森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

社会貢献という本質的な意味

2012年02月14日 13時13分24秒 | 日記
私はある意味アクター(俳優)である.
全国各地の講演先に呼ばれ,
講演というパフォーマンスをする.

本業は教育研究であり,
学生教育,大学院教育,そして実験,論文作成などが主業務である.
一方,近年,大学の役割は社会貢献を求められ,
アウトリーチ活動として,
本の執筆,講演活動を行う.

本の執筆や講演活動はある意味では社会貢献であり,
大学教員として,科学という情報をさまざまな人たちに提供する役割である.
いわゆる専門家としての意見であり,
メディアに登場するのもその仕事である.

すなわち,アクターという仕事は社会貢献の一環である.

翻って,現状の講演活動をみると,
いわゆる非営利団体からの依頼でなく,
営利団体からの依頼が増えてきた.

営利団体からの招へいはある意味,
営業の一環でもあるので骨が折れる.
すなわち,責任が講師に明確にあるからである.
例えば,動員がなかった場合,
講演がニーズにこたえれなかった場合,などなど.
前者にこたえるためには,
いかに学会活動できちんとしたデータを示し,
論文の出現回数が増え,
そして,一般書でなく科学書を書き,
広く情報を正確に伝えている,先方の営利団体では知る由がない努力を積み重ねている.
すなわち,動員がなかった場合は,
我々の日々の結晶である,論文や著書が評価されなかったと認識する.
したがって,そのための目に見えない努力は実は半端がないのである.
一方,後者の当日の講演がニーズにこたえられなかった場合は,
これはこれで身体的に相当にこたえるし,この対価をあまり考慮されていない.
10000円ほどの受講費を払って期待して受講された者に対して,
ある意味,適当に情報を伝えることができない.
そのためには,できるだけ新しい論文を読み,
つねに自分の解釈を更新し,
そして念入りなシミュレーションをして,
当日の疲労をも考慮しながらのぞむ.
この情報収集やシミュレーションに関しても,
主催者側は実は盲目的なのである.

なぜなら,そのような情報収集の経験が少ないからである.
人間の脳は常に自分中心に解釈を加える.
だから,この程度の時間の講演であれば,
この程度の情報収集量だろうな,と.
それがバイアスである.
当日公開する情報以外の削減した情報がいかにあるかは知らない.

私が最近の営利団体の主催者に言いたいことは,
プロデューサーとしての責任を持つということである.
講演運営屋ではない.
つまり,アクターとプロデューサーは連帯責任なのである.

当日の講演はうまくいかなかった責任は,
そのほとんどが,講演者が持つというシステムは良くない.
プロデューサーも責任を持つ,ということである.
アクターは使い捨てできるかもしれないが・・・

ただ回数を増やして,売れっ子と売れっ子でない者を折半するというのは,
機械的・物理的すぎる.
共同注意し,受講生のニーズにこたえる,
そして,裏方に徹し,アクターを支えるという意識を持っていただきたい.

巷の県士会が企画・運営する講習会はそれほど人が集まらない.
この問題は相当に根深く,現在進行形に生きている者と,現在進行形に生きていない者たちとの解離がここにある.
だからこそ,営利団体の講習会は今後ますます心地よい人間関係のもと発展していなかければならない.
講演をするということは,私たち学者にとっては社会貢献なんだから,
講演を主催する側も,それが社会貢献である点を忘れないでほしい.
営利目的を根本から否定するつもりは毛頭ないし,
それはそれで新しいビジネスの在り方であるとも思う.
しかしながら,人間社会と言うのはバランスが大切なのである.

一緒に腹を切る勇気があるのか,と問いたい.