思われたところは、
「いじめを直接の自殺の原因としてよいものかどうか」のくだりです。
いや、私は直接の原因のように感じるのではありますが。
ほかの要因があるという可能性も、常に考えておかなければならない。
また、「いじめのアンケート」の効力と限界も、私たち大人は知っていないといけない。
隠れた叫びや真相を探る「手掛かり」として、また児童生徒の、発しにくい声を出させる手段としても、アンケートは有効です。
しかし、確かに限界はあります。たとえば、信ぴょう性。悪意の有無にかかわらず、どうしても人間の記憶にはどこかにあいまいなところが出てしまいます。
アンケートと直接の懇談で、ある程度のところまでは見えてくると思われますが、決定的な証拠としての説得力までを問われると、難しい。
そしてこれは非常にタブーな意見なのでしょうが、被害者の身体的状況、人格、個性は、全く問われなくてよいのかということ。
7,8年ほど前からでしょうか、「いじめは被害者がいじめと感じたところで、いじめである」と、はっきり定義づけられました。
いじめ、と平仮名で書いてしまうとなんだかオブラートで包んだ感じで嫌なのですが、平たく言えば、人権侵害罪ですね。
これによって、いじめであるかどうかの判断は、ある意味わかりやすくなりました。しかし、「本当にそれでいいの?」と、ちょっとでも想像力のある人ならば、立ち止まるのが普通でしょう。
私はかつて、いわゆる発達障がいと言われる子供たちと、何人も接してきました。厳しいハンデを背負っている子もいましたが、みんな、自分の心に正直で、醜い隠し事をしない子たちばかりでした。しかし、人間関係に関しては苦手なことが多かった。
この子たちにとっては、毎日がいじめです。たとえば同じ発達障がいの仲間同士で、毎日同じ子が加害者であり、その本人が被害者でもある。これを一つ一つ立件していけば、一人につき200件ぐらいの案件が成立してしまいます。
極端と言われるかもしれませんが、通常学級と言われるところでも、実際のところ、「自分の人権が侵害された」と感じる「感度」は一人一人違います。本当の本当に、どんなに感覚を研ぎ澄ませたって、「どうしてそれをあなたはいじめと感じてしまうの???」と理解不能なレベルだって、星の数ほどあります。
いじめは確かに、受けた本人の立場に立たなければならない。しかし、その言葉だけが独り歩きしてしまうと、お決まりの「思考停止」が待っている。その先にあるのは、真相の闇の深まりでしかありません。そして忘れてはならないこと。貴重な命が失われる前に、しなければならなかったことがあったはず。どこかが足りないのです。
聞けば聞くほど暗澹たる気持ちになるものも多い。
だいぶ前に私は、岐阜県で起きた例をもとに、自分のわかる範囲で述べてきました。
今回おもにマスコミをにぎわしているのは、大津市の事例です。
岐阜県の例との違いは、判明した、起こっていた出来事がどう客観的に考えても、あまりに悪質であること。
だから疑問だらけです。
そして、前回のシリーズで自分が書いたことに対し、自責の念も込めて、一つ論を加えなければならないと思い、筆をとりました。
リーダー(校長など)は、軽々しく「いじめがあった、なかった」は、確証が取れるまで言うべきではない
…が、前回の私の論ですが、一つ抜けていたのです。
「だからと言って、いつまでも未来永劫、『調査中』では無責任であろう」
特に今回の大津の場合、証言が多く、内容もひどい。
「いじめはあったものと思われる」は、早期に公表すべきだったと思います。
ただし、確かに大津側の、一理あると思われたところは、
「いじめを直接の自殺の原因としてよいものかどうか」のくだりです。
いや、私は直接の原因のように感じるのではありますが。
ほかの要因があるという可能性も、常に考えておかなければならない。
また、「いじめのアンケート」の効力と限界も、私たち大人は知っていないといけない。
隠れた叫びや真相を探る「手掛かり」として、また児童生徒の、発しにくい声を出させる手段としても、アンケートは有効です。
しかし、確かに限界はあります。たとえば、信ぴょう性。悪意の有無にかかわらず、どうしても人間の記憶にはどこかにあいまいなところが出てしまいます。
アンケートと直接の懇談で、ある程度のところまでは見えてくると思われますが、決定的な証拠としての説得力までを問われると、難しい。
そしてこれは非常にタブーな意見なのでしょうが、被害者の身体的状況、人格、個性は、全く問われなくてよいのかということ。
7,8年ほど前からでしょうか、「いじめは被害者がいじめと感じたところで、いじめである」と、はっきり定義づけられました。
いじめ、と平仮名で書いてしまうとなんだかオブラートで包んだ感じで嫌なのですが、平たく言えば、人権侵害罪ですね。
これによって、いじめであるかどうかの判断は、ある意味わかりやすくなりました。しかし、「本当にそれでいいの?」と、ちょっとでも想像力のある人ならば、立ち止まるのが普通でしょう。
私はかつて、いわゆる発達障がいと言われる子供たちと、何人も接してきました。厳しいハンデを背負っている子もいましたが、みんな、自分の心に正直で、醜い隠し事をしない子たちばかりでした。しかし、人間関係に関しては苦手なことが多かった。
この子たちにとっては、毎日がいじめです。たとえば同じ発達障がいの仲間同士で、毎日同じ子が加害者であり、その本人が被害者でもある。これを一つ一つ立件していけば、一人につき200件ぐらいの案件が成立してしまいます。
極端と言われるかもしれませんが、通常学級と言われるところでも、実際のところ、「自分の人権が侵害された」と感じる「感度」は一人一人違います。本当の本当に、どんなに感覚を研ぎ澄ませたって、「どうしてそれをあなたはいじめと感じてしまうの???」と理解不能なレベルだって、星の数ほどあります。
いじめは確かに、受けた本人の立場に立たなければならない。しかし、その言葉だけが独り歩きしてしまうと、お決まりの「思考停止」が待っている。その先にあるのは、真相の闇の深まりでしかありません。そして忘れてはならないこと。貴重な命が失われる前に、しなければならなかったことがあったはず。どこかが足りないのです。