【どう聴こえているのか、聴こえていたのか】
1週間たってからは、大体同じような症状でした。
とにかく一番厳しいのが、「ヒヨヒヨ」の、変な音程が、正しい音に混じって聴こえている
救急車の音が、あの、長三度の音程で聴こえてこないのには、自分でもあまりの変な音程に笑ってしまい、不謹慎で悲しくなってしまい、何とも情けない気分でした。
小さい音量でも、おそらく一定音域はすべて「ヒヨヒヨ」にかわってしまう。(ひよこの鳴き声のようになる水笛のような音です)
大きい音は、もちろんこもって、割れる。
思い出したようにやってくる耳鳴りや、栓塞感。
左は正常に聴こえているのでしょうが、やはり左耳も「疲れた」と悲鳴を上げているのがわかります。
一般には、普通には、どう聴こえているのだろうか
そんなことばかり考えながら、音を聴き続けている毎日です。
比較することはおこがましくて申し訳ないのですが、例えばベートーヴェンやスメタナのような人たちが、こういう症状から始まる難聴に見舞われていたとしたら、確かに発狂したくなるような気持ちがわかります。
自らが味わってきた、理想とする最高の音の空間を、二度と味わうことができなくなる
たとえ周りの人々が自分の作った音楽で喜んでくれたとしても、自分にはそれを味わうことができない
そう思ってしまうと、やりきれない気持ちになると思います。実際彼らは、そうなってしまい、しかしその中であれだけの音楽を作ったのだから、感服というほかありません。
私の場合、人が歌ったり演奏したりしているところに、「ここはこうだよ」とアドバイスする立場に立つので、正しく聞こえていないことは、非常にまずいのです。
「こう聴こえているんだろうな」と思いながら、というのは、本当に難しい。
9日たち、10日たち、もはや絶望的な気持ちになりかけていました。家族とも話しました。ダメならばダメで、この聴力につき合って生きていかなければならない。こういうものなのだ、と。それに体レベルで納得するまで、時間はかかるかもしれないけど、と。
【希望と喜び】
ところが、13日目のことです。
吹いてきた風が、なんとなく普通に聞こえてきました。今までは、風が吹いても、左側からしかまともに聞こえていなかったのに。
低音が、再び聞こえ始めてきたのです。
ダメなパターンだと、聞こえなくなった音はもうよみがえることがない、と言われていました。蝸牛の中に音を感じ取る毛が何本かあり、そのうちのどれかが損傷することで聴覚の異常が現れると。その毛は再生されることがないので、一度ダメになってしまったら、一生元に戻ることはない、と言われています。
でも、確かに低音が聞こえてきた。
戻れるんだ。
希望が湧いてきました。
それから二日経ちます。
ずいぶん元通りに近い音が聴こえてきているように思います。
まだ耳鳴りもあるし、音割れ等もありますが、格段に減っています。
何より本日の聴音検査で、確かに聴力回復の兆しが確かめられたのです。
完全に治るかどうかはわかりませんが、日常生活上のストレスはかなり減ると思われます。
音楽も、だいぶ普通に聴こえるので、今、また歌いたいという気持ちになっています。
お気に入りの音楽を聴いて、今までどおりに聞こえる嬉しさと言ったら、たまらないものがあります。なんて幸せなんだろう、と。
すごく考えさせられました。
私はつい二日前まで、とても歌を録音して、自分で楽しみたいなどと思うことはできませんでした。相手にどう聴こえるかわからないし、自分も楽しんで聞くことができないし。
現在、再び楽しみたい気もちにはなっているものの、いつまたこんな状況になるかわからない。年齢的にも、成人病や老化は、もう明日やってきても全然不思議ではない。
そんな時、自分は音楽を楽しむことができるのか。
掛け値なしに音楽が気持ちよく聞こえる今、ものすごく考えさせられるのです。
そして、できる限り本当の回復に向かってほしいと思っています。
