森岡 周のブログ

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不確実な情報を楽しむ

2010年07月22日 20時59分55秒 | 脳講座

今日は神経系理学療法学の講義の最終日でした。3年生の後期の授業がなく、神経科学に基づいた臨床介入について講義ができずに残念なのですが、私の臨床推論のほんの一端を示しました。ついてこれない経験も重要と思い、そうしています。圧倒的な違いを感じることも大切なのです。私は科学者の研究を読み、圧倒的な論理の違いや、深さに圧倒されながら、生きていますし、今もそれで自らを省み続けています。

さて、今日はいかにして大脳―小脳連関に基づき誤差学習を生み出すか、実践を交えて話しました。これもほんの一端です。難しいけど面白いという意見が多いのがうれしい反面、これを簡単に教える方法を模索しつつ、毎年違う自分の講義を自らが楽しんでいます。講義はライブであり、来年同じことをしろと言われても難しいのです。骨格はあるのですが、ひょっとするとその骨格がすでにバイアスかもしれません。しかしながら、それが概念というものです。

先ほど、失行の質問をもらいました。その質問はある資料には観念失行は口頭指示や模倣の障害はない、ある資料にはあると書いていますが、どっちなのですか?という質問でした。学生なら記憶したいので、どっちかはっきりしろと言われそうですが、見方・観察の仕方ではどちらにも属するというのが正解でしょう。

観念運動失行は口頭指示、模倣の障害、観念失行は道具捜査や系列運動の障害といわれていますが、この深部を少し述べてみたいと思います。これはある意味正解ですがある意味間違いです。観念運動失行は「運動motor」という名称がついているように、身体のメタファーの障害です。それはたとえば身体の上、下とか、内、外といったように、身体の位置の変化に伴う身体運動のメタファーの障害です。口頭指示でも、バイバイをしてください。とおいでおいでをしてくださいとか与えるが、これは身体のメタファー、すなわち、手の上下(上げる・下げる)といった概念構築の問題であり、視覚入力に基づく模倣であっても感覚モダリティの違いだけです。一方、観念失行はよく系列動作の障害であるといわれ、前者の模倣障害は別と捉えられていますが、文献によっては模倣障害や口頭指示による行為に傷害をきたすといわれています。たとえば、机上にある本を開くという、ことの口頭指示や視覚的表象に基づく模倣障害はどうでしょうか。服を着るというのは?これは身体の上とか下、上げる、下げるといったメタファーのみではありません。自らが道具の操作の順序を組み立てられず行為障害が出現するだけが観念失行ではありません。本を開くという行為には、文脈が存在しており、状況によっては、「本を持ち上げて、右手で把持し、左手でめくる(開く)」という言語が存在しています。場合によっては手は逆になり、場合によっては、本を机に置いたまま、開きます。つまり、前で検査者が行い、それをまねしたり、あるいは、口頭指示するのも、自らの運動計画に基づき行為を行うのも、この文脈あるメタファー(言語)に基づいた行為であり、それは模倣させようが口頭指示させようが、言語、すなわち観念の失行なのです。一方、観念運動失行の口頭指示や模倣障害は、文脈を持たない身体のメタファーの障害なのです。難しい表現をしていますが、要は服をつかみ、袖を手に通し、ボタンをとめるという行為を見せ、模倣させるといったものは、模倣であるから観念運動失行ではなく、それ自体、もう文脈が存在しているため、「観念idea」なのです。ただし、観念失行のなかに観念運動失行がよく内在して、観念失行にも単純な模倣障害が出現しているというのは、それはベースが観念運動(身体)だからです。最終的には39野、40野に問題があれば、身体のメタファーにも言語・文脈のメタファーにも障害が出ます。しかしながら、頭頂葉上部―腹側運動前野の問題に限局されれば、単純な模倣・口頭命令、すなわち文脈性がない、あるいはきわめて少ない行為の障害に絞られてきます。

いずれにしても、様々な見解が存在していますが、その意味を理解し、自分なりの解釈を企て、推論をたてないと、人間の高次機能には対応できません。高次機能障害には、自分自身の思考を高次にしないと無理なのです。高次なものに単純な思考で臨んでも、それは無力を感じるだけです。こうした情報の不確実さを、自らの視点でどのように解釈し、目の前の患者さんの現象に対して推論を築くかが臨床の勝負になります。それには圧倒的な知識と、その知識に裏付けられた経験が必要です。知識のない経験こそが、「経験則(思い込み)」になります。誰かの情報に対して受け売りにならず、ある意見とある意見を自らの脳で対決させながら、自己の解釈をたてる、それが臨床推論になっていくのです。