今回もあんまり文がまとめられない状態で投稿します
特に最近では、今回の参議院選挙の結果など、いろいろとため息が出ています
私生活が忙しく、なかなかこちらが書けないのが悔しいぐらい
で、今回のトリエンナーレ
少女像のことを書いた立場上、どうしても一言、という気持ちになり、取るものもとりあえず
1.トリエンナーレについて
愛知のトリエンナーレは、地元が誇る挑戦的なアートイベントとして、毎回テレビでも取り上げられています。
開催期間中は、地元の人が町を歩きながらにして、そのアートに触れることができるという距離感。
でもここ数回は、以前ほどマスコミで取り上げられなくなってきていると感じていました。
地元では有名なイベントですが、全国的には、まだ知られていない面が大きいと思われます。
「表現の不自由展・その後」は中止にする、ということで、全体が中止になったのかどうか、私はまだ把握していないのですが、
正直申し上げて、「見に来てもいない、主旨も理解していないくせに、匿名の無責任な暴言で簡単につぶすんじゃねえぞこの野郎」
の気分でございます。
簡単に言えば、一つの大きな美術展が、ヒャッハーのパリピもどきにつぶされた、ということです。
非情に気分が悪いです。
2.少女像について
しかし一方で、私がずっと述べていた通り、
少女像については、いろいろと問題があります。
一応作者のコメントでは、「これは、『共に』平和を考えよう」という思いを表したもので、反日の象徴とは考えていない、とのことです。
どちらかと言えば鎮魂の願いを表したもので、芸術品としての側面はそれほど重視していないと取れます。
現実としては、これでもか、と言うほど反日の象徴として使われまくっており、平和を願う、とは正反対の悪用がされております
もっと言えば、日本人という民族は、こういう年端もいかない少女も制の対象として強姦したがる民族だ、という民族バッシングにもっていきたいばかり
だから、この像そのものの芸術性には疑問だらけだし、これを見ることで平和に思いを馳せる日本人はいないし、
発禁処分ならぬ、展示禁止の過去を見せる意図で置いた、とする主催者の考えが分からない
タブーに挑戦したかったと?そんなもののどこに芸術があり、表現の自由があるのか?
誰かの言葉じゃないですが、大多数が不快になるとわかっている作品を、タブーへの挑戦として展示するならば、
誰の目にも簡単に触れられるような場所に置くべきではない
不快(と言うよりはらわた煮えくりかえる)をも芸術と呼ぶ、などとは、「芸術」という言葉の教祖に洗脳された欺瞞でしかない
日本は唯一の被爆国として、広島、長崎にいくつもの「平和の像」を置いています。
しかし、それらを果てしなくコピーして世界中に立ててキャンペーンしようとなど、全くしておりませんし、
被ばくで苦しんだ人たちの像を作って、反連合国キャンペーンを70年以上たってからやろうとすることはありません。
韓国が本当に平和を祈って活動しようとするのならば、戦後日本が行った補償が、自国内で正しく行きわたらず、なおかつ日本人に痛めつけられた人たちが、
自国内でさらにひどく差別され続けてきたことについてはっきりと言明し、国内を浄化するところから始めるべきでしょう。
日本は、慰安婦も徴用工も認めているし、謝罪もしているし、補償もしている
「そんな事実はなかった」と威張って言う日本人に対しては、存分に非難していただいて結構だが、自国(韓国)内での不正や、流していない情報については
もっとしっかり学び、目を覚ましていただきたい。
3.ネットの悪い牙
今回のトリエンナーレをはじめとして、ガソリンをばらまくだの何だのと
過激なことでお祭り騒ぎを起こして、一つのイベントを止めてしまったことについて
ネットの人たちはどう考えているのでしょうか?ただのヒャッハーとしか思えません
一見もっともそうで、面白そうならば徹底的に騒ぎ、正義とやらを武器に無責任に徹底攻撃をする
破壊が勝利である
今回の成功で味を占めたネット民は、今後もいろんなことに対してこういうことをやろうとするような気がして、寒気がします。
今の世の中、こんなことで世界を動かしてしまうのか
まあどこかの馬鹿大統領がツイッターで一言つぶやくだけで世界が動いている現状ですからねえ
こういう時に、独裁者は現れやすいのです。話し合いに任せていると、いつまでたっても政治が動かず、人々は荒んでいくばかり
そんな時に行動力のある人が現れ、現実に世の中を変える動きを見せると、人は盲目的についていってしまう
ヒトラーが行った方法と、酷似しています。
特に最近では、今回の参議院選挙の結果など、いろいろとため息が出ています
私生活が忙しく、なかなかこちらが書けないのが悔しいぐらい
で、今回のトリエンナーレ
少女像のことを書いた立場上、どうしても一言、という気持ちになり、取るものもとりあえず
1.トリエンナーレについて
愛知のトリエンナーレは、地元が誇る挑戦的なアートイベントとして、毎回テレビでも取り上げられています。
開催期間中は、地元の人が町を歩きながらにして、そのアートに触れることができるという距離感。
でもここ数回は、以前ほどマスコミで取り上げられなくなってきていると感じていました。
地元では有名なイベントですが、全国的には、まだ知られていない面が大きいと思われます。
「表現の不自由展・その後」は中止にする、ということで、全体が中止になったのかどうか、私はまだ把握していないのですが、
正直申し上げて、「見に来てもいない、主旨も理解していないくせに、匿名の無責任な暴言で簡単につぶすんじゃねえぞこの野郎」
の気分でございます。
簡単に言えば、一つの大きな美術展が、ヒャッハーのパリピもどきにつぶされた、ということです。
非情に気分が悪いです。
2.少女像について
しかし一方で、私がずっと述べていた通り、
少女像については、いろいろと問題があります。
一応作者のコメントでは、「これは、『共に』平和を考えよう」という思いを表したもので、反日の象徴とは考えていない、とのことです。
どちらかと言えば鎮魂の願いを表したもので、芸術品としての側面はそれほど重視していないと取れます。
現実としては、これでもか、と言うほど反日の象徴として使われまくっており、平和を願う、とは正反対の悪用がされております
もっと言えば、日本人という民族は、こういう年端もいかない少女も制の対象として強姦したがる民族だ、という民族バッシングにもっていきたいばかり
だから、この像そのものの芸術性には疑問だらけだし、これを見ることで平和に思いを馳せる日本人はいないし、
発禁処分ならぬ、展示禁止の過去を見せる意図で置いた、とする主催者の考えが分からない
タブーに挑戦したかったと?そんなもののどこに芸術があり、表現の自由があるのか?
誰かの言葉じゃないですが、大多数が不快になるとわかっている作品を、タブーへの挑戦として展示するならば、
誰の目にも簡単に触れられるような場所に置くべきではない
不快(と言うよりはらわた煮えくりかえる)をも芸術と呼ぶ、などとは、「芸術」という言葉の教祖に洗脳された欺瞞でしかない
日本は唯一の被爆国として、広島、長崎にいくつもの「平和の像」を置いています。
しかし、それらを果てしなくコピーして世界中に立ててキャンペーンしようとなど、全くしておりませんし、
被ばくで苦しんだ人たちの像を作って、反連合国キャンペーンを70年以上たってからやろうとすることはありません。
韓国が本当に平和を祈って活動しようとするのならば、戦後日本が行った補償が、自国内で正しく行きわたらず、なおかつ日本人に痛めつけられた人たちが、
自国内でさらにひどく差別され続けてきたことについてはっきりと言明し、国内を浄化するところから始めるべきでしょう。
日本は、慰安婦も徴用工も認めているし、謝罪もしているし、補償もしている
「そんな事実はなかった」と威張って言う日本人に対しては、存分に非難していただいて結構だが、自国(韓国)内での不正や、流していない情報については
もっとしっかり学び、目を覚ましていただきたい。
3.ネットの悪い牙
今回のトリエンナーレをはじめとして、ガソリンをばらまくだの何だのと
過激なことでお祭り騒ぎを起こして、一つのイベントを止めてしまったことについて
ネットの人たちはどう考えているのでしょうか?ただのヒャッハーとしか思えません
一見もっともそうで、面白そうならば徹底的に騒ぎ、正義とやらを武器に無責任に徹底攻撃をする
破壊が勝利である
今回の成功で味を占めたネット民は、今後もいろんなことに対してこういうことをやろうとするような気がして、寒気がします。
今の世の中、こんなことで世界を動かしてしまうのか
まあどこかの馬鹿大統領がツイッターで一言つぶやくだけで世界が動いている現状ですからねえ
こういう時に、独裁者は現れやすいのです。話し合いに任せていると、いつまでたっても政治が動かず、人々は荒んでいくばかり
そんな時に行動力のある人が現れ、現実に世の中を変える動きを見せると、人は盲目的についていってしまう
ヒトラーが行った方法と、酷似しています。