1週間たってからは、大体同じような症状でした。
とにかく一番厳しいのが、「ヒヨヒヨ」の、変な音程が、正しい音に混じって聴こえている
救急車の音が、あの、長三度の音程で聴こえてこないのには、自分でもあまりの変な音程に笑ってしまい、不謹慎で悲しくなってしまい、何とも情けない気分でした。
小さい音量でも、おそらく一定音域はすべて「ヒヨヒヨ」にかわってしまう。(ひよこの鳴き声のようになる水笛のような音です)
大きい音は、もちろんこもって、割れる。
思い出したようにやってくる耳鳴りや、栓塞感。
左は正常に聴こえているのでしょうが、やはり左耳も「疲れた」と悲鳴を上げているのがわかります。
一般には、普通には、どう聴こえているのだろうか
そんなことばかり考えながら、音を聴き続けている毎日です。
比較することはおこがましくて申し訳ないのですが、例えばベートーヴェンやスメタナのような人たちが、こういう症状から始まる難聴に見舞われていたとしたら、確かに発狂したくなるような気持ちがわかります。
自らが味わってきた、理想とする最高の音の空間を、二度と味わうことができなくなる
たとえ周りの人々が自分の作った音楽で喜んでくれたとしても、自分にはそれを味わうことができない
そう思ってしまうと、やりきれない気持ちになると思います。実際彼らは、そうなってしまい、しかしその中であれだけの音楽を作ったのだから、感服というほかありません。
私の場合、人が歌ったり演奏したりしているところに、「ここはこうだよ」とアドバイスする立場に立つので、正しく聞こえていないことは、非常にまずいのです。
「こう聴こえているんだろうな」と思いながら、というのは、本当に難しい。
9日たち、10日たち、もはや絶望的な気持ちになりかけていました。家族とも話しました。ダメならばダメで、この聴力につき合って生きていかなければならない。こういうものなのだ、と。それに体レベルで納得するまで、時間はかかるかもしれないけど、と。
【希望と喜び】
ところが、13日目のことです。
吹いてきた風が、なんとなく普通に聞こえてきました。今までは、風が吹いても、左側からしかまともに聞こえていなかったのに。
低音が、再び聞こえ始めてきたのです。
ダメなパターンだと、聞こえなくなった音はもうよみがえることがない、と言われていました。蝸牛の中に音を感じ取る毛が何本かあり、そのうちのどれかが損傷することで聴覚の異常が現れると。その毛は再生されることがないので、一度ダメになってしまったら、一生元に戻ることはない、と言われています。
でも、確かに低音が聞こえてきた。
戻れるんだ。
希望が湧いてきました。
それから二日経ちます。
ずいぶん元通りに近い音が聴こえてきているように思います。
まだ耳鳴りもあるし、音割れ等もありますが、格段に減っています。
何より本日の聴音検査で、確かに聴力回復の兆しが確かめられたのです。
完全に治るかどうかはわかりませんが、日常生活上のストレスはかなり減ると思われます。
音楽も、だいぶ普通に聴こえるので、今、また歌いたいという気持ちになっています。
お気に入りの音楽を聴いて、今までどおりに聞こえる嬉しさと言ったら、たまらないものがあります。なんて幸せなんだろう、と。
すごく考えさせられました。
私はつい二日前まで、とても歌を録音して、自分で楽しみたいなどと思うことはできませんでした。相手にどう聴こえるかわからないし、自分も楽しんで聞くことができないし。
現在、再び楽しみたい気もちにはなっているものの、いつまたこんな状況になるかわからない。年齢的にも、成人病や老化は、もう明日やってきても全然不思議ではない。
そんな時、自分は音楽を楽しむことができるのか。
掛け値なしに音楽が気持ちよく聞こえる今、ものすごく考えさせられるのです。
そして、できる限り本当の回復に向かってほしいと思っています。