函館山の裾をロープウェイの方向へ進むと、称名寺(しょうみょうじ)の前に出ます。
門の前に、寺を紹介する掲示物が掲げられていました。
「箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館として利用され、境内に函館の語源と言われる「箱舘」の館主・河野政通の供養碑、墓地には日露漁業㈱創立者の堤清六など、著明な人の墓や記念碑がある」
と記されていました。
函館の語源と言われる「箱舘」って何なの?と思いググってみると、
「室町時代の1454(享徳3)年、津軽の豪族 河野政通が宇須岸(アイヌ語で湾の端を意味するウスケシ)とよばれた漁村に館を築き、その館が箱に似ていることから「箱舘」と呼ばれるようになった」だそうです。
知らなかったな~
そして日露漁業㈱創立者の堤清六ですが、
「1906(明治39)年に、新潟出身の堤清六と函館出身の平塚常次郎が創業した堤商会が日露漁業の始まりで、その翌年にロシア領のカムチャッカ半島へ行きサケ・マス漁で成功します。
日露漁業は昭和になって北洋母線式サケ・マス・カニ漁業を開始し社業を発展させた」そうです。
かっての函館は、北洋漁業の出漁基地として栄えましたが、その基盤を作ったのが堤清六だったようです。
称名寺の隣に実行寺
その隣に東本願寺船見支院が丘の上から海を見下ろしていました。
東本願寺船見支院の門の脇に「近代彫刻の先駆者 中原悌次郎の墓」と題する解説文が掲げられていました。
中原悌次郎の名は耳にしたことはありますが、詳細を知りません。
足りない教養を補う為にググってみると、
「1888年に北海道釧路市に生まれ、1897年に旭川に移り叔父の養子となります。札幌中学時代3年生の時に落第したのを機に上京して彫刻を始め、1910年の文展で初入選。
その後「石井氏の像」「行乞老人像」「若きカフカス人」などの作品を残しますが、貧窮生活の中で結核を患い、1921(大正10)年に34歳の若さで亡くなりました。
中原悌次郎は、荻原守衛、高村光太郎とともに、日本近代彫塑の柱となる人物と評されます。遺骨は実父に抱かれ、函館の中原家の墓に葬られた」
とのことです。
そうだったんですか、私は20代の後半を旭川で暮らしましたが、旭川駅から北に続く買物公園に数多くの彫刻が展示されていた訳を、この歳になってやっと理解しました。
列車の発車時間を計算しながら、東本願寺船見支院の前から、市電通りに通じる千歳坂を下りました。
